しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

2021年10月01日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

日本暦の1月15日または16日が、毎年出発の日となっている。
出発の朝早く、江戸城まで護衛の人々が姿を現す。
やがて二人の長崎奉行が盛装して、われわれに祝詞を述べる。

島を出て、一歩を踏み出す。およそ午前9時と決められている。
奉行と公使(商館長)は籠に乗り、他の人たちは駄馬に乗る。
従者たちは歩いていく。





長崎から小倉までの陸路は、
大名が約100名の護衛の家来を、
海上の船旅では、水夫の数が加わる。
東海道では約150人(船での荷物が加わるので)に達することがある。
荷物は、普通1時間先に送られ、宿の主人にしてみれば、それによってわれわれがじきに到着することがわかるようになっている。

一日の旅程はかなり長く、早朝から夕方まで、時には真夜中に及ぶこともある。
毎日10~13里を進む。
海上では用心して夜旅は避ける。





九州の旅行中は、その接待ぶりが日本(本州)よりも称賛すべきものである。
城主の命令で、箒で掃かれ、水がまかれ、建物の前にいる人は簾の後ろにひざまずいて、われわれが通り過ぎるのを見守っている。
他藩領に入ると、派遣された重臣が、主人の歓迎挨拶を伝える。
大村や島原の港湾を渡るために、領主は自分の遊船とお抱え船頭を貸与され、
食事には暖かい料理を運ばせ、代金は取られない。
これに対して日本島の道中は、畏敬の態度をほとんど見かけなかった。
旅行中の接待には、十分に支払うのだが、それでも対応は馬鹿にしているようである。

オランダ人が馬から下りると(それはどうしても必要な時でなければ見られないのであるが)、先導者や先を行く騎乗者は立ち止まる。
それに続いて行列全部が止まる。
同心が二人の手下と一緒にやってきて、オランダ人の近くに立っている。
われわれを見張って、用便でも引き下がろうとしない。

われわれが泊まる宿舎は、大名と同じところで、それゆえ各地で一番上等である。
旅館では大名の流儀に従ってオランダ領東インド会社の帳幕と紋章がかけられている。
泊っている身分の高い客を知らせるためである。
われわれは、これらの旅館を毎年交互に泊まるので、帰路に泊まろうと思っているところでは昼食をとる。
こうゆうことで宿の主人の煩わしさを均等に分け合うのである。
主人は礼服である裃を着用し、短刀をさして村の入口まで出迎え、一人一人の前に立ち、へり下ったお辞儀をする。
それどころか付添検使とわが使節の乗り物の前では、主人は両手をつき、ほとんど地面につくほど頭を下げる。
終えると素早く家に立ち戻り、もう一度家の前でわれわれを出迎える。


夕方、運ばれてくる蠟燭は、中が空になっている。
夜の灯火には小皿を用い、それにイグサの芯を灯心にしてクジラ油か菜種油につけて燃やす。四角の行灯の中に置く。


同行の日本人は旅行中、毎日3度食事するが、さらに間食もする。
まだ夜明け前、起き上がって着物を着るとすぐに出発前に1回目の食事をする。
昼に、他の旅館で2回目を、
床に就く前に3回目の食事をとる。
食事はたいへん美味しい。
彼らは食事のあと酒を飲みながら歌をうたうなどして暇をつぶす。
オランダ人は静かに食べなければならない。
付いて来た日本人の料理人にヨーロッパ風に調理させ、食卓に運ばせる。
時には宿の主人から日本料理をさせたり、米のお酒を飲む。
中庭に出たり、風呂に入る以外は外へ出ることは許されず、大目にみてくれなければ隣の部屋にも行けない。

旅行中,気付いたのであるが、世界中いかなる国民でも
礼儀という点で日本人にまさるものはない。
身分の低い百姓から最も身分の高い大名にいたるまで大変礼儀正しい。
彼らは才気があり、好奇心が強く、異国の品物を大事にする。

この国では、人々は吉日を選ぶ。不幸を招かないようにする。
けれども、理性的な日本人にはほとんど問題視されてない。



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