しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトの日本派遣

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「ケンペルとシーボルト」  松井洋子著 山川出版社 2010年発行

シーボルトの日本派遣

シーボルトはドイツで生まれた。祖父も父も医者の医者一家。
1815年大学に入学し、
医学に加え
化学・解剖学・薬学・物理学・植物学・人類学などを学んだという。
1822年「軍医としてオランダで勤務に就き、東インド会社の植民地へ行く」決心をする。
その理由は、
「博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ小生を他大陸へ遠征させる決心をさせた」と語っている。

当初ブラジルへ赴く、という交渉も受けており、どこであれ学問的に未知の土地で研究を行うことが目的だったと思われる。
1822年7月ハーグへ到着。
オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。26歳の医師には破格の待遇であった。
1823年2月バタビアに到着した。4月日本勤務を命じられた。
1823年8月11日長崎湾に入港した。





日本での活動

本来は商館駐在員の健康維持のためのものであったが、
彼の博物学研究に資するため、日本人に対する積極的医療行為を開始した。
11月にはすでに人脈を生かし、オランダ語で博物学と医学を教え始めている。
1824年には長崎市中に出張して教育を許され、郊外の鳴滝に家屋を購入し門人を寄宿させた。
効果が目に見えやすい医療を武器として彼を売り込んでいった。
出島の外での医療と教育が、とくに医師たちの前での手術や処方の臨床医療教育が彼への評価を高めた。

当初よりの使命であり関心事であった、博物学的調査、具体的には動物学・鉱物などの収集を手掛けた。
出島に植物園を開いた。
バタビアから、栽培が有益と思われるすべての種子や苗木を送るよう要請され、
植物園で育てた苗が発送された。


1826年、江戸参府を好機に、
幕府に江戸への長期滞在を認めさせ、日本について総合的調査を展開する計画を示し、承認と財政措置を求めている。

シーボルトは100年前の先人より、各段にめぐまれた条件にあった。
蘭学の発展は、オランダ語で彼と学問的な話をできる人々を準備しており、
その人々は彼の持つ医学を中心とする西洋の学問伝授を望んでいた。

ケンペルは、みずからの手で多くのスケッチを残しているが、
シーボルトには、彼のカメラ代わりになる画家がいた。
町絵師川原慶賀は日本人の生活、道具、風景を細密描写した。







江戸参府旅行

1790年以降、江戸参府は4年に1度に変更されていた。
シーボルトは2年半待たねばならなかった。

江戸での滞在を自分だけ延長することを画策していた。
一行の宿舎には、門人たちが多数の動植物の標本やスケッチを持参して訪ねてきた。
4月16日特別な日、最上徳内との出会いがあった。
徳内は数度にわたってシーボルトを訪問し、樺太探検の様子や、アイヌの風俗、蝦夷語、地理などを話し多くの情報を与えた。
学問的関心を同じくする者が、出会い、語り合う喜びは双方の胸に響くものであったい違いない。
天文方高橋景保との出会いは、のちに二人の運命を変えるものになった。
間宮林蔵とも会っていた。
江戸滞在中に訪ねてきた学者たちは、
将軍侍医の桂川甫賢・土生玄碩・栗本瑞見・津山藩医宇田川容庵・蘭学の大槻玄沢など、枚挙に暇がない。


江戸滞在延長計画

シーボルトは早い時期から、江戸での滞在を延長し、さらにあわよくば各地を旅行する許可を得たいと考え、バタビア政庁から承認されていた。
江戸滞在の延長は得られなかったが
復路では何軒もの植木屋を訪問して、品種改良や移植などの情報も得た。




シーボルト事件と国外追放

1827年7月、日本から帰還が決まった。
1828年の船で帰国の準備を進めていた。
間宮林蔵の勘定奉行に私物を提出し、外国人との私的文通が問題となり、
シーボルトは出島で厳しい監視のもとにおかれた。
1829年12月30日、シーボルトは日本を離れた。
『日本』の記述によれば、
シーボルトは収集品のうち多くを毎年の船ですでに送っており、
また没収の前に、もっとも重要な地図類などを夜を徹して写したという。
シーボルトのコレクションはさほど大きな影響は受けなかったとされる。



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