(写真:ベオグラード発ミュンヒェン行き国際列車の車窓、パンノニア平原の朝陽)
←2007-2008 ユーゴスラヴィア三都物語 ~4 白い街の休日 からの続き
2008年1月4日
インターシティ210列車“SAVA”は夜明け前のベオグラード郊外をゆっくりと走っている。昨日、トラムの車窓から見えた貨車ヤードの脇をかすめ、高層住宅の連なる団地を抜け、白い街が段々と遠ざかっていく。
やがて雪野原の地平線から朝陽が昇り、列車はバルカンに横たわるパンノニア平原を駆ける。
今朝は6:20発のこの列車に乗るために未明から起き出し(ホテル・スラヴィアのウェークアップコールは御丁寧に10分おきに2回もかかってきた。二度寝しないか心配だったんだろうか)、朝食も摂れずに早朝チェックアウトした後は駅に直行したがキオスクもまだ開いておらず、しかしホームに鎮座ましましたミュンヒェン行き国際特急にはセルビア鉄道の食堂車が連結されており、荷車から食材が積み込まれているのを確認したのですっかり嬉しくなってしまった。
「よし、食堂車で朝飯食うぞ!」
ヨーロッパの鉄道旅行の楽しみの一つが、食堂車での食事である。日本ではほぼ全廃されてしまった食堂車が欧州では健在で、地域色豊かな沿線の名物料理も味わうことが出来る。筈なのだが…
「去年乗ったルーマニアのインターシティの食堂車では何故か飲み物しか出なかったけど、セルビアの食堂車では確かシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)が名物だったな。奮発して朝からカツレツとセルビアワインで豪勢にいくか!」
コンパートメントの同室の客は、スロベニアのリュブリャナまで行くという一家と一人旅のお婆さん。リュブリャナ行きの一家は仲良く川の字になって寝息を立てている。お婆さんに「ちょっと御飯食べてきます」と伝え、ワクワクしながら食堂車へ向かう。
食堂車は赤ビロード張りの椅子と真っ白なテーブルクロスの豪華なインテリア。
誰もいないが、厨房を覗くとウェイター氏がいて「いらっしゃい」というようなことを言う。でも、席に着いてもメニューも持ってこない。
「メニュー表ないの?」と聞くと、革張りの立派なものを差し出した。
「何かえらくゴージャスだな、セルビアの食堂車。」
さて、どんなメニューがあるかね…
「おお~!前菜から肉魚料理にデザートまで一通り揃ってる。その気になったらフルコースでも食べられるぞ!」
さすがに朝からフルコースはムリなので、しっかりメニューに載っていたシュニッツェルをオーダーしようとするとウェイター氏曰く「うん、すまない。料理は出せないんだ」ハァ?どういうこと?
「コックが乗ってないんだよ。」
。。。あの~、何で営業してる列車食堂にコックが乗っていない訳?朝から急に風邪でもひいて欠勤したとでもいうの?
よく分からんが、「サンドイッチ位なら僕が作ってあげるけど、いい?」とウェイター氏が言うので、止むを得ずチーズサンドをオーダー。
「何だよ、これでルーマニアに続き二回連続で食堂車でお預けを食らわされる羽目かよ!ついてないな…」
ウェイターのおっちゃんが作ってくれた手作りサンドイッチ。
こうなりゃ朝からやけ酒だ、ビール、ビールも頂戴!セルビア産の、ドメスティックビアね!
