しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

アミの塩辛

2020年07月22日 | 暮らし
子供の頃、いつの季節だったか忘れたが、その時期になると毎日食卓にあったのが「アミの塩辛」。
毎年その季節は毎日食べていたのに、すっかり忘れ果てていた。

本を読んでいたら出てきたので忘備録で残す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「瀬戸内海事典」 南々社 2007年発行より

アミの塩辛
岡山県沿岸で今も作る。
アミは、エビに似た小型の甲殻類である。
ことに児島産のものは品質が優れている。
手網でアミをすくい、塩をして塩辛に仕立てた。
児島は良質の塩の生産地でもあった。
みりんや麹を加えて発酵させたのもあるが、塩だけで馴(な)れさせたものの方がうま味はある。
酒の肴として珍重するが、近年人気のキムチを漬けるときアミの塩辛を細かくたたいて煮立て、その煮汁を使うと上品なキムチができる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍警抗争事件・・・福山市

2020年07月22日 | 昭和元年~10年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和8年(1933)4月14日午前1時20分ころ市内のカフェーで福山連隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査2人と衝突、かけつけた応援の巡査とともにとり押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」と迫った。
結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。

軍の横暴ぶりを端的に示した事件といえる。
連隊長は地方都市では小大名的存在であっただけに、時流にのった横暴事件が徐々に目立つようになっていった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「満州事変」・・・福山市

2020年07月22日 | 昭和元年~10年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、
以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三勇士
などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。

9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、
平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち、陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会・排日資料展や第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などがひらかれるが、9月28日福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

このようななかで、市民の側からも積極的な動きが出てくる。
「我が満蒙派遣軍の正当なる行動を支持する」という在郷軍人会福山支部の決議を皮切りとして、
9月30日には千田村で500人参加の「対支問題」の強硬な決議を採択。
福山市では11月23日、天守閣広場で市民大会が開催され、当局を支持激励し、東洋永遠の平和を宣言採択した。
11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月18日第五師団に出動の下令あり、四十一連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
12月19日午後6時から市民の提灯行列で門出を祝った。
12月21日午前3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

翌昭和7年1月6日に南小学校で錦州入城映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の「活躍」もあり、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールが出るほど市民は熱狂した。

2月24日「肉弾三勇士」の第一報がもたらされると、たちまち大ブームとなり、各学校で終身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせた。
娼妓連は軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もてで、
市も4月17日公会堂で肉弾三勇士の会を開催した。

4月にはいると出征兵士が徐々に帰還し始めた。
遺骨となって帰還もあったが、当時の新聞はこれを「悲しいもの」としていることが注目される。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする