場所・東京都千代田区神田東松下町
秋葉原駅から神田駅までの町歩きで、来てみたいと思っていた”お玉ヶ池の千葉道場”の地を訪れた。
マンションやビルに挟まれた一角に小さな記念碑が建ってる。
もちろん”池”はないが、
近くに二刀流の道場があり、道路から見える稽古風景が千葉道場に地であったことのイメージができた。
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「お玉ヶ池の千葉道場」といえば、
”天保水滸伝”の平手酒造や、
♪剣をとっては日本一の、赤胴鈴之助をまっさきに思いうかぶが、
残念ながら平手酒造は実在の剣士ではあるが、千葉道場とは縁がなく浪曲や講談や流行歌の作り話らしい。
赤胴鈴之助は漫画雑誌「少年画報」の少年剣士。のちにラジオ、テレビ、映画にも。
赤胴鈴之助の友達だった”さゆり”(←吉永小百合のデビュー作)も架空の人。
道場に実在したのは、千葉周作先生だけということなる。
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「歴史と旅」 昭和55年6月号 秋田書店
剣術隆盛江戸の三大道場
千葉道場
幕末になると身分制度が崩れ、帯刀も武士の特権でなくなっていた。
庶民の中にも帯刀する者があり、武芸を習うという風が生じてきた。
そういう時代の要求によって、剣法道場が増え、
道場は企業として経営され、入門者も本気で剣を習うという機運が昂まってきた。
とくに千葉・桃井・中西の三大道場は評判が高かった。
斎藤弥九郎や男谷精一郎という声もある。
これらのなかでも、江戸最大の道場は、なんといっても千葉周作の北辰一刀流・神田お玉ヶ池の「玄武館」であった。
門人を見ると、
出羽出身の尊攘志士「新徴組」の清河八郎。
桜田門外で井伊大老の首級をあげた有村次郎左衛門。
新選組の山南啓助・藤堂平助、
新選組と分かれた伊東甲子太郎。
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「街道をゆく36」 司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行
於玉ヶ池
於玉ヶ池という池は、江戸初期にはなお存在していたらしい。
周作のころは、於玉ヶ池はほとんど町方の地所だった。
周作は、旗本屋敷の跡を買って道場にしたという。
周作死後も千葉道場の隆盛はおとろえず、門人を収容しきれないほどの大道場になった。
いまは、道場跡も、なにもない。
於玉ヶ池という地名もない。
縦長のビルがひしめき、土一升も営業目的以外には使わないというまちになっている。
ただ、千桜小学校の校庭に立ったときは、かろうじて空が広かった。
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司馬遼太郎先生が立った千桜小学校は20年ほど前に統合廃校、15年ほど前に建物解体で、
「かろうじて空が広い」場所は存在していない。
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訪問日・2022年7月9日