本当に「男の手料理」って感じで、チーズをぶった切ってパンに詰め込んだだけだなぁ…しかし、
「ん?意外といけるじゃないか。チーズが美味いんだな。よし、チーズとくればワインだ、おじさんヴィーノだヴィーノ、セルビアの白ワイン頂戴!」朝から飲み倒してやるぞ。
「旧ユーゴスラヴィアの三都、スコピエ、ベオグラード、そして今から向かうザグレブに乾杯ー!」
すっかりゴキゲンで出来上がってると、ウェイター氏が伝票片手に「そろそろ国境ですから、部屋に戻ってパスポートを用意して下さい。それから、お会計をヨロシク」
自分のコンパートメントに戻ると、相変わらず家族もお婆さんも気持ち良さそうに居眠り中。アルコールが入ったせいか、つられてこちらまで眠くなってしまい、ついウトウト。
お婆さんと家族連れのお母さんに肩を叩かれて目を覚ますと、クロアチア共和国の入国審査官が僕のパスポートを待っていた。
セルビアからクロアチアに入っても、別段風景が変わるわけでもなく相変わらず雪原のパンノニアが広がっているが、心なしか列車が快調に走るようになった気がする。
セルビア国内では何もない場所で急に速度を落としたり、鉄橋を徐行して渡ったりしていた列車が、クロアチア国境を越えた途端にヨーロッパの鉄道らしい唸るような勢いで平原を疾走し始めた。時速150キロ以上は出しているのではないだろうか。見事な走りっぷりである。
「クロアチアの鉄道はセルビアより整備が進んでいるのかな?」それに通過する街の雰囲気も小奇麗でこざっぱりしているような気がする。
ミュンヒェン行き国際特急SAVA号は、定刻よりやや遅れて午後1時半にクロアチア共和国の首都ザグレブの中央駅Glavni kolodvorに到着した。セルビア国内での遅れを猛烈な走りでかなり回復しての到着だった。
コンパートメントを出る時、同室の皆さんから「チャオ!」と別れの声をかけられた。
「もうイタリアが近いんだなぁ!ここは、バルカンの付け根なんだ」
手早く機関車を付け替えて発車していくSAVA号を見送り、駅舎の中に入って驚いた。
「うわぁ~、きれいな駅だなぁー!」何と言うか、清潔感があるのだ。
薄暗くて埃っぽい駅を見慣れた目に、光り輝く蛍光灯照明や電光表示機が眩しい。
「…何だか先進国って感じ!」
駅前の広場に出て、威風堂々としたザグレブ中央駅の駅舎を眺める。
この駅はかつて国際寝台列車華やかりし頃、この地を経由してベオグラードそしてイスタンブールへと向かうシンプロン・オリエントエクスプレスを迎えた栄光の過去を持つ。しかし、駅舎は塗り直したばかりのように綺麗でまるで新築のように見える。
「何か凄いなクロアチア。気合入れて街中を清潔にしてるって感じだ」
実際、駅前の通りを歩いてもゴミも落ちておらず、とにかく小ぎれいな街というのがザグレブの第一印象。行き交う人達も心なしか行儀がいいような。
街並みや公園は美しいが何となくゴミゴミした感じがするベオグラードとは対照的だ。
中央駅前のトミスラフ広場に設けられたスケートリンクで遊ぶ子供たちの歓声を聞きながら歩く。
清潔な街並み、人々の活気溢れる街路、そして元気な子供たち…ここがつい十数年前に悲惨な民族間での流血の末に独立を勝ち取った国であることを忘れてしまいそうになるザグレブの街並み。
それは、とても幸せなことなんだろう、きっと。
ザグレブ中心部に突如日の丸が翻る日本国大使館近くの、日本人オーナーさん経営のバックパッカー宿に今日は投宿。日本の人と日本語で会話するのは何日ぶりかな?やっぱり母国語っていいものだなぁ。それに…
「日本は島国だから、どの外国とも地上で国境線を接していないし、それに日本人同士が民族間で衝突することも現在では殆ど考えられない(と、僕は思う)。これって、物凄く恵まれてるってことじゃないかな」
宿のオーナー氏に明日はザグレブ空港発の早朝便に乗るので未明に出立することを伝えておき、空港行きリムジンバスの乗り場へのトラムでの行き方も詳しく聞いた。
一安心したところで、残された時間は余り無いが最後の訪問地ザグレブの街を観て歩こう。
宿の目の前の通りでトラムに飛び乗り、先ずは繁華街イリツァ通りへ。旧市街の丘を望むこの辺りにはお洒落な店が集まり、ショーウィンドウを覗いて歩いているだけで楽しい。クロアチアは実はネクタイやボールペン発祥の地だそうで、これらを扱う店もちゃんとある。
歩き方ガイドに拠るとこの通りから旧市街までの斜面を登る小さなケーブルカーがあり、旧市街の聖マルコ教会まで楽に行けるらしい。このケーブルカーは世界最短距離らしいので、面白いから是非乗ってみたい。しかしケーブルカーの駅を探すが見つからない。イリツァ通り周辺の坂道をうろうろして駅を探し回っているうちに、気がつくと屋根にモザイク模様の紋章が描かれた聖マルコ教会の前に出てしまった。
聖マルコ教会は残念ながら改修工事中で中に入ることは出来なかった。
教会周辺は狭い路地が縦横に走り、丘の上に建物が密集している様子は何となくルーマニアの城塞都市シギショアラを想わせる雰囲気。
すっかり日が暮れてしまい薄暗い旧市街の路地を歩いていると、突然思いがけないものと出会った。
「えっ!?ニコラ・テスラ?何で彼がこんなところに?」
テスラはクロアチア生まれのセルビア人だから、ザグレブに縁があってもおかしくないが…
「…しかし、ニコラ・テスラも多民族が入り混ざるバルカンの象徴のような出自を持つ人なんだな。」
そんなテスラ自身はその後、世界の人種の坩堝であるアメリカに渡り、以後アメリカ人ニューヨーク市民として生涯を送る事になる。そして今、テスラはセルビアとクロアチア双方から祖国の誇りとされている。それは「祖国の偉人の取り合い」に近い様相を呈しているとも聞く。
テスラは、そんな自分の没後の扱いをどう思うだろうか。
旧市街の一角にある、古びた薬局の隣にある石の門の中に設けられた小さな礼拝堂。
大火でも焼けなかったという伝説のある聖母マリアの肖像に、道行く人は往来に跪き祈りを捧げる。
路地裏にある、小さな祈りの空間。
しかしそこにある人々の想いの深さは壮大な聖サヴァ教会大聖堂の祈りの空間と何ら変わることはない。
旧市街を歩き回っているうちに、ようやくケーブルカーの山上駅を見つけた。
駅の看板には「Funicula」とあるが、これってフニクリ・フニクラのことだよね?
駅のすぐ下にはイリツァ通りが見える。本当に短い、エスカレーターの延長みたいなケーブルカーは、僕と孫を連れたお婆ちゃんが乗り込むと旧市街の丘の斜面をゴロゴロ降り始めて、小さな子供がはしゃぎ始める間もないうちに下の駅に着いてしまった。
「ホントに短いな、でも楽しい!ちょっとイスタンブールのテュネルにも似てるな。」
♪行こう 行こう マルコ教会 フニクリ フニクラ ザグレブの フニクラ~♪
下りて来たイリツァ通りを歩いて、ザグレブ市街の中心である共和国広場までやって来るとそこにはドイツのクリスマス市のような屋台が並んでいたので、早速立ち喰いで暖まる。
スコピエではチャイの杯が廻されるイスラーム風のバザールだったが、ザグレブまで来てそれはソーセージとホットワインになった。
「ユーゴスラヴィアとは、つまりはそんな国家だったんだな」
「市場を見るとその国が解かる」が持論の僕が見つけた、それが今回の旅の答え。
いいよね、それで。
それなりの旅の答えを得て満足した僕は、共和国広場から歩いて宿に帰る。
途中立ち寄った小さなマーケットで今夜の水を調達。ついでに何かお土産を買っていくかと店内を物色していると、「ワインの種類が豊富だなぁ、それに安い!」よし、土産はワインで決まりだ。
ボトルを手に取り品定めをしていると、見事なあご髭を蓄えた老紳士から丁寧な英語で声をかけられた。
「君は日本人かな?ワインを探しておるのか?」
「はあ。。。ちょっと、手土産にと思いまして」
「うむ。それならば私がいいワインを選んであげよう…これにしなさい。私は、これ以上に美味しいクロアチアのワインを知らない」
老紳士の選んだ「Zilavka」という白ワインを手に、お礼を言う。
「どうもありがとう。貴方のクロアチア一番のワイン、日本に帰ったら飲んでみます」
「うむ。そうするがよい。幸運を!日本の旅人よ」
何だか随分芝居がかった会話だが、実際こんな感じだったのだ。
ワインを手に店を出て、石畳を歩いていると、セルビアで友達になった兵士の言葉が急に甦ってきた。…
…「クロアチアか…あんなとこ行くのは止めとけ!あいつらはセルビア人みたいにフレンドリーじゃないぜ」…
何とも言えない寂しさが襲ってきた。
「クロアチア人もセルビア人もマケドニア人も、みんなフレンドリーだよ。いい人はいい人だよ。でも、分かってる。それは僕が旅の異邦人だからなんだ。
…何故、遠くにいる人とは心と気持ちが通じ合うのに、隣人とはうまくいかないんだろう?」
そして、自問自答する僕には、それを無理に繋げようとしても悲劇が待っているだけだということもわかっている。ユーゴスラヴィア崩壊の歴史が、街路の闇に静かに横たわる。
