しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

旧西田川郡役所

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市家中新町

鶴岡市は庄内平野の豊饒な地にあり、街からは鳥海山や月山を望める、落ち着いた城下町。
冬には「雪の降る町を」の音楽祭があるそうだ。

 


「歴史と文学の廻廊」 尾崎秀樹 ぎょうせい 平成4年発行

鶴岡

雪の降る町
中田喜直が作曲した「雪のふる町を」のメロディは、鶴岡で生まれた。
鶴岡が地吹雪に見舞われるころ、市民たちの「雪の降る町音楽祭」が催しされる。
この雪は、雪どけとともに庄内平野を潤す大切な水となる。
高山樗牛は鶴岡が生み出した英才である。
藤沢周平は、時代小説に異彩を放つ。
横光利一は鶴岡にある、妻の生家に疎開する。
「私は山形県の庄内平野に這入ってきたとき、ああここが一番日本らしい風景だと思った」

 


西田川郡役場


(山形県HP)

鹿鳴館時代を今に残すルネサンス風擬洋風建築 旧西田川郡役所(鶴岡市)

『旧西田川郡役所』は庄内を代表する建築家、高橋兼吉が手がけたルネサンス風の擬洋風建築で、
明治開花期といえる鹿鳴館時代を偲ぶことが出来る建築物である。

沿革

1876年(明治9)の廃藩置県によって置賜、山形、鶴岡の3県が統合し、現在の山形県が誕生した。
その後1878年(明治11)、郡制が施行され県下に11の郡が置かれ、鶴岡は西田川郡となり、郡役所が設置された。
設計・施工は当地の大工棟梁高橋兼吉・石井竹次郎があたり、翌年5月馬場町に落成し、この年の明治天皇の東北巡幸の行在所となった。
1969年(昭和44)12月に国の重要文化財に指定。
1970~72年(昭和45~47)、現在地に移築復元、保存され、致道博物館の展示館となっている。

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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神田明神

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区外神田二丁目  


銭形平次が住んでいた神田明神下から、男坂を登り、神田明神にお参りした。

・・・・

「街道を行く・神田界隈」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行

「江戸っ子というのは・・・ただ、その・・・威勢がいいってだけのものでございますな」
古今亭志ん生が『祇園祭』のマクラで、いきなりそういうのである。

この噺では、江戸っ子が京見物をする。
逗留先で京都の番頭と、お国自慢のやりとりをするのである。

江戸っ子のほうは、
京なんざ寺ばかりで陰気で仕様がねえといい、

京都のほうは、
江戸はあんた、犬の糞だらけどすがな、

といってたがいにらちもない。

やがて祭の自慢になる。
京都は祇園祭ほど上品なものはない、といえば、江戸っ子はやりかえして
神田祭を活写し、神田囃子を口でやってしだいに相手を圧倒する。

志ん生は口一つで鉦、太鼓、笛、かけ声を入りまぜ、雷鳴と怒涛を一挙に擬声化する。

 


神田明神

(東京観光財団)


1300年の間、ビジネスの街で東京を守り続ける神社

「神田明神」は730年に現在の大手町近くに建立され、江戸時代に現在の場所に移り、徳川家康も参拝していたと伝えられています。
秋葉原に近いことから、パソコンやスマホに対応したIT用のお守り「IT情報安全守護」を扱うなど、常に時代や町を見守り続けています。

 

1300年の歴史を持つ神社は、時代に根ざしたお守りも扱います
日本三大祭の一つ「神田祭」は、奇数年の5月に開催されます


神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など、108の町々の総氏神である「神田明神」。
豊穣や縁結びの神とされる大黒天、漁業と商売の神様・恵比寿、平将門が祀られ、商売繁昌、縁結び、開運を祈願する人々で賑わいます。

 

奇数年の5月には、日本三大祭の一つ「神田祭」が開催されます。
日本橋や大手町など東京の中心エリアを含む30キロメートルにわたり、数千人の大行列が巡行します。
また、秋葉原が、神輿と担ぎ手、観衆で埋め尽くされる様子も壮観です。

 

神田明神

(Wikipedia)


神田祭を行う神社として知られる。

神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。

旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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湯島天神

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都文京区湯島3丁目 

小説『女系図』は読んだことはないが、
この歌はよく知っている。
小畑実の甘い声が印象的だった。


湯島通れば思い出す
お蔦 主税の心意気
知るや白梅 玉垣に
のこる二人の 影法師
「湯島の白梅」

唄の舞台にやってきた。

 

 


(湯島天神のHP)

湯島天神


湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。

近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。

また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。
文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。

泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。
また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われている。
また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。

 

 


訪問日・2022年7月10日

 

 

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