しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦①”無条件降伏”(ポツダム宣言)

2023年08月12日 | 昭和20年(終戦まで)

第二次大戦の日本軍の作戦失敗、惨劇といえば、「インパール作戦」がまず挙げられる。
しかし、
日本の態勢を決したフィリピン「レイテ島の戦い」の方が、より悲惨度や規模が大きい。
作戦の始まりからして大本営発表の戦果を鵜呑みし戦況を誤り、陸海軍の将兵の多くの戦死者、初の特攻隊を生んだ。
軍指導者が、正常な頭であったなら、この時に戦争は負けて終わっていた。
ここで終戦していたならば、沖縄・硫黄島・原爆はなかった。千島列島も占守島まで日本のままだった。

づるづると昭和20年8月まで、外地では負け戦をつづけ、内地では空襲で都市は焼かれ放題となった。
その結果、国家指導者は”一億総玉砕”して、死なばもろとも、国民を道連れにして死のうとした。
世界の近代史上、ここまで国民を軽視した国家は・・・ない。

 

 

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ポツダム宣言の成立

7月17日から三国首脳会談がポツダムで開催された。
米国・バーンズ国務長官はアメリカ世論を懸念して天皇制の存続を明記することに反対した。
その代わり「日本国民は自らの政治形態を選択する自由を与えられる」と修正した。
すでに16日原爆実験が成功した報告がトルーマンに届けられていた。


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「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

7月26日ポツダム宣言が発出され、
8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、同じ9日にソ連が満州侵攻を開始した。
注目すべきは、この未曽有の危機にあっても戦争指導者と天皇は、即座に降伏を決断してないことだ。
彼らは国体護持と天皇制存置を譲れない条件と考えていた。

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「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

無条件降伏とは

グルー(国務次官・元駐日大使)はなんとしても日本に降伏して欲しかった。
いろいろ手を回して7月21日付で『ワシントン・ポスト』に、
「無条件降伏」という記事を掲載させた。

無条件降伏
1・議論することなく条件を受け入れること。
2・降伏のあと、日本が得られる条件については、
大西洋憲章、カイロ宣言、蒋介石の1944年演説、1945.5.8のトルーマン大統領の声明、ジャクソン判事の戦争犯罪者に関する声明に明記している。
3・大西洋憲章には勝者だけなく敗者にも一定の恩恵を与えることを保証している。
4・アメリカの軍法は、敗戦国を完全に軍事的管理のもとに置いてたとしても、
征服や占領によって敗戦国の主権を侵害しないことを明記している。

この記事の目的と意図は明確だ。
つまり日本人、とりわけ鈴木首相に対し、無条件降伏とはなにかを理解させることだ。
領土に関していえば、アメリカ自身は領土を得ることはないが、
次の領土はカイロ宣言により、日本からしかるべき人民に返還されるとしていた。
1・日本が1914年以降に取得した島嶼の放棄。
2・満州・台湾など清国から取得した領土の中国に対する返還。
3・朝鮮人民は隷属状態から解放され独立自立する。

グルーが日本側に伝えたかったことは、無条件降伏は無条件ではないということだ。
日本の上層部、とりわけ天皇、鈴木総理、東郷外相はトルーマン政権は、最終的には天皇制在置を認めると信じた。
とういうよりそれに賭けるしかないと思ったのだ。


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「近代戦争史第四編大東亜戦争」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

ポツダム宣言

国務次官グルーは、日本の早期降伏を促す為立憲君主制として天皇制保持を明言すべきであると論じた。
米軍の莫大な犠牲を避け、ソ連の参戦前に対日戦を終了さすことが、その狙いであった。
しかしハーンズ国務長官は、アメリカの世論は天皇制温存を受け入れないだろう、と反対した。
トルーマン大統領は天皇制の問題には触れないことを指示した。


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「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


揺れるポツダム宣言
米国政府内では、ポツダム会談以前、
駐日大使であったグルー国務次官が、
天皇の地位を保障して早期に終戦を図るべきだと進言していた。
スティムソン陸軍長官も同調していた。
だが、
米国の世論は天皇の戦争責任を求める声が強く、米国政府の方針は決まらないままポツダム宣言まで持ち越された。
ポツダム宣言の原案を起草したグルーは、戦後の米ソ対立を予見しソ連の影響力を押させておく必要を痛感していた。
そのためには日本を一刻でも早く降伏させソ連の極東への影響力を極力阻止しようとしていた。
知日家でもあった彼は、日本に降伏を受けれさせるには、天皇の地位を保全その一点にかかっていることを熟知していたが、
バーンズ国務長官は、天皇の地位を保障することに強い拒否感を持っていた。
バーンズは重鎮である前任のハルにアドバイスを求めた。
ハルは天皇の地位の保障を明記することには明確に反対した。

