管理人は果物作りが盛んな、岡山県小田郡城見村茂平の農家に生まれた。
父母は桃を主に、葡萄・枇杷・イチジクを栽培し生計を立てていた。
米や麦、野菜類は作ってはいたが、自給用やトリカエ用で、売ることはなかった。
学校の教科書で、日本人は明治になって牛肉を食べ始めたと習ったが
ウチで牛肉を食べることはなかった。
食べる肉といえば、ウチではニワトリ、学校給食ではクジラだった。
父母が作っていた果物はいったい、
茂平で、そして日本で、いつごろから作られ、食べられていたのだろうか。
「五穀豊穣」を建国以来の国是としてきた日本では、意外と新しく明治中期の
祖父母や曾祖父母の頃から。
でもなぜ、リンゴや桃の果物が明治に始まったことをおしえないのだろう?
「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行
果樹の話
庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。
生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。
「江戸の食生活」 原田信夫 岩波書店 2003年発行
江戸食べ物事情
巨大都市江戸における果実の流通は、基本的には幕府への献上物の余りを水菓子問屋が市中に売りさばく、という形をとるもので、彼らは幕府への納人つまり納方を 務めていた。
これは原則的に魚類や青物も同じであったが、
果物のうち紀州蜜柑・甲州葡萄・立石柿の三種に関しては、一般の水菓子問屋とは別個に扱われた。
それぞれの品種に応じた特定の問屋仲間が、これに指定されており、慶応年間(1865~1868)には八組に編成されて、計181軒の水菓子屋を組織していたという。
こうした水菓子屋について、古くは貞享四(1687)年刊の『江戸鹿子』に、江戸市中や四谷付近の要所で果物が売られていたことがわかる。
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