しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年、食べる物がない④学校農園

2023年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

文部省はついに、学校のグラウンドを掘り返して農場にするよう命じた。

・・・

 

(昭和19年頃、広島県福山市旭国民学校)

義兄の写真、この後、義兄は岡山県陶山国民学校に縁故疎開した。

 

・・・・・・

「岡山教育史」

「青少年学徒食糧、飼料増産運動」
昭和16年2月、文部省は各道府県に対し「青少年学徒食糧、飼料増産運動」通達を出し、
「1年を通して30日以内の日数は授業を廃し、国策に協力せしめる」作業にあてることとした。
その日数は授業時間とみなすこととなった。
作業は軍人家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。

戦争末期の食糧増産運動
最初、生産的意義よりも教育的意義が強調されていたが、
しだいに労働力不足を補うようになってきた。
食糧不足は深刻となり、
学校も総力をげて増産運動に取り組むこととなった。
昭和17年10月31日付で岡山県は、
植物油の増産が急務として児童生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、
トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料株式会社神島工場となっていた。
昭和19年10月5日付、岡山県は堆肥確保のため草刈り動員の文書を出した。
これは肥料事情の悪化に伴い、
自給肥料、特に堆肥の増産確保が緊急の要務となり、政府が呼びかけたものであるが、
国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。
岡山県の目標量は5.223貫となっていたが、
農村の採草地をさけて採集する注意があったので、いっそう困難であった。
初等科の児童は、この動員の対象にはならなかったが、
食糧増産は至上命令であったので、
乾草刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、麦刈り作業など、児童でできることは積極的に協力奉仕した。
都市部の学校でも、
学習園は全部食糧園にきりかえ、運動場の周辺も掘り起こして畑にした。
そこに、
いもや豆やヒマを栽培した。
中高学年の児童はバケツを手に、馬糞を拾い集めて歩く風景もよくみられた。
学校の肥料にした。

 

 

昭和19年3月、
「時局は愈々逼迫し主要食糧の供給確保が決勝の一大要件たる現状に鑑み更に、
河川堤防及び法面学校校庭一切を挙げて最大限度に利用し食糧自給態勢の確立に積極的寄与を為さしむることと相成り」として
岡山県は次の事項を指示している。

1
学校に於いて利用の対象とする土地
(イ)体操場(運動場)は支障のない限り利用を図ること。
(ロ)校地に耕作し得る余地あるものは地用を図る。

栽培作物
甘藷、馬鈴薯、大豆、蕎麦、玉蜀黍、栗、ほか

種苗の確保
原則として昨年収穫の種子を活用すること

学徒の勤労協力
学校行事に支障なき限り協力すること


昭和19年11月7日
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたいとして、次の事項を命じている。

田園化すべき面積
其の外を田園化する

中学校・青年学校
体操教練に必要なる最低面積
国民学校
初等科総数一人当たり0.8坪、高等科1坪。

観賞植物等は、食料農作物に転換すること。
至急作付けを行うこと。

 

・・・

「鴨方町史」より転記
ヒマの栽培

その他
各学校では、児童等に桑の皮はぎをして供出さす。

学童をして、航空機用油に、松やにの採集をして供出さす。

20年8月15日、筆者は学童を連れて、この作業のために、学校近くの山中に出向いており、知らせにより急きょ帰校して玉音を聞いた。


・・・・

 

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会 

学校農園
前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭に及び、学校農園と呼ばれた。

中等学校・青年学校は教練・体操用に必要な最低面積を残し、
国民学校は一人当たり0.8坪分を残し、すべて掘り返され畑になった。
甘藷、ジャガイモを栽培した。
玉島高女では馬糞拾いに精出した。

 

・・・


「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

肥料確保
戦争末期の食糧増産運動 

国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。

初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。

児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。

 


・・・

大門町誌「大津野のあゆみ」より

昭和20年3月になると、国民学校初等科を除き、
高等科から大学まですべての授業を4月1日から1年間、原則として停止し、学徒は根こそぎ動員されることとなった。
そして大津野国民学校の高等科の児童は、
連日近くの工場や軍需物資・食料などの輸送、山野の畑地開墾作業等に動員された。

初等科の児童も運動場を耕して、
さつまいもの栽培、いもの葉柄摘み、松根堀り、樹(松)脂採取、田植え、麦刈りや稲刈りなど、勤労作業に動員された。

・・・・・

 

 

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1 コメント

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法面耕作 (killy)
2023-08-10 12:56:36
この時代の名残か、祖父は死ぬまで(昭和54年)小田川法面にカボチャ、カンピョウを植えていました。
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