しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「笠岡港まつり2022」花火大会を見に行った

2022年08月07日 | 令和元年~

 

3年ぶりの花火だったので、花火がずいぶん奇麗に見えた。
近郊の花火大会が、今年も軒並み中止のため、花火ファンが笠岡に訪れ、例年よりも多い人だかりだった。

 

(笠岡港まつり 2022.8.6 場所・笠岡市笠岡港)


JRは笠岡花火のため臨時列車が出ているが、
井笠バスは増発なし。
仕方ないので歩いて家に帰ったが、足が疲れた。

 

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「原爆記念日」軍都・広島のこと

2022年08月06日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年8月6日までに、岡山・米子・下関・宇部・高松・新居浜・松山・徳島・高知が空襲で焼失していた。
それでも、中国四国最大の都市であり、軍都でもあった広島は丸腰の丸裸であった。
一例として、徐州会戦では日本軍が来るを察して、城内に兵も民も誰もいなかった。

広島では、わかっていて何も行動せず、空襲されるのを待つような状況であったので、一層の大被害となった。

 

(撮影・2018.5.3)


毎年「あやまちはくりかえしません」と宣言しているが、
「逃げも隠れもできなかった」禁止され・許されなかった、というあやまちは、その中に含まれていない。

原爆投下は米軍で、広島市民は被害者という図式には、国家の責任転嫁が含まれている。
市民に「逃げるな」と命令していたのは国家だから。

 

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「父の野戦日記」②軍都広島に着く

2022年08月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

汽車は一路山陽本線を南下しつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。ご両親に最後の別れを告げる。大門駅で両親と別れ
故郷を後に一路汽車は進んだ。
福山にて姉妹と会う。
ああこれで最後。故郷よさらば。
ご両親よ健康に。
姉妹よ健康に。

軍都広島に着く
軍部のプラットホームに着く。 「ちゃのま旅館」に泊まる。
軍都広島の夜は実に美しい。
一夜を明かす。

市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。
船は岸を離れた。岸からの○○の声も次第次第に遠のく。
春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。 海上のすいきも、ああ船と共に進む。
○○も僕らの眼線より消えていく。 遠く近くにとびかうかもめも,山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。

昭和13年5月7日
※〇〇は解読不明の文字。

 

宇品の「陸軍桟橋」、ここから父も乗船したのだろう。撮影2016.11.2

・・・・

 

 

徐州会戦
(Wikipedia)
戦争:日中戦争
年月日:1938年4月7日 - 5月19日(6月7日)
場所:江蘇省(徐州)、山東省南部、安徽省、河南省(開封)
結果:日本軍による徐州占領と包囲戦失敗、中国軍による黄河決壊
徐州会戦または徐州作戦、
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
4月7日、大本営は「徐州付近の敵を撃破」することを命じ、不拡大方針は二ヶ月足らずで放棄された。

 

・・・・

 

「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行


徐州会戦のきっかけになったのは、徐州東北の数十キロのところにある台児庄の戦いである。
昭和12年末、徐州北方では第二軍の第十師団が済南を占領し、徐州南方では上海派遣軍の第十三師団が昭和13年1月下旬、北上を始めた。
第二軍は方面軍司令官を通じ大本営に「当面の中国軍が増大したのでこれを撃破したお」と要請した。
大本営はこれを認可したが、それは現地幕領の「決して南へ深く入る作戦でない」という言葉を信じてのことである。

台児庄には中国第二集団軍が待ち構えており、3月下旬から4月上旬にかけて、
南進してきた日本軍第十師団の瀬谷支隊、第五師団の坂本支隊と戦かった。
激戦が続き4月6日、とうとう瀬谷支隊が後退した。
坂本支隊が後退したようだと思い、孤立を恐れて後退を命じた。
ところが坂本支隊は後退していなかった。激戦中であって、その最中に瀬谷支隊が後退したことを知り翌7日坂本支隊も、戦線を離脱したのである。

中国側はこの勝利を、大いに宣伝した。
「この戦闘で敵の死傷二万、歩兵銃一万余、軽機九百五十、戦車四十、歩兵砲七十七門、大砲五十、捕虜無数、敵板垣、磯谷師団の主力は、わがために殲滅された」
と述べた。
これを受け、その後の台児庄の戦況を知って、大本営は4月3日徐州作戦の実施を内定し、
次いで4月7日、その実施を関係方面軍に下命したのである。

