しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

宇高フェリー(四国フェリー)

2020年07月23日 | 無くなったもの
場所・岡山県宇野港~香川県高松港
無くなった日時・2019年12月
撮影日・2019.11.30


瀬戸大橋開通後も、四国フェリーと宇高国道フェリーが宇高航路を営業していた。





航路の営業が可能だった最大の理由は、橋の値段が高すぎた。








本四公団が橋の通行料金を下げると、たちまち宇高航路は危機を迎え、玉野市や香川県の補助金頼みで就航を続けていた。

そして宇高国道フェリーが休止した。







行政が補助金を中止を決めると、残った四国フェリーも航路の中止を決めた。

瀬戸大橋が完成後は無くなる定めと思っていたが、よくつづいたものと思う。












最大の魅力は、美くしい瀬戸内海と、のんびりした船旅。
それに料金が廉価だったこと。









岡山県民や四国の人にとっては思い出がありすぎる航路だった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篠井商店

2020年07月23日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市笠岡
無くなった日時・2019年9月
撮影日・2019.8.27

江戸時代の笠岡の中心地に篠井商店があった。






大正7年に富山県の港町で起こった”米騒動”は、またたく間に全国に波及していった。

大正7年(1918)8月13日夜、
小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。
暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。
(岡山県社会運動史)








西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。
闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。
笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。
群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。

篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。
そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、
たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。

その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。
怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ、おびえきった篠井の主人は在庫量と廉売の約束をした。
(岡山県社会運動史)






歴史の生き証人だったが、建物は解体して今は、社会事業の建物が建っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大井地区運動会

2020年07月23日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市大井グラウンド
無くなった日時・2019年9月29日
撮影日・2019.9.29




あることのように毎年運動会が開催されていた。





しかし、高齢化や町内の役員負担が大きいことなどにより中止されることになった。






管理人も最後の地区運動会というので参加したが、それも20年振りくらいことだった。
中止も仕方ない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西本町ロータリーのビル

2020年07月23日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市笠岡
無くなった日時・2019年9月
撮影日・2019.8.27


西本町ロータリーに面したアール形の建物。
昔あった喫茶・珈琲園の南隣。






高校生の時、たしか散髪屋が入居していた。散髪に2~3回入ったことがある。





解体は建物が古くなったが原因か。
解体の工事前に撮影した。
現在は空き地になっている。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時中の果物作り

2020年07月23日 | 昭和16年~19年
茂平は果物が盛んで、管理人の家も果物百姓と呼べた。
戦時中、果物作りが冷遇されたのは諸本によく載っているが
実際のところ、
父からも母からも、そして近所のおじさん・おばさんからも
行政の圧力などの話は一度も聞いたことがない。

青森県では、そうとう強圧な指導があった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「地方の時代」 山田宗睦編 文一総合出版 昭和53年発行

国賊扱いされたりんご作り

青森県のりんごは1940(昭和15)年にはついに、待望の一千万箱の生産を実現した。
ところが、翌1941年太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。
それは、
りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、その妨げになるという非難からであった。

りんご農家は、稲作よりも収入のよいりんごに肥料・農薬・労働力を投入したので、戦時統制の目から見ればまさに国賊的行為ということになる。
そこで警察はもとより村々の大政翼賛会まで監視摘発の目がきびしくなり、ついには国家総動員法の適用によって
、田植え優先、田の三番除草が済まないうちにりんご作業をしたものは検挙される、という有様だった。
1943年頃のりんご農園では、村の巡査が火の見櫓の上に上がって双眼鏡でりんご園を見張り、木にあがって袋掛けをしているのを見つけ次第走っていって検束、留置するというきびしさとなる。
このためりんご園は放任され、おびただしい害虫の繁殖となり、樹は食い荒らされて廃園状態になった。
戦争がもう2~3年続いていたらりんご園はほとんど枯死したであろうといわれたが、そのぎりぎりのところで平和が戻ってきた。

・・・

なんの気兼ねなくりんご園に入ることができる。
復員や引揚で戻ってきた労働力が、すぐに廃園復興の作業にたちあがった。
折から。日本中に”りんごの唄”が大流行していた。
♪あかいりんごにくちびるよせて・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩田開発の地元交渉

2020年07月23日 | 江戸~明治
江戸時代の新田開発は、地元民に納得してもらうよう交渉や説得している。
これは↓、玉野市の山田の塩田計画についての話。

近代になってから、特に15年戦争当時の無理やり土地徴収に比べると、江戸時代の方が
民主的に感じてしまう。
(昭和の一時期は、大変な時代であり、情けない時代だったと思う)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行

塩田造成の地元交渉


野崎家は文政12年(1829)に、山田村沖の干潟を干拓して大規模な塩田の造成を計画した。
のちの東野崎塩田である。

野崎家の打診を受けた、周辺8ヶ村のうち7ヶ村は賛成した。
工事の労働者や、商売もでき収入増を期待した。
この7ヶ村は漁業をしていなかった。塩田の悪影響はなかった。

胸上村だけは事情が違った。
漁業は村の重要産業で、支障がでると村ぐるみ反対した。

野崎家はまず、
米40~50俵を毎年胸上村に支給することを提案。
胸上村は拒否。

次の提案、
毎年米100俵を漁師に支給する。
物資輸送には、すべて胸上村の船を使う。
造成工事には胸上村から多数雇う。
胸上村は同意せず。

最終的に、
塩問屋の収益の一部を胸上村に渡す。
毎年、米100俵ぶんの代金を胸上村に渡す。
塩田の物資輸送はすべて胸上村を使う。

天保8年(1837)には、塩田が造成され排水不良で農業に悪影響が出ると6ヶ村から補償要求があった。
村人たちは黙って泣き寝入りすることなく、ねばり強く交渉して補償を獲得した。

野崎家の当主武左衛門は
「この地域の人々は、自分の利益ばかり考えている。苦労は筆にも言葉にも尽くしがたい」と記している。
補償問題の複雑さ、困難さは今も昔も共通するところがあった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干拓と漁民への補償

2020年07月23日 | 江戸~明治
管理人の実家は土手に面していて、土手の向こう側は海だった。それは江戸時代中期の頃。
吉原新田と呼ばれる干拓で海までは200~300m離れた。

笠岡市域の多くの新田開発も、↓住民に似たような説得をしたのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


岡山藩による干拓と漁民への補償

元禄5年(1692)から藩営の沖新田造成工事が始まった。
開発に際して、次のような文書を出して漁師たちを説得した。

「今回の干拓予定地で行われている漁業は小魚を獲る小規模なもので、獲れた魚は藩内のみで売られており、領外では売り出されていない。
したがって、領外から金銀を獲得することには貢献しておらず、領内の金銀を消費しているだけである。
漁獲量の減少に対しては、それに応じて、漁師たちに干拓地を割り当てて与えるので、そこを耕地に開発して農業を営めば、漁師たちの収入ははるかに増えるだろう。
小魚漁よりも、耕地を増やして農業生産を拡大させるほうが、藩にとっても、漁師たちにとっても利益になる」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定置網漁

2020年07月23日 | 暮らし
茂平の漁獲の大半は壷網と呼ばる定置網だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


定置網漁

定置網漁は、決まった場所に常に網を設置しておき、そこに魚が入るのを待って捕獲する漁法であり、
マグロ・ぶり・イワシ・アジ・タイ・イカなどを獲るのに用いられた。
ミチアミ(誘導網)・ウンドウバ(囲い網)・ノボリ(登網)・ハコアミ(箱網)の4種の網が複合しものであった。





定置網を仕掛けておきさえすれば、魚群は放っておいてもハコアミに入ってくるので、魚群の到来を常に見張っている必要はない。
また、魚が入ったら、ハコアミの部分だけを曳き揚げればよいので、人手もあまり必要としない。

このように、定置網漁とは、漁にかける時間と労力を節約して、効率的に漁獲をあげる漁法であった。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔から魚を食べていたか?

2020年07月23日 | 暮らし
管理人は海辺の村だったので、漁師の家から雑魚をもらい、それが食卓に出ていた。
つまり、毎日・・・雑魚ではあるが・・・魚は食べていた。
しかし農山村の場合、戦後であっても「買って」食べる魚は週に1~2度ではなかったのではないだろうか?
(昭和35年頃までは)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


日本人は、昔から魚をたくさん食べていたか

明治期(1912年まで)の漁獲量は非常に少ない。
急激な増加は太平洋戦争後のことである。
その理由は二つある。
動力船と冷蔵・冷凍技術の未発達である。
手漕ぎの船は沖合まで出漁できない。
魚は長期間の保存がきかない。
輸送手段は人馬で、魚の消費地は水揚げ港から近距離に限定されていた。
せっかく魚を獲っても、売さばかなければ意味がないのである。
一部は干物や節物(鰹節・鯖節など)に加工されて内陸部にももたらされたが、
やはり流通範囲が限られたのは大きかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする