平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




林原美術館企画展「源氏物語と平家物語」より転載。
源平合戦が激化するにつれて、都に悲報が次々に届きました。
維盛が熊野で入水したと聞き、建礼門院徳子の女房右京大夫は
言いようもなく悲しく思い、彼の見事な舞姿を回想し
『建礼門院右京大夫集』に記し留めています。
この家集の215と216番の長文の詞書によれば、
安元 2 年(1176)3月4日から6日にかけて、後白河院の
五十歳を祝う(長寿の祝)宴が法住寺殿で催されました。
賀宴の最終日、18歳の維盛が青海波(せいがいは)を舞う姿に
『源氏物語』の紅葉賀(もみじのが)を思い浮かべた人々は、
その姿を称賛しあまりの美しさに光源氏の再来ともいいました。

その頃の平家は栄華を誇り、居並ぶ平家の公達の華やかで
優雅なさまや大がかりな垣代(かいしろ)が
維盛の舞をさらに盛りあげました。
垣代とは、青海波の舞の時、舞人と同じ装束で笛を吹き拍子をとりながら、
垣のように舞人を囲んで庭上に立ち並ぶ40人の楽人のことで、
院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が担当しました。

維盛の晴れ姿は当時の語り草であったようで、
『平家物語・巻10・熊野参詣』に
那智籠りの僧の述懐が記されています。
「屋島の陣をひそかに抜け出し3人の従者とともに高野山に赴き
出家した維盛は、かつて小松家に仕えていた滝口入道(斎藤時頼)に
導かれ、父重盛が崇拝していた熊野に参詣しました。
那智籠りの僧の中に維盛を見知っている者がいて、
後白河院の五十の賀で桜の花を頭に挿し青海波を舞われた時は、
露に濡れてあでやかさを添える花のようなお姿、
風にひるがえる舞の袖、地を照らし、天も輝くばかりで、内裏の女房達に
深山木の中の桜梅(やまもも=楊梅)のようなお方などと
いわれたお方でした。と仲間の僧に語り、
そのやつれ果てた姿に袖を濡らしました。」
維盛は青海波を舞って以来、桜梅の少将とよばれたという。

維盛が右少将成宗(藤原成親の次男)と青海波を舞い、
人々に称賛されたことは藤原隆房の『安元御賀記』にも見え、
九条兼実はその日記『玉葉』に
「相替り出で舞ふ ともにもって優美なり
なかんずく維盛は
容顔美麗、尤も歎美するに足る」と
維盛の舞に深く感動したことを記しています。 

平安時代中期に紫式部によって著された『源氏物語』は、
その後の日本文学に絶大な影響を与え、
この物語に影響を受けた文学作品が次々と生み出されました。
鎌倉時代末期に成立した『平家物語』もその影響を受けた作品です。

『源氏物語』紅葉賀の巻に光源氏が青海波(舞楽の曲名)を舞って
人々が感激