しかしこの徐州作戦の実施は、2月16日大本営御前会議で決められた不拡大方針にもとるものであった。

 

 

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「父の野戦日記」①待ちに待った出征の日は来た

2022年08月05日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

昭和13年5月3日、大日本帝国陸軍第十師団歩兵十聯隊の父は、中国大陸に向け岡山の聯隊を出発した。
父の筆からは、胸の鼓動が聴こえるぐらい気持ちが高騰しているのが見とれる。
新兵で入営5ケ月での野戦、無理もない。

 

(徴兵検査)

 

・・・・

「父の野戦日記」


新亜細亜の動きは日一日と深刻、決裂を深めている。
いよいよ壮士・先輩・諸賢の元に往くことにあいなる。
5月3日、来たるべき日はきた。待ちに待った出征の日は来た。
満場の声に送られつつ、なつかしい兵舎を後にし、戦友と別れをつげ自動車にて一路駅頭に向かう。
早朝より揺る雨は矢のごとく、僕らの出征を祝福するかのごとき岡山駅プラットホームを離れた。
時まさに岡山駅零時16分。ああ、これまさに最後だ。
歓送の音楽の音に万感の音、耳に満ち ただ一筋に心はおどる。
ああこれが彼女との最後の決別か!
「お元気でね」
汽車は一路山陽本線を南下しつつある。

 

・・・・

 

「1億人の昭和史・2」 毎日新聞社 1975年発行

盧溝橋には、満州事変のような”計画性”はない。
日中両国とも戦争を避けようとしながら、ずるずると深みにはまっていった。

 

 

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甲州名物ホウトウ料理

2022年08月05日 | 令和元年~

前月、生まれて初めて「山梨県」の地を踏んだ。

観光本に、山梨名物”ホウトウ”が大きく載っていたので、甲府市に着くと、ホウトウのお店に入った。

初めて食べるホウトウは”ぼっけい”美味かった。

次に山梨を訪れることがあれば、是非とも食べたいが、残りの寿命を思えば二度目はもう無さそうだ。

 


「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行

甲州名物ホウトウ料理

ホウトウは平安時代に伝えられた唐菓子の一種である。
小麦粉をこねて延ばし、方形に切ったものとされている。

ホウトウは甲州を代表する郷土料理になっている。
山梨県は県土の多くが山地であるため、稲作が乏しく、麦・粟・黍などがよく食べられてきた。
特に小麦粉を主な材料とするホウトウが主食になってきた。
「うまいものだよ、南瓜(かぼちゃ)のホウトウ」
ということばは、山梨県内のどこでも聞かれる。
南瓜に限らず、旬の野菜・山菜・きのこなどをふんだんに入れて煮込むことにある。

ホウトウのつくり方
小麦粉に少量の塩を加え、やや固めになる程度の水を入れて、手でよくこねる。
30分ほど寝かしてもう一度こねる。
のし板でのした後、ウドンより幅広く切って麺をつくる。
鍋にだし汁をとり、南瓜・にんじん・シイタケなどを入れて煮たてる。
麺が透き通るほど煮えたら、味噌で味付けし、ネギを入れて熱いうちに食べる。
ふうふう吹きながら食べるのはホウトウの醍醐味であるといえよう。

 

ホウトウに関する武田信玄の関与説があるのは、
甲州人の武田人気が高いことを意味している。
しかし、ホウトウの起源は古く、甲州においても古代からあったと思われる。

 

写真・2022.7.9

 

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茂平の七夕

2022年08月04日 | 城見小・他校

子どもの夏休みの日、家の横の道を、垣根越しに子どもの声と七夕が歩いていた。
大きな声と、半分見える七夕飾りで「ああ、そうか今日は七夕か」と気づくのが毎年のことだった。

西ノ谷の子どもが何組かで七夕飾りの行列、・・・といっても横に倒して路上をひこずりながら海に向かっていた。
胴山の子どもは、それで七夕当日と知り、庭の七夕飾りの紐を解いてから、海に向かう、
それが茂平の子どもの「七夕の朝」だった。

 