でも、それを乗り越えようと模索し続けるのもまた人間なのだ。
「ニコラ・テスラは、交流電気の力で人々の心までも通じ合う究極のネットワーク社会を夢みたのかもしれないな。
それによって実現する共存社会こそが“世界システム”の真髄なのかもしれない。」
Skopje Station of Macedonia,2008 New Year's Day
かつて、東欧バルカン半島にユーゴスラヴィアと呼ばれる国家があった。
それは「七つの国境」「六つの共和国」「五つの民族」「四つの言語」「三つの宗教」「二つの文字」を持つ「一つの連邦国家」。
異文化の多様性をひとつに包み込もうとして、それを果たせず消え去った国家。
その試みは失敗に終わったが、旧ユーゴスラヴィア連邦構成国を駆け足で北上して国際列車で駆け抜けただけの僕でも、こう思わずにいられない。
「何ていう大事業をやろうとしたんだろう!結果はともかく、それは…凄いことじゃないか!
そして…いつの日か、その理想がかなう日が来るかも知れない。そう願わずにいられないんだ。だって、ここバルカンは素晴らしいところじゃないか!」
(2007-2008 ユーゴスラヴィア三都物語 終り)
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小惑星探査機「はやぶさ」情報:提供 JAXA宇宙科学研究本部
天燈茶房TENDANCAFEは日本の小惑星探査機「はやぶさ」を応援しています
「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーン
天燈茶房TENDANCAFEは「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーンを応援しています
COUNTER from 07 NOV 2007
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2008年1月4日
インターシティ210列車“SAVA”は夜明け前のベオグラード郊外をゆっくりと走っている。昨日、トラムの車窓から見えた貨車ヤードの脇をかすめ、高層住宅の連なる団地を抜け、白い街が段々と遠ざかっていく。
やがて雪野原の地平線から朝陽が昇り、列車はバルカンに横たわるパンノニア平原を駆ける。
今朝は6:20発のこの列車に乗るために未明から起き出し(ホテル・スラヴィアのウェークアップコールは御丁寧に10分おきに2回もかかってきた。二度寝しないか心配だったんだろうか)、朝食も摂れずに早朝チェックアウトした後は駅に直行したがキオスクもまだ開いておらず、しかしホームに鎮座ましましたミュンヒェン行き国際特急にはセルビア鉄道の食堂車が連結されており、荷車から食材が積み込まれているのを確認したのですっかり嬉しくなってしまった。
「よし、食堂車で朝飯食うぞ!」
ヨーロッパの鉄道旅行の楽しみの一つが、食堂車での食事である。日本ではほぼ全廃されてしまった食堂車が欧州では健在で、地域色豊かな沿線の名物料理も味わうことが出来る。筈なのだが…
「去年乗ったルーマニアのインターシティの食堂車では何故か飲み物しか出なかったけど、セルビアの食堂車では確かシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)が名物だったな。奮発して朝からカツレツとセルビアワインで豪勢にいくか!」
コンパートメントの同室の客は、スロベニアのリュブリャナまで行くという一家と一人旅のお婆さん。リュブリャナ行きの一家は仲良く川の字になって寝息を立てている。お婆さんに「ちょっと御飯食べてきます」と伝え、ワクワクしながら食堂車へ向かう。
食堂車は赤ビロード張りの椅子と真っ白なテーブルクロスの豪華なインテリア。
誰もいないが、厨房を覗くとウェイター氏がいて「いらっしゃい」というようなことを言う。でも、席に着いてもメニューも持ってこない。
「メニュー表ないの?」と聞くと、革張りの立派なものを差し出した。
「何かえらくゴージャスだな、セルビアの食堂車。」
さて、どんなメニューがあるかね…
「おお~!前菜から肉魚料理にデザートまで一通り揃ってる。その気になったらフルコースでも食べられるぞ!」
さすがに朝からフルコースはムリなので、しっかりメニューに載っていたシュニッツェルをオーダーしようとするとウェイター氏曰く「うん、すまない。料理は出せないんだ」ハァ?どういうこと?
