しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ジーボルト「江戸参府紀行」序文

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ジーボルト「江戸参府紀行」 斎藤信・訳  平凡社  昭和42年発行

1826年の江戸参府紀行の序

この国の地理・住民の言語・彼らの風俗・習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。
私自身の小旅行は長崎の近郊を越えた程度に過ぎなかった。
遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。
彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやってきて博物標本や動植物の書物などを贈った。
数百名の患者は、珍しい博物標本を差し出した。
数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れていたし、昆虫採集の目的で他の人々を仕込んでおいた。





出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる友好関係のおかげで、約千種の日本と支那の植物を数えるにいたった。
また蝦夷や千島についてもある高貴な日本人を通じて、博物学および民俗学上の資料の貴重なコレクションを手に入れた。
私の見聞をひろめることが、いまや来るべき江戸旅行の主目的であった。
けれどもこの旅行には種々の制約があって、自由に研究し、その領域を広げることは期待できなかったから、
使節派遣が終わったのち、なお江戸に滞在し、
将軍家の医師に博物学や医学を教えることを口実にして、
状況次第で日本の国内を旅行しようという計画をたてていた。

私の計画を受けた蘭印政庁は、これに同意し、滞在費を含め強力に支援するようこのたびの使節に依頼してきた。

オランダの船舶は毎年わずか2回だけ貿易のために寄港することを許されていた。
12月にバタビアに出帆して、単調な静けさを出島の住民はとりもどす。
そうゆう時期江戸旅行の準備にとりかかった。



(江戸での宿舎、長崎屋)


先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、
公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。
この旅行で重要な役割を演じ、現金出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行う大通詞として末永甚右衛門がわれわれに同行した。
立派な教養と学問的知識をもっていた。
賢明で悪知恵もあった。少年時代に通詞の生活に入り、オランダの習慣に馴れていて、オランダ語を上手に話したり書いたりした。
長崎奉行の信頼も厚かった。

日本人の同伴者のうち最も身分の高い人物は給人で、御番所衆とも呼ばれ、出島では上級と言う名で知られていた。



使節は新式の家具や立派な食器類や銀器やガラス器を準備し、
私は、バロメーター・高度測定用のトリチェリのガラス管・温度計および寒暖計のほかに、
ロンドン製のクロノメーター・副尺がついて15秒をよみとることができる六分儀・精巧な水準器と羅針儀・電気治療器・組立式顕微鏡などを持っていった。
あとは小型のピアノ。
携帯用の薬品と普通の外科の手術道具をそれに加えた。


・・・・・・



蹄鉄は
日本では使用されていない。
牛馬の蹄には稲わらで作った靴をはかせるが、街道の至るところで旅行者用と同じように買えるよう吊るしてある。



(東海道53次・三島)



運搬人は、
荷を担ぐものと、駕籠舁(かごかき)がある。
彼らの鍛錬と忍耐と敏捷さには驚くが、彼らの節制を重んずるのは称賛に値する。
荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子が選ばれる。
駕籠を担ぐには相当の訓練がいる。
駕籠舁は数日にわたって40~60キロと歩かねばならない。
両脚は藁靴をはき、一種のゲートルをつけている。
長い杖を持つ。
身分の高い人々の駕籠舁も同じ。


街道
一般に道幅の広い街道には地形の許す限り両側にモミ・スギなどの陰の多い樹木を植えている。
街道はその領地の大名の費用で維持され、代官や庄屋の監督下にある。
大名行列がたびたび行き合うので、秩序を保つため、各々は道の左側にいて他の者には右側を行かせる。

一里づつ道の両側に小さな丘があり一里塚と呼ばれる。
不浄だと排斤されているエタという階層のものが住んでいる区間は、たとえ数時間を要する距離でも、距離には数えられない。


(舞阪の松並木)






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「江戸参府旅行日記」番外編... | トップ | シーボルト「江戸参府旅行日... »

コメントを投稿

「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト」カテゴリの最新記事