 

親たちは畑(のえ)に行って家は留守った。
夏休み期間は、茂平の親たちにとって、一年のかきいれ時で子供が起きた時にはもう、家にいなかった。
子どもは、七夕飾りを横倒しの状態で、茂平の水門まで持っていった。
水門前の海(「ひどう」と呼んでいた)に七夕飾りを流した。
先着や降着の七夕があり、子供心に”七夕”という行事を感じていた。


七夕飾りは、藪に行って竹を1本伐って家に持ち帰るところから始まった。
次に番屋に行ってナスビやスイカの飾りと、こよりなどにする紙を買ってくる。
紙に願い事を書き、こよりは女の子が作ってくれた。
家の庭(かど)の端にある杭の木に竹を結び、飾りをつけた。

毎晩、夕方になると涼み台と呼ぶ長方形の木製の台に座ったり、寝ころんで、
天の川や織姫や彦星を見ていた。
暗くなる前は蝙蝠が数匹飛んでいたが、夜になるといなくなっていた。
その頃には一日の仕事を終えた父も星を眺める日々があった。
(母は一度もない。女性は半分奴隷の時代だった)

後から想い出すに、子どもがいない家、子どもが男だけの家ではその家で七夕飾りを見たことがないような気がする。
女の子が主体の行事だったのだろうか?


・・・・


今日は「七夕の日」。
恥ずかしながら、管理人の子ども時代の「七夕」。↓

 

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盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか

2022年08月04日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

国家のデザインを描き、その意味を国民に説明し、最後に国会で決議し、実行する。
そういう首相は非常に残念ながら、滅多に出ない。
ここ30~40年間でいえば、
一に中曽根首相、二に竹下首相、三に・・・いないわ。
この二人だけ(涙)。

 

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号

盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか  井上寿一

昭和12年(1937)7月7日に北京郊外の盧溝橋で起きた、
日本と中国の偶発的な軍事衝突は、その4日後現地で停戦協定が結ばれた。

日中双方にそれぞれ事情があり、ともに戦争する気などなかったからだ。
日本は、対ソ戦の準備を優先させたかった。
中国は、国民党の蒋介石は共産党との内戦に備えるため軍事力消耗を避けたかった。

一つの要因として、日本が兵力を増員したことだ。
中国に圧力をかける背景があったが、新聞・雑誌の等のメディアが、
「断固排撃する」「膺懲(ようちょう)する」といった見出しの記事を掲げて、強硬論を展開するようになっていた。
「勝った、勝った」と威勢のいい話を求める読者向けの紙面づくりが主流をなした。
極端なことをいえば、戦争不拡大を支持したのは陸軍と外務省ぐらいだった。

昭和14年(1939)にはいると、日中戦争は膠着状態に陥る。
陸軍は「昭和15年中に戦争が終わらなければ、大規模な撤兵を行って、対ソ戦に備える」
という軍事戦略をたてた。
ところが昭和14年9月1日、第二次欧州大戦が始まった。
緒戦でヨーロッパを席巻したドイツとイタリアに最接近、三国同盟を締結した。

苦い教訓
日中戦争において日本政府は、戦争目的を「暴支膺懲」から「東亜新秩序」に変えたり、
蒋介石と和平を結ぼうとしていたにもかかわらず「国民政府を相手にせず」と宣言した。
国家のグランドデザインがなかった。
さらに戦争目的が曖昧であった、
二点目は、ポピュリズムの陥穽に落ちてはいけないことである。
三点目は、「組織利益よりも国益」の重視である。
陸軍と海軍はそれぞれの組織利益を守ろうとして、最終的に国家が破局を迎えた。

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号


両国の衝突をもたらした構図と問題の根源  岡本隆司

日清戦争・日露戦争に勝った日本人は、自国を「文明国」だと思い、
中国に「文明」を強要し、
「中国が日本のようになれないのは、劣っているからだ」
という考え方が根強かった。

「互いに相手のことを知らない」
という傾向はいまでも色濃く、根の深い問題である。
少なくとも、
「自分は相手をどこまでわかっているのか」
と、常に懐疑的であるほうが、泥沼の対立に陥る危険は小さくなるのではないだろうか。

