しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

城見小学校6年生との”昔話”

2022年07月06日 | 城見小・他校

2022年7月5日、母校・城見小学校6年生に昔話を語る機会があった。
私はFさんと2人で6人グループの前で話した。
そのFさんの話を、記憶があるうちに書いて残す。
(注意・聞き間違いがあるかもしれない)

 

・・・

 

Fさんの話

 

私が城見小学校に入る時、
城見小学校は「城見国民学校」に変わりました。
私が卒業する時に、「城見国民学校」は無くなりました。
第一回目の「金浦中学校」(青年学校かも?)の入学生です。

校庭に奉安殿がありました。
その前を通る時は、頭を90度まげてお辞儀をしていました。
ある時、お辞儀の仕方が悪いと午前中ずっと廊下に立たされたことがあります。
奉安殿の北隣に宿直室がありました。
奉安殿を守るために先生が寝泊りしていました。

 

(城見小・奉安殿)

 

式の時は、校長先生はモーニング姿で、白い手袋で、奉安殿からの教育勅語を受け取っていました。
校長先生はその時は、極度に緊張し、手が震えていました。

遠足先は、吉浜の天神、大見山などです。

 

戦争の行方が悪くなるころ、疎開してくる生徒で教室はいっぱいでした。
50何人の同級生が70人を超えるようになりました。
教室の机を横列だけでなく、縦にも囲むように置きました。
前に行く(教壇・黒板)のがぎゅうぎゅうでした。

学校の農園(大見山の麓)に芋を植えていました。
その頃、肥料はなにもありません。
上級生は学校の便所から肥たごを担いで、そこまで運んでいました。

空襲警報は日に二回出る時もありました。
どの家や地域にも穴を(防空壕を)掘っていました。
家の壁は黒く塗っていました。
大津野飛行場から近いので、城見もグラマン戦闘機の攻撃を受けることがありました。
その時は、家の壁などにへばりついていました。

学校の講堂(真田講堂)に兵隊さんが来て、場所を半分使っていた時がります。

 

(城見小・綱引)

 

終戦後、私の家に、買い出しに来た少年がいました。
着るもの、または糸と、食べものを交換するのです。
こちらが渡すものは芋でした。
その時の少年は、同じ年の子でした。
無事、家まで帰ったのでしょうか、今でも気になります。
たぶん、大人に取られた(横取り)のではないかと思います。
みんな、その日の食べものに飢えていたのですから。


・・・・


以上は記憶を文章にしたもの。
再度、Fさんにお聞き・確認して、城見地域の歴史記録にしたいと思っている。

 

コメント
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