場所・山形県鶴岡市羽黒町手向 三神合祭殿
五日、 権現(ごんげん)に詣(もう)づ。
延喜式(えんぎしき)に 「羽州里山(うしゅう・さとやま)の神社」 と有り。
書写(しょしゃ)、 「黒」の字を「里山」となせるにや、
羽州黒山を中略して 羽黒山と云ふにや。
出羽(でわ)といえるは、「鳥の毛羽(もうう)を此の国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」
と、 風土記(ふどき)に侍(はべ)るとやらん。
月山(がっさん) 湯殿(ゆどの)を合せて三山(さんざん)とす。
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「おくの細道」 池田満寿夫 NHK 1989年発行
芭蕉にとって、
『おくの細道』は歌枕の地を実証する旅であった。
また蕉風俳諧を拡める興業の旅でもあった。
また不易流行の思索と創作への旅であった。
『おくの細道』の旅から帰り、その紀行文を完成させるために
更に五年の歳月を必要とした。
芭蕉の俳文と俳諧の総決算をめざした創作を完成させたのである。
若し芭蕉が『おくの細道』を旅しなかったら、
みちのくにほれほどの史跡が忘れられずに残っていただろうか。
芭蕉の夢は今、みちのくに花を咲かせたのである。
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「奥の細道を旅する」 日本交通公社 JTB 1996年発行
羽黒山(はぐろさん)
羽黒山の門前町が手向(とうげ)。
今も7~8月には白衣の講中が、出身地による定めの宿坊へ向かう姿が見られる。
芭蕉が訪れた頃には、約2キロの町並みに約300軒の宿坊があったとか。
今は約1/8の34軒。
もっともムードがあるのは桜小路あたり。
芭蕉は南谷の紫苑寺へ、6月3日午後6時ごろ到着したと思われる。
三神合祭殿
合祭殿は茅葺屋根、朱塗りの重厚な大建築で、文政元年(1818)の建造。
神仏習合の名残を色濃くとどめている。
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撮影日・2022年7月10日