・・・・

「歴史街道」  PHP 2021年9月号
「戦略」から読み解く泥沼化の真相  大木毅

昭和12年、盧溝橋の銃声は、およそ8年におよぶ日中全面衝突の引き金となった。
今日では国民政府軍兵士による偶発的射撃だったと考えるのが、もっとも説得力のある説とみてよかろう。
だとすれば、
この偶然、盧溝橋の銃撃がなければ日中戦争は起こらなかったのだろうか。
むろん、そうした主張は成り立たない。
それでは、日本政府や陸海軍は、当時4億の民がいるといわれた地大物博(ちだいぶっかく)の大国との戦争にあたり、
いかなる戦争目的を以ってのぞんだのか。
--驚くべきことに、
当時の日本には、戦略という名に値するような戦争指導方針はなかったのである。

昭和16年(1941)12月8日、日本は米英蘭に宣戦布告した。
短期間で中国を屈服させ、日本の要求を認めさせるはずだった「支邦事変」は、
連鎖反応的にその他の諸国との敵対につながり、
ついに世界大戦への突入をもたらしたのだ。
結局、大陸は日本にとっての鬼門でありつづけた。
そこでの戦略なき戦争は、長期にわたる多大な出血を招き、
さらには亡国の世界大戦をもたらしたのでる。

・・・・

 

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果物栽培の歴史

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

食べるもので、「日本人がスキヤキを食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、子どもの本にも載っている。
しかし管理人が牛のスキヤキを初めて食べたのは昭和30年代が終わる頃だった。

いっぽうで「日本人が果物を食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、小どもの本にも、ほとんど載っていない。

牛肉以上に人々の日々の食べ物として重要度が高いと思うが、なぜ書かれないのだろう?

 


・・・・

「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書  2011年発行

果物

わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。

中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。

現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。

20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。

・・・・

 

「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

果樹の話


庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

・・・・

 

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

明治30年代岡山県は桃を中心として質においても、量においても、全国に冠絶した果物の生産地として自他ともに許した。
そのゆえんはとりもなおさず優秀な先駆者たちが全霊を捧げ、身命を賭した努力によって栽培術を研究し、後進を誘導し、切磋琢磨の結果、技術的に卓越していたことにほかならない。
今次第二次大戦は面積の半減、園の荒廃によって当業の基本を大きく動揺させた。


文久2年頃旧児島郡で栽培。
梨は明治30年頃に発生した赤星病で減退が著しく、防除法がなかった。
葡萄への更新が行われた。
防除法は大正以降に属する。
昭和13年に赤星病・黒星病の防除方法が確立し、やや安定した栽培が続けられた。

・・・・


文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。

 

葡萄
明治10年頃児島郡東児で栽培。
明治20年前後、黒痘病などが蔓延、惨害を受けた。
防除法がないため廃園になった。
葡萄再興の動機は、
水田作への移行と、
キャンベルアーリーの導入であろう。

キャンベルアーリー
米国オハイオ州で明治24年交配して得たもので、本県へは明治30年前後の記録が残っている。
ネオマスカット
上道郡広田盛正氏が大正14年交配によって育成、昭和8年公表された新品種。


みかん
明治13年、小田郡広浜村渡辺淳一郎氏は萩から夏柑一本を初導入し、その後兵庫県から三百本購入栽培。
明治23年、宮内省から御用仰せ付けられ献上した。

無花果
明治30年、横井村蜂谷筆吉氏は呼松から購入栽培。
大正2年、小田郡城見村の生産12.000〆、内乾菓6.000〆供用せり。
初植は不明であるがかなり古くから栽培していたと思料される。

枇杷
明治41年、旧児島郡赤崎村中桐梅太郎氏は長崎県茂木村から茂木枇杷10本を購入栽培し逐次増殖した。

苹果(りんご)
明治42年、小田郡新山村、長尾円澄氏は紅魁、祝、国光三種を一反歩栽培。

 

・・・・

 

 

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小田郡新山村の農作物

2022年08月01日 | 大正

木山捷平が見た桃畑は、桃栽培が頂点の時代で、おそらく現代人が想像できない見事な光景を見ていたことになる。

大正4年の栽培本数は、昭和20年にはおよそ1/10まで減ってしまった。

戦後の新山は「桃」よりも「柿」の印象がずっと強い。

・・・



「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

木山捷平は明治37年、岡山県小田郡新山村山口に生まれた。
新山村は山陽本線笠岡駅から北へ約10キロ、尾坂川という小さな川を挟む山あいに開けた戸数450,人口2.300の農村であった。
当時の村人にとっては、笠岡は「米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり」する町であって、子供にとっては「一つの夢の国であった」(尋三の春)のである。

捷平は往時の村を回想して、
「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称せられた。
陽春四月が来ると、村は桃の花で埋まった。
切目山、坊山、長尾山、天神山と、村の田圃をめぐった山とは名ばかりの丘は、
ことごとく桃の花で包まれた。
しかし、桃の花が春の空でむせんでいたのはもうぼんぼり色の昔になってしまった。
今では私たちの村に桃の木はほとんどなくなった。
桃をぶち切っては梅を植え、
梅をほりかえしては桑にかえ、麦を撒く。
そんなことを繰り返しながら、村人はあえぎにあえぎ、もがきにもがいている。」
(『野』昭和4年5月)と述べている。
まさしく疲弊していく農村、貧苦にあえぐ農民たちの現実の姿を直視するのである。

・・・


「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

(新山の五花園)

 


文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。他。

 

・・・

 

 

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松浦岩蔵氏の葡萄経営

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

父が若い頃、果物栽培の先生として、教えを請いに伺っていた”岩蔵先生”の記事があったので転記して残す。

・・・

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

松浦岩蔵氏の葡萄経営

松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、
明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、
名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、
かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に
「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」
にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。

 

 

在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。
細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、
葡萄献納の光栄に浴した。
園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。
労力節減のため葡萄棚を高めた。
明治28年海岸に荷揚げ場を構築して、果物の集荷はほとんど舟艇を駆使して、
帰路必ず福山・笠岡・金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命成りとし、
選定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造技術を設け、加里給源として重用し、
当代すでに全面施肥、腐植の重要性を身をもって垂範していた。

床下を利用して貯蔵庫を作り、邸内空地は葡萄をもって埋め、小川の上に鶏舎を建てて塀を兼ね、除虫菊栽培の端緒を拓き勧説に務め、
犬をもって園番に任ぜしめ、用便に当たっては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、
その透徹した経営構造と実行力に衆人等しく驚嘆するところである。

また氏は生前、
もしこの事業成功の暁は全財産を四分し、
一は学校、一は旦那寺へ、一は青年団等の団体に提供し、
残りの一をもって一家を支えるのだ、とさえもらしていたと伝えられる。

昭和11年、大隅義一氏は果物月刊誌上に
「私の見た園芸界の傑物故松浦岩蔵君」と題して、
「千軍万馬の中を馳駆した英傑も病魔の強敵に勝つあたわず、
悲風凄然、偉業を遺して巨星墜つ、大正十四年十月十四日、享年五十有七、
実に本県園芸界にとって取返しのつかぬ大損失である」と述べている。

・・・・

(父の話)

 

茂平・国繁「不老園」のこと

「不老園」が果物をつくりょうた。
あの頃は,みんな果物をつくりょうらなんだ。

梨をつくりょうた。

 

・・・・・・

個人が主作りょうた。
市場に出すのに名前が要った。

戦争まで続いた。戦後は番号みたいなのになった。

長いこと茂平では「不老園」が果物の代表じゃった。


「西渓園」が干しいちじくをはじめた。

農園は30なんぼあってもだしょうらん名前だけのもあった。

大正~昭和初期の頃


2001年7月14日

・・・・・・

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行


隣保共同組織の結成

桃および梨を中核とする果樹栽培の意欲は年とともに高まり、
生産も逐年増大して地場消費、近郊消費での需要がこれに伴わず、
明治30年ごろから阪神など県外に市場を求めた。

本県果樹栽培の殆どが農家の副業で、僅々1~2反歩に充たぬ経営でも、
それぞれ園名を採用したことは奇異とさえ感じられるが、
当時としては一たび市場で商品を競う場合、何園、何印の呼称表示は取り扱いの便宜上からも必緊であった。

かく個人間の競争時代を経て、産地間の競争に移り、やがて生産府県の競争段階を迎えた。

 

・・・

 

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