ポツダム会談では、
米国単独で対日戦を終結できると確信したトルーマンにとって、
ソ連の参戦は無用の助太刀でしかなくなっていた。
さらに、天皇の地位についても日本側へ譲歩する必要もなくなったと判断、
7月24日案をチャーチルと蒋介石に回付、両者の同意を得たうえで公表へと進めた。
宣言にソ連を加えることをあえてしなかった。
ソ連との間で対日戦について具体的な協議をする必要性を感じなくなっていたのである。
このことが、のちに大きな齟齬を生むことになる。

原爆開発の成功と、
ソ連の共同声明参加を明かにすれば、
日本は降伏の意思を表明した可能性は高かった。
トルーマンは日本の名誉ある降伏を認めず、米国単独で日本にとどめを刺すことに固執した。
(ポツダム会談中に英国総選挙があり、予想に反し、保守党は敗れた)

スターリンの対日参戦計画
米国の原爆使用によって日本が降伏してヤルタの密約が画餅に帰する前に、
対日参戦を急がねばならなくなった。
ソ連にとって幸運だったのは、この時期、日本が連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼していたことであった。
日本はソ連を唯一の頼みの綱として和平実現の可能性に期待をつないでいた。
むろんソ連は仲介する気などまったくなく、むしろ対日参戦の機会を狙っていた。
ソ連のしたたかなところは、仲介を拒絶するわけでなし、かといって仲介の姿勢を示すわけでもない、曖昧な態度を取り続けることで日本側に淡い期待を持ち続けさせ、対日参戦まで戦争をできるだけ長びかせることにあった。

日本陸軍
米軍を迎え撃つ本土決戦に、ソ連は静観して欲しいという期待感の蔓延で、
軍事的破局に直面した現実とソ連参戦という不気味な予兆の中で、
陸軍のエリート官僚たちから冷静な思考が完全に失われていた
とりわけ、ポツダム宣言にソ連が加わってないと
スターリンの焦りを生んでいることなど予測にもできず、
ソ連は仲介する意思をまだ持っているとまったく逆の判断ミスを犯してしまったのである。

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

7月26日
米英中三か国の名で、ポツダム宣言が発表された。
天皇制についてはふれられず、政体については
「日本国民が自由に意思にもとづいて平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されしだい、連合軍の占領軍は日本から撤退する」
というように、抽象的に述べられただけだった。

日本にとっては、
とくに天皇制について明示されされてないこと。
ソビエトの名が宣言国に含まれてないことが、大きな不安と無用の期待をいだかせる結果となった。
しばらく様子をみるということで、陸軍も外務省に同意した。
ところが28日午後の記者会見でポツダム宣言で問われた鈴木首相は、
「政府としては重大な価値があるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進するのみである」
と発言した。
鈴木首相の発言は、ポツダム宣言に対する日本政府の拒絶回答と受け取られた。
これで日本はいっきに、破滅への坂道を転げ落ちていくことになる。

ソビエトは、ポツダム宣言が相談なく発表されたことに不満をいだいていた。
アメリカの言い分は、ソビエトはまだ日ソ中立条約を維持しており参戦していないからだ。


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「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

連合国の対応

米国政府は日本の回答に困惑した。
日本政府の通告は、
無条件降伏を求めた宣言を受諾したものなのか、
それとも拒否しているのか明瞭ではなかったからである。
トルーマンは「こんな大きなただし書き」がついた回答文を無条件降伏とみなせるのか、判断に迷っていた。
バーンズは国務省で回答文の草案を起草することになった。
「日本政府の形態は、ポツダム宣言にしたがい日本国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
バーンズ案に対しソ連から「連合国最高司令長官は」一人ではなく複数とすることを要求してきた。
日ソ戦をもう少し長引かせたいソ連にとって、戦争の早期終結は都合の悪いことことだった。
日本占領に対して強い発言権を握って相応の権益を確実に手に入れたかったのである。
しかし、このソ連の要求は米国の強硬な拒否にあって撤回された。
バーンズ回答は11日付で、スイス経由で日本政府へ伝えられた。
トルーマンは、それと同時に連合国最高司令官にダグラス・マッカーサーを任命、
日本占領からソ連を排除して米国単独で行う決意を固めた。

・・・

 

          つづく終戦②国体護持

 

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1 コメント

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玉音放送 (killy)
2023-08-12 19:30:56
私の町内会では一軒だけラジオがありました。終戦当日には、ラジオのある家のオジサンだけが興奮して近所に教えていたそうです。
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