しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻②すべての領域が崩壊していった

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

ソ連の侵攻は、天皇始め重臣たちの終戦決意を決定的なものとした。
「泥棒を見て縄をなう」、それさえも出来ない大日本帝国の末路だった。

 

 

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

「精鋭関東軍」の現実
急激に増強されるソ連軍に対し、誰の目にも日本側の劣勢は明らかであった。
日本は敗北を予感し、ゆえに、参戦そのものがないことを願ったのである。

おおよそ、
兵員で2.5倍、
火砲で30倍、
戦車・飛行機で26倍というようにソビエト軍が圧倒的に優勢であった。
関東軍の大部分は45年に入ってからの新設であり、
素質・装備・訓練なだあらゆる点でレベルは落ちていた。
第二五師団参謀の主任は語る。
「もう兵器がないんですよ。
砲隊はありましたが砲がないんです。そんな状態でしたね。
人間の数はそろえられますわ。
在満召集でね。開拓団なんてどんどん召集されたわけですよ。
でもね兵器がなければ訓練もできませんよ」
精鋭関東軍はというのは、「精鋭」に程遠いのが実態だった。

・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行
8月9日未明、
170万のソビエト軍は、
モンゴル人民共和国南部国境から
沿海州地方
樺太国境
に至る全戦線でいっせいに攻撃を開始し、国境を越えた。
モスクワ放送によってソビエトの参戦を知った大本営は、
9日、
「関東軍は主作戦を対ソ作戦に指向し皇土朝鮮を保持する」
と命令。
関東軍は全戦線で敗退を重ね、満州国はいっきょに崩壊した。

関東軍に置き去りにされた民間人は、ソビエト軍の猛攻撃
の下を逃げまどい、
飢えと寒さ、
そして病いが襲う逃避行のなかで20万人余りが犠牲となった。
ソビエト参戦の報に、日本国内は騒然となった。
それにさらに追い打ちをかけるかのように、9日午前11時過ぎ、長崎に、広島に次ぐ二発目の原爆が投下された。

軍部は最後まで本土決戦遂行を主張したが、二度にわたる「聖断」を経て、14日夜、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。

 


・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


ソ連の対日宣戦布告

広島に原爆が投下された情報は8月7日午前、モスクワに届いた。
戦争の果実は力でもぎ取らねば確実に味わうことができないことを熟知していたスターリンは、
その日の午後、対日軍事作戦の発動を極東ソ連軍に指令した。
8月8日、ソ連の回答を待ち続けた佐藤のもとにクレムリンに来るようモロトフから連絡があった。
佐藤に対し、モロトフは
「世界平和を求めたポツダム宣言を拒否した日本は、平和の敵であるとの理由により、
翌9日から戦争状態にはいること」を一方的に伝えた。
しかも、この
ソ連の参戦と、
ポツダム宣言への参加は、
米英中の了解のないまま行われた押しかけ参戦であった。

8月9日
朝鮮半島や満州国は多少の空襲があった程度で、ほとんど被害を被っていなかった。
そこに、突然ソ連軍が進攻し、地上戦が開始された。
こうして大日本帝国すべての領域が戦禍にまきこまれながら崩壊していく。
日本の指導層が受けた衝撃は計りしれないものがあった。
木戸は同じ日に二度天皇に拝謁したが、長崎の原爆投下は日記に一切記していない。
他の政治指導者の日記にも長崎の原爆投下は意外と少なく、

ソ連参戦一色に塗りつぶされている。
それほどソ連参戦の衝撃は大きかったのである。


・・・・・・

ここまで無残というか惨めな敗走はない。
こんなことになるなら、
4年前、ドイツに呼応して東西からロシアを攻めた方がよかった。
といいたくもなるが、それは後からなら、なんとでも言える話。

 

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