しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻①日本のはかない望み

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

日ソ中立条約は、
ソ連は、ドイツと日本の東西で戦争したくない。
日本は、アメリカとソ連の南北で戦争したくない。
という打算だけで条約締結した。

それから4年後、
ソ連は西の戦争が終わった。
日本は南の戦争で敗北状態、戦意も武器もなかった。そもそも、食べ物すらなかった。
そこへソ連が進攻した。

 

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「日本歴史21 近代8」 岩波講座  1977年発行

大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。


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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連

ロゾフスキー外務次官は1945年1月10日、モロトフに
「太平洋戦争はかなり早い時期に集結するだろう。だからその時までに我々は、
自由な手を持っていなければならない。つまり、我々は、
1945年4月13日までに中立条約の破棄通告を行わなければならない」
ところ現実には、
2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後2~3ヶ月以内で参戦する」密約が取り決められた。
もはや日ソ中立条約の期限満了などは問題にされなくなった。

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


陸軍武官補佐官の浅井中佐は
4月19日にモスクワを発ちシベリア鉄道経由で帰国の途についた。
本人の話
「いやもう驚いたですよ。
ウラルを越してから、びっしりです。
駅ごとにずーと軍用列車が並んでいた。
兵隊が乗ったのとか、戦車を積んだのとか、飛行機を積んだのとか。
それはもう、アッというようなものだった」
浅井中佐は4月26日満州に入り、参謀次長川辺虎四郎中将あてに打電した。
「シベリア鉄道の軍事輸送は1日12~15列車に及び、開戦前夜を思わしめるものあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」


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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


ソビエトの対日参戦準備
6月27日
ソビエト軍最高司令部が対日戦略の基本構造を決定した。
三方面から満州内陸部に侵攻し、奉天、長春、ハルビン、吉林などの中心都市を占領するというもので8月20日~25日と予定した。
すでに前年12月1日からソビエト軍最高司令部は、極東への兵器、弾薬、燃料、食糧などの輸送を開始していたが、
4月の日ソ中立条約不延長通告後、
シベリア鉄道の輸送力が大幅に引き上げられるとともに、物資の輸送が本格化した。
その情報はモスクワの日本大使館にも伝えられて、ソ連の対日参戦が切迫しているという不安を掻き立てていた。
当時の一等書記官の証言
「毎日1万の兵隊が極東に動いているというのだよ。
こうなればもう戦争は明らかですよ。
我々の計算では、まあ3ヶ月はかかるだろうと思った。
我々は8月の初め一週間か10日ぐらいの間に戦争が起こるだろうと、本省に電報したんですよ。
で、その通りになっちゃった。
誰もそれを読む人はいなかったという話ですけどね」


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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、
長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
構想は1月で、極秘に準備が進められていった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。


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「一億玉砕への道」  NHK取材班 角川書店  1994年発行

日本

8月6日、モロトフがモスクワに帰ったきたことを知った佐藤は、さっそく会見を申し出た。
翌日、モロトフは8日午後8時(日本時間9日午前2時)に会見する旨伝えてきた。
しばらくして8日午後5時(日本時間8日午後11時)に改めた。
その変更が、日本時間を考慮してなされたことに、佐藤がきづくはずもなかった。

日本の戦争指導者たちは、藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
モスクワの佐藤大使も
「なんとしても近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時刻にクレムリンに入った。
8日約束の時間にクレムリンを訪れた佐藤は、近衛特使に関する回答がなされると思っていた。
だが佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
日本への宣戦布告であった。
これによって、ソ連の仲介による日本側のはかない望みは絶たれた。


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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連参戦
昭和20年7月10日の最高戦争指導者会議で、天皇の親書を携えた特使(近衛文麿元首相)をソ連に派遣し、ソ連に連合国との間に和平の仲介を依頼することを決定していた。
しかしソ連は回答を与えず、引き延ばしをはかった。
そしてポツダム宣言が終わったあと8月7日になってようやく、モロトフ外相は、
翌8日に中ソ大使佐藤尚武と会見すると伝えた。
日本の戦争指導者たちは藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
佐藤大使も「なんとしても、近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時間にクレムリンにはいった。
だが、佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
開戦の通告であった。
日本側のはかない望みは耐たれた。
蜃気楼にも似た「幻想」だったのである。

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