場所・東京都足立区~荒川区 千住大橋
千住大橋には「千住大橋駅」から行った。
橋の袂には、多くの記念碑があり、
橋の下におりると絵図による説明板などがあり、
さすがに古くからある千住大橋は今も大切にされていることを感じた。
橋を渡ると(足立区→荒川区)、大きな素戔嗚神社があり、
南千住駅前には芭蕉の出立の像が建っていた。
「街道をゆく・本所深川」 司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行
千住大橋
千住大橋がみえてきた。
隅田川がまがっている両岸の低地を千住という。
江戸から奥州(あるいは日光や水戸)へゆく最初の宿があったところである。
江戸時代、幕府は隅田川に五橋を架けた。
千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋。
千住大橋は江戸時代を通じ、幾度か架け替えられたが、洪水で流出すということは一度もなかったといわれる。
家康が架けた千住大橋は、架けられてから二百七十四年後の慶応四年四月十一日、
最期の将軍慶喜がこの橋をわたって退隠の地である水戸にむかったとき、江戸がおわった。
千住大橋
(Wikipedia)
橋の歴史
最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。
「大橋」とよばれ、渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。
江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため
両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。
千住大橋は何度も改架、改修が行われ、計6回に及ぶ。
なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。
最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。
明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。
その後、明治19年(1886年)に 二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。
タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
訪問日・2022年7月13日