昭和20年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、日本でなく、満州国に攻め込んだ。
日本の参謀本部は事前に情勢の把握はしていたものの、国に余力はなく、
ソ連が侵入してくれば、されるがまましか手がなかった。
”五族協和””王道楽土”に住む日本人は、そういう美名とは真逆の状況となり、開戦と共に棄民状態になった。
木山捷平さんは当時のことを、次のように書いている。
「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
翌朝,朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。
(芳井町「満州開拓記念碑」)
満州国には本土から、多の邦人が、豊かな暮らしを求めて渡り、
昭和20年8月9日の戦争開戦から、空前絶後の苦難の日々が始まった。
渡満の最大数は国策である「満州開拓団」で、
一例として後月郡芳井町を転記する。
「満州開拓回顧誌」 小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行
発刊によせて 岡山県知事 長野士郎
満州事変の勃発した昭和6年の、その翌年から始められた満州開拓は、
昭和史を語るうえで忘れることができないことで、
特に太平洋戦争ぼっ発後は、国運を決する重大な国策として推進されたものです。
進取の気性に富んだ本県後月郡芳井町では、昭和19年2月、東洋のザール地方といわれる石炭の産地錦州阜新市に分村して、入植するところとなり、団員一致協力して営農に取り組まれたのである。
その後、戦況は悪化し、団員皆様方は、いまだに経験したことのない異国での敗戦や食糧の乏しい収容所生活、幾多の苦難を乗り越えて、戦後をたくましく生き抜いてこられたのである。
序 元衆議院議員 藤井勝志
民俗協和、王道楽土建設の大理想を掲げ、日本民族の発展を目指した満州開拓は、
昭和7年から国策として強力に推進せられ、
昭和20年終戦までに、この大事業に参加した開拓民は、全国32万人を数え、
なれない大陸型の厳しい気候を克服し、戦時中の物資不足に耐えながら、未開の大地を開発して着々とその成果を挙げつつあったときに、敗戦という未曽有の悲劇に遭遇されたのである。
王道楽土建設、満州開拓による日本民族発展の大理想も、一瞬にして崩れ去り、
流浪と飢餓に苦しみ、絶えず生命の危険にさらされる苦難の生活を、異国で経験せられて、昭和21年6月、内地に帰還された。
この間多くの人々が飢餓に病魔にあるいは銃弾に倒れ、また行方不明となられ、
まさにこの世の生き地獄の毎日であったと思われる。
回顧すれば、
私の生まれ故郷芳井町では、農業の振興も狭少な耕地面積では限りがあり、
太平洋戦争下政府の要請に基いて満州開拓が計画され、芳井町を中心に、100世帯300人が錦州阜新市に入植された。
涙なくしては語れない生々しい戦後史の一ページである。
故人となられた開拓団関係の、多くの人々の御霊よ、どうか安らかに故郷の山河に眠られんことをお祈りする次第である。
(つづく)
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