しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お玉ヶ池の千葉道場

2022年07月20日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区神田東松下町

 

秋葉原駅から神田駅までの町歩きで、来てみたいと思っていた”お玉ヶ池の千葉道場”の地を訪れた。

マンションやビルに挟まれた一角に小さな記念碑が建ってる。

もちろん”池”はないが、

近くに二刀流の道場があり、道路から見える稽古風景が千葉道場に地であったことのイメージができた。

 

・・・・・

「お玉ヶ池の千葉道場」といえば、
”天保水滸伝”の平手酒造や、
♪剣をとっては日本一の、赤胴鈴之助をまっさきに思いうかぶが、
残念ながら平手酒造は実在の剣士ではあるが、千葉道場とは縁がなく浪曲や講談や流行歌の作り話らしい。
赤胴鈴之助は漫画雑誌「少年画報」の少年剣士。のちにラジオ、テレビ、映画にも。
赤胴鈴之助の友達だった”さゆり”(←吉永小百合のデビュー作)も架空の人。
道場に実在したのは、千葉周作先生だけということなる。

 

・・・

 

「歴史と旅」  昭和55年6月号  秋田書店

剣術隆盛江戸の三大道場
千葉道場

幕末になると身分制度が崩れ、帯刀も武士の特権でなくなっていた。
庶民の中にも帯刀する者があり、武芸を習うという風が生じてきた。
そういう時代の要求によって、剣法道場が増え、
道場は企業として経営され、入門者も本気で剣を習うという機運が昂まってきた。

とくに千葉・桃井・中西の三大道場は評判が高かった。
斎藤弥九郎や男谷精一郎という声もある。
これらのなかでも、江戸最大の道場は、なんといっても千葉周作の北辰一刀流・神田お玉ヶ池の「玄武館」であった。

門人を見ると、
出羽出身の尊攘志士「新徴組」の清河八郎。
桜田門外で井伊大老の首級をあげた有村次郎左衛門。
新選組の山南啓助・藤堂平助、
新選組と分かれた伊東甲子太郎。

 

・・・・


「街道をゆく36」 司馬遼太郎  朝日新聞社 1992年発行

於玉ヶ池


於玉ヶ池という池は、江戸初期にはなお存在していたらしい。
周作のころは、於玉ヶ池はほとんど町方の地所だった。
周作は、旗本屋敷の跡を買って道場にしたという。
周作死後も千葉道場の隆盛はおとろえず、門人を収容しきれないほどの大道場になった。

いまは、道場跡も、なにもない。
於玉ヶ池という地名もない。
縦長のビルがひしめき、土一升も営業目的以外には使わないというまちになっている。
ただ、千桜小学校の校庭に立ったときは、かろうじて空が広かった。


・・・

司馬遼太郎先生が立った千桜小学校は20年ほど前に統合廃校、15年ほど前に建物解体で、

「かろうじて空が広い」場所は存在していない。

 

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訪問日・2022年7月9日

 

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富士川の戦い

2022年07月20日 | 【史跡】を訪ねる

場所・静岡県富士市 富士川

 


「平家物語」 瀬戸内晴美 世界文化社  1976年発行

富士川

さて、いよいよ明日は源平富士川で矢合せと決定した。
その夜の夜半ばかりのことであった。
富士の沼に無数に泳いでいた水鳥が、何に驚いたか、一度にぱっと飛び立った。
その羽音が、大風か雷のように聞えた。
平家の軍兵たちは、
「それ、源氏の大軍が押し寄せてきたわ。
ここは退いて尾張川墨股を防ごう」
と、取る物も取りあえず、我先にと逃げ落ちていった。

あまりにあわて騒いで、
弓持つ者は矢を忘れ、矢を持つ者は弓を忘れ、人の馬に自分が乗り、
わが馬には人に乗られる。
あるいは杭につないだ馬にとび乗り、杭のまわりばかり回っている者もある。
近在の宿場宿場から呼び集めていた遊女たちは、この騒ぎで、
頭を蹴割られたり、わめき叫ぶ者が少なくなかった。

あくる日二十四日の午前六時頃、
源氏の軍勢二十万騎が富士川に押し寄せて、大地もゆらぐばかりに、鬨の声を三度あげた。
平家方は音もしない。
兵をやってみると、
「敵の陣には蠅さえとんでおりません。」
という。
遊女たちは、
「ほんとに呆れかえってしまうよ。」
と嘲笑しあった。

 

 

訪問日・2022年7月9日

 

 

 

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