「コックが乗ってないんだよ。」
。。。あの~、何で営業してる列車食堂にコックが乗っていない訳?朝から急に風邪でもひいて欠勤したとでもいうの?
よく分からんが、「サンドイッチ位なら僕が作ってあげるけど、いい?」とウェイター氏が言うので、止むを得ずチーズサンドをオーダー。
「何だよ、これでルーマニアに続き二回連続で食堂車でお預けを食らわされる羽目かよ!ついてないな…」
ウェイターのおっちゃんが作ってくれた手作りサンドイッチ。
こうなりゃ朝からやけ酒だ、ビール、ビールも頂戴!セルビア産の、ドメスティックビアね!
本当に「男の手料理」って感じで、チーズをぶった切ってパンに詰め込んだだけだなぁ…しかし、
「ん?意外といけるじゃないか。チーズが美味いんだな。よし、チーズとくればワインだ、おじさんヴィーノだヴィーノ、セルビアの白ワイン頂戴!」朝から飲み倒してやるぞ。
「旧ユーゴスラヴィアの三都、スコピエ、ベオグラード、そして今から向かうザグレブに乾杯ー!」
すっかりゴキゲンで出来上がってると、ウェイター氏が伝票片手に「そろそろ国境ですから、部屋に戻ってパスポートを用意して下さい。それから、お会計をヨロシク」
自分のコンパートメントに戻ると、相変わらず家族もお婆さんも気持ち良さそうに居眠り中。アルコールが入ったせいか、つられてこちらまで眠くなってしまい、ついウトウト。
お婆さんと家族連れのお母さんに肩を叩かれて目を覚ますと、クロアチア共和国の入国審査官が僕のパスポートを待っていた。
セルビアからクロアチアに入っても、別段風景が変わるわけでもなく相変わらず雪原のパンノニアが広がっているが、心なしか列車が快調に走るようになった気がする。
セルビア国内では何もない場所で急に速度を落としたり、鉄橋を徐行して渡ったりしていた列車が、クロアチア国境を越えた途端にヨーロッパの鉄道らしい唸るような勢いで平原を疾走し始めた。時速150キロ以上は出しているのではないだろうか。見事な走りっぷりである。
「クロアチアの鉄道はセルビアより整備が進んでいるのかな?」それに通過する街の雰囲気も小奇麗でこざっぱりしているような気がする。
ミュンヒェン行き国際特急SAVA号は、定刻よりやや遅れて午後1時半にクロアチア共和国の首都ザグレブの中央駅Glavni kolodvorに到着した。セルビア国内での遅れを猛烈な走りでかなり回復しての到着だった。
コンパートメントを出る時、同室の皆さんから「チャオ!」と別れの声をかけられた。
「もうイタリアが近いんだなぁ!ここは、バルカンの付け根なんだ」
手早く機関車を付け替えて発車していくSAVA号を見送り、駅舎の中に入って驚いた。
「うわぁ~、きれいな駅だなぁー!」何と言うか、清潔感があるのだ。
薄暗くて埃っぽい駅を見慣れた目に、光り輝く蛍光灯照明や電光表示機が眩しい。
「…何だか先進国って感じ!」
駅前の広場に出て、威風堂々としたザグレブ中央駅の駅舎を眺める。
この駅はかつて国際寝台列車華やかりし頃、この地を経由してベオグラードそしてイスタンブールへと向かうシンプロン・オリエントエクスプレスを迎えた栄光の過去を持つ。しかし、駅舎は塗り直したばかりのように綺麗でまるで新築のように見える。
「何か凄いなクロアチア。気合入れて街中を清潔にしてるって感じだ」
実際、駅前の通りを歩いてもゴミも落ちておらず、とにかく小ぎれいな街というのがザグレブの第一印象。行き交う人達も心なしか行儀がいいような。
街並みや公園は美しいが何となくゴミゴミした感じがするベオグラードとは対照的だ。
中央駅前のトミスラフ広場に設けられたスケートリンクで遊ぶ子供たちの歓声を聞きながら歩く。
清潔な街並み、人々の活気溢れる街路、そして元気な子供たち…ここがつい十数年前に悲惨な民族間での流血の末に独立を勝ち取った国であることを忘れてしまいそうになるザグレブの街並み。
それは、とても幸せなことなんだろう、きっと。
ザグレブ中心部に突如日の丸が翻る日本国大使館近くの、日本人オーナーさん経営のバックパッカー宿に今日は投宿。日本の人と日本語で会話するのは何日ぶりかな?やっぱり母国語っていいものだなぁ。それに…
「日本は島国だから、どの外国とも地上で国境線を接していないし、それに日本人同士が民族間で衝突することも現在では殆ど考えられない(と、僕は思う)。これって、物凄く恵まれてるってことじゃないかな」
宿のオーナー氏に明日はザグレブ空港発の早朝便に乗るので未明に出立することを伝えておき、空港行きリムジンバスの乗り場へのトラムでの行き方も詳しく聞いた。
一安心したところで、残された時間は余り無いが最後の訪問地ザグレブの街を観て歩こう。
宿の目の前の通りでトラムに飛び乗り、先ずは繁華街イリツァ通りへ。旧市街の丘を望むこの辺りにはお洒落な店が集まり、ショーウィンドウを覗いて歩いているだけで楽しい。クロアチアは実はネクタイやボールペン発祥の地だそうで、これらを扱う店もちゃんとある。
歩き方ガイドに拠るとこの通りから旧市街までの斜面を登る小さなケーブルカーがあり、旧市街の聖マルコ教会まで楽に行けるらしい。このケーブルカーは世界最短距離らしいので、面白いから是非乗ってみたい。しかしケーブルカーの駅を探すが見つからない。イリツァ通り周辺の坂道をうろうろして駅を探し回っているうちに、気がつくと屋根にモザイク模様の紋章が描かれた聖マルコ教会の前に出てしまった。
聖マルコ教会は残念ながら改修工事中で中に入ることは出来なかった。
教会周辺は狭い路地が縦横に走り、丘の上に建物が密集している様子は何となくルーマニアの城塞都市シギショアラを想わせる雰囲気。
すっかり日が暮れてしまい薄暗い旧市街の路地を歩いていると、突然思いがけないものと出会った。
「えっ!?ニコラ・テスラ?何で彼がこんなところに?」
テスラはクロアチア生まれのセルビア人だから、ザグレブに縁があってもおかしくないが…
「…しかし、ニコラ・テスラも多民族が入り混ざるバルカンの象徴のような出自を持つ人なんだな。」
そんなテスラ自身はその後、世界の人種の坩堝であるアメリカに渡り、以後アメリカ人ニューヨーク市民として生涯を送る事になる。そして今、テスラはセルビアとクロアチア双方から祖国の誇りとされている。それは「祖国の偉人の取り合い」に近い様相を呈しているとも聞く。
テスラは、そんな自分の没後の扱いをどう思うだろうか。
旧市街の一角にある、古びた薬局の隣にある石の門の中に設けられた小さな礼拝堂。
大火でも焼けなかったという伝説のある聖母マリアの肖像に、道行く人は往来に跪き祈りを捧げる。
路地裏にある、小さな祈りの空間。
しかしそこにある人々の想いの深さは壮大な聖サヴァ教会大聖堂の祈りの空間と何ら変わることはない。
旧市街を歩き回っているうちに、ようやくケーブルカーの山上駅を見つけた。
駅の看板には「Funicula」とあるが、これってフニクリ・フニクラのことだよね?
駅のすぐ下にはイリツァ通りが見える。本当に短い、エスカレーターの延長みたいなケーブルカーは、僕と孫を連れたお婆ちゃんが乗り込むと旧市街の丘の斜面をゴロゴロ降り始めて、小さな子供がはしゃぎ始める間もないうちに下の駅に着いてしまった。
「ホントに短いな、でも楽しい!ちょっとイスタンブールのテュネルにも似てるな。」
♪行こう 行こう マルコ教会 フニクリ フニクラ ザグレブの フニクラ~♪
下りて来たイリツァ通りを歩いて、ザグレブ市街の中心である共和国広場までやって来るとそこにはドイツのクリスマス市のような屋台が並んでいたので、早速立ち喰いで暖まる。
スコピエではチャイの杯が廻されるイスラーム風のバザールだったが、ザグレブまで来てそれはソーセージとホットワインになった。
「ユーゴスラヴィアとは、つまりはそんな国家だったんだな」
「市場を見るとその国が解かる」が持論の僕が見つけた、それが今回の旅の答え。
いいよね、それで。
それなりの旅の答えを得て満足した僕は、共和国広場から歩いて宿に帰る。
途中立ち寄った小さなマーケットで今夜の水を調達。ついでに何かお土産を買っていくかと店内を物色していると、「ワインの種類が豊富だなぁ、それに安い!」よし、土産はワインで決まりだ。
ボトルを手に取り品定めをしていると、見事なあご髭を蓄えた老紳士から丁寧な英語で声をかけられた。
「君は日本人かな?ワインを探しておるのか?」
「はあ。。。ちょっと、手土産にと思いまして」
「うむ。それならば私がいいワインを選んであげよう…これにしなさい。私は、これ以上に美味しいクロアチアのワインを知らない」
老紳士の選んだ「Zilavka」という白ワインを手に、お礼を言う。
「どうもありがとう。貴方のクロアチア一番のワイン、日本に帰ったら飲んでみます」
「うむ。そうするがよい。幸運を!日本の旅人よ」
何だか随分芝居がかった会話だが、実際こんな感じだったのだ。
ワインを手に店を出て、石畳を歩いていると、セルビアで友達になった兵士の言葉が急に甦ってきた。…
…「クロアチアか…あんなとこ行くのは止めとけ!あいつらはセルビア人みたいにフレンドリーじゃないぜ」…
何とも言えない寂しさが襲ってきた。
「クロアチア人もセルビア人もマケドニア人も、みんなフレンドリーだよ。いい人はいい人だよ。でも、分かってる。それは僕が旅の異邦人だからなんだ。
…何故、遠くにいる人とは心と気持ちが通じ合うのに、隣人とはうまくいかないんだろう?」
そして、自問自答する僕には、それを無理に繋げようとしても悲劇が待っているだけだということもわかっている。ユーゴスラヴィア崩壊の歴史が、街路の闇に静かに横たわる。
でも、それを乗り越えようと模索し続けるのもまた人間なのだ。
「ニコラ・テスラは、交流電気の力で人々の心までも通じ合う究極のネットワーク社会を夢みたのかもしれないな。
それによって実現する共存社会こそが“世界システム”の真髄なのかもしれない。」
Skopje Station of Macedonia,2008 New Year's Day
かつて、東欧バルカン半島にユーゴスラヴィアと呼ばれる国家があった。
それは「七つの国境」「六つの共和国」「五つの民族」「四つの言語」「三つの宗教」「二つの文字」を持つ「一つの連邦国家」。
異文化の多様性をひとつに包み込もうとして、それを果たせず消え去った国家。
その試みは失敗に終わったが、旧ユーゴスラヴィア連邦構成国を駆け足で北上して国際列車で駆け抜けただけの僕でも、こう思わずにいられない。
「何ていう大事業をやろうとしたんだろう!結果はともかく、それは…凄いことじゃないか!
そして…いつの日か、その理想がかなう日が来るかも知れない。そう願わずにいられないんだ。だって、ここバルカンは素晴らしいところじゃないか!」
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