しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時中の果物作り

2020年07月23日 | 昭和16年~19年
茂平は果物が盛んで、管理人の家も果物百姓と呼べた。
戦時中、果物作りが冷遇されたのは諸本によく載っているが
実際のところ、
父からも母からも、そして近所のおじさん・おばさんからも
行政の圧力などの話は一度も聞いたことがない。

青森県では、そうとう強圧な指導があった。

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「地方の時代」 山田宗睦編 文一総合出版 昭和53年発行

国賊扱いされたりんご作り

青森県のりんごは1940(昭和15)年にはついに、待望の一千万箱の生産を実現した。
ところが、翌1941年太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。
それは、
りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、その妨げになるという非難からであった。

りんご農家は、稲作よりも収入のよいりんごに肥料・農薬・労働力を投入したので、戦時統制の目から見ればまさに国賊的行為ということになる。
そこで警察はもとより村々の大政翼賛会まで監視摘発の目がきびしくなり、ついには国家総動員法の適用によって
、田植え優先、田の三番除草が済まないうちにりんご作業をしたものは検挙される、という有様だった。
1943年頃のりんご農園では、村の巡査が火の見櫓の上に上がって双眼鏡でりんご園を見張り、木にあがって袋掛けをしているのを見つけ次第走っていって検束、留置するというきびしさとなる。
このためりんご園は放任され、おびただしい害虫の繁殖となり、樹は食い荒らされて廃園状態になった。
戦争がもう2~3年続いていたらりんご園はほとんど枯死したであろうといわれたが、そのぎりぎりのところで平和が戻ってきた。

・・・

なんの気兼ねなくりんご園に入ることができる。
復員や引揚で戻ってきた労働力が、すぐに廃園復興の作業にたちあがった。
折から。日本中に”りんごの唄”が大流行していた。
♪あかいりんごにくちびるよせて・・・

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