しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡駅の花売り娘

2020年07月06日 | 「笠岡市政だより」から
笠岡駅の花売娘のことは、市内に住む高年齢層なら、ほとんどの人が知っている。
しかし、それは新聞や広報誌での情報のため、実際に笠岡駅ホームで見たことがある人は・・・残念ながら会ったことがない。

12月限定だったのだろうか?
その間、毎日だったのだろうか?
時間は、何時間くらい?

昭和30年頃といえば、まだ花を召す余裕の人は限られているし、
売る気ならば駅ホームで上下線を行き来するよりも、駅前に立った方が売れるような気がする。


第一回目の時は、笠岡で全国初の試みは素晴らしい。
それに学歴まで公表し、しかも高校でなく女学校であり、東京の舞踊学校、びっくりする。


三回以降は掲載されていないので、たぶん昭和30・31・32年の三年間だったようだ。
観光笠岡のイメージ向上に貢献したと思う。




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笠岡市報NO.30 昭和31年1月10日


召しませ花を
旅情に灯す
愛の花
たば!!

観光の四季かさおかが放つヒット版!






全国で初めての試みとして、笠岡市観光連盟では昨年12月21日から笠岡駅ホームでの花の立ち売りをはじめました。

”とこ春の島マナベ”の切り花で、マーガレット、寒菊、金せん花、グラジオラス、金魚草などを組み合わせた
Aたば50円、Bたば30円のふた種類。
花売り娘は、市内正寿場の西尾〇子さん(玉野高女卒)、市内園井の権藤〇子さん(東京松竹舞踊学校卒)。
おそろいのカスリに、ピンクのたすき、姉さんかぶりも初々しく
「花を召しませマナベの花を」と、旅行客に呼びかけ、あわただしいホームに詩情を漂わせ第一日目から素晴らしい人気を呼んでいます。




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笠岡市報NO.43 昭和31年12月15日


旅情に灯す 真鍋の花 
笠岡駅に花売娘





市観光連盟では昨年の好評に応え、今年も12月1日から駅ホームで花の立ち売りをはじめた。

花たばは30円、50円、百円の三組で本市特産の真鍋島の切り花。
その香りと詩趣はNHKの「あの町この町」に収録され、13日の夜電波に乗せられた。

花はマーガレット、グラジオラス、金せん花、寒菊金魚草など。

今年デビューの花売娘は井原の大山〇子さん、美星町の志田原〇子さん。

「花召しませ」と写真のような名演技に、苦渋な師走の顔も思わずニッコリ。


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笠岡市報NO.53 昭和32年12月10日


今年も花売娘




市観光連盟では12月1日から笠岡駅ホームで、今年で三回目の花の立ち売りをはじめました。
今年の花売娘は、どちらも市内大島の大山〇子さんと藤井〇子さんで
「花を召しませ」と師走の寒風にもめげない健康な笑顔で、旅客のマスコットとして愛されています。

立ち売りの花は、カーネーション、マーガレット、グラジオラス、寒菊など新鮮で香り高い本市特産の真鍋島の切り花。

値段は30円、50円、百円の三種類で、観光笠岡の宣伝紹介に一役買おうと張り切っています。
ご声援下さい。


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「第五北川丸遭難事件」笠岡市はじまっての恨事

2020年07月06日 | 「笠岡市政だより」から
三原沖にある佐木島に「第五北川丸慰霊塔」がある。
西日光・耕三寺からの花見を終えての帰航中の事故だった。


(北川丸慰霊塔・佐木島向田 2008.4.6)



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笠岡市報NO.47 昭和32年5月20日

北川丸遭難者とご遺族の方へ・・・お役にたった「さざなみ号」

運命の日、4月12日の北川丸沈没事故では本市関係の海難者25名中、十名の尊い犠牲者を出しました。
死者、ご遺族の方々に謹んで哀悼申し上げます。

市では、悲報とともに新造快速船”さざなみ号”を急派、遭難現場での海上連絡や輸送、ご遺家族のご弔慰問にあたりましたが、急潮や風波のため引揚作業は困難を極め、祈りも空しく本市はじまっての恨事となりました。

さざなみ号は、牛窓造船所の建造で、建造費229万円、5屯、定員20名、進水は4月8日。



(慰霊塔から遭難現場=灯台を見る。対岸は本土の「みはらし温泉」周辺。2008.3.27)

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第五北川丸沈没事故(Wikipedia)

1957年4月12日
午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。
定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。
しかも同船は建造から33年経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。
出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。
付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。
海難審判(1959年3月26日・言渡)では操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、
老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。



(丸印が遭難現場、↓は慰霊塔。2011.3.27 佐木島・大平山より)

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国交省・海難審判所

「機船第五北川丸沈没事件」

神戸地方海難審判理事所広島支所
翌13日には尾道市等に出向き調査を開始し、第五北川丸の乗組員、乗客、目撃者等の事情聴取を行い、 
4月17日と翌18日には、引揚げられた第五北川丸の船体及び発生場所の寅丸礁の状況について実地検査を行った。
さらに、第五北川丸の復原力試験、舵一杯時の傾斜角度等についての鑑定依頼を行い、
これらの証拠を基に、関係者として受審人に第五北川丸船長、指定海難関係人に船舶所有者をそれぞれ指定して、事件発生1か月後の5月11日に審判開始の申立を行った。


主文

本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、
本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。


理由

船長は旅客定員厳守の重要性を深く認識せず、本船の最大搭載人員が旅客77人、船員7人であるのを知りながら、200名程度を載せても危険はないものと考え、
ほとんど立すいの余地がない有様で、乗船実員合計235名(小人12名を含む)に達していた。

かくして、本船は、同日12時22分瀬戸田を発し、船長は、途中見習甲板員に操舵をゆずり、
同時34分少し過ぎ、強い逆潮流を避けるため、佐木島に接航して布袋岩鼻・寅丸礁間を通航するつもりで、徐々に右舵をとらせ、布袋岩鼻の沖合には岩があると教えた後、引き続いて切符の整理にあたった。

見習甲板員は、岩があると聞いたものの、それが現実にどの辺にあるのか、どのように見えるのか知る由もなく、船長も気づかぬ間に、本船は、寅丸礁に向首する針路で進行していた。
船長は、どのあたりかと前方を見ると、予定針路と違っており、至近距離に茶かっ色の水面を認め、自ら舵輪をとって左舵一杯をとり、船体は、右舷に傾斜しながら左舷に回頭しはじめたが、
船尾船底を寅丸礁の西斜面に乗り揚げて擦過した。
その直後、多量の海水を一挙にすくい上げて、船尾から沈没しはじめ、船首を北方に向けて沈没した。

船客は、予期しない海水の急襲を受け、上甲板にいたものは、海中に投げ出され、
あるいは、遊歩甲板によじ登ってから水面に浮び、
客室内のものは、出入口や窓から必死の脱出をはかったが、
沈没が早かったのと多客で混雑したため、脱出できずに船体とともに海中深く沈んだ。

沈没後直ちに、付近にいた漁船、土運船など数隻が救助にあたったにもかかわらず、船客112名と見習甲板員が死亡し、船客49名が負傷した。

法定の最大搭載人員の範囲内であれば、通常の航海に安全を保ち得るものであった。
直ちに転覆することはなかったにせよ、急転舵したため、、ようやく復原力が失われようとするとき、
底触による反動や潮流の影響も加わり、急激に傾斜の度を増して浸水沈没したものであった。

船長が、
旅客定員厳守の重要性を認識せず
且つ、暗岩の存在する水域を通航するにあたり、乗船切符を数えなおすことに専念し、前路の看視をなおざりにした。暗岩に著しく接近するまでこれに気づかず、急転舵も及ばず、底触擦過するにいたった。
船舶所有者代表取締役社長は、
船長1人では定員厳守の維持が困難な情勢のままで、乗船客の処理を船長に一任していた。このような運航管理が適当でなかったことは、定員の約3倍もの旅客を乗船させる結果となり、
遂に本件沈没を発生せしめるにいたった一因をなすものである。


(遭難現場と慰霊塔。2011.4.6 佐木島・大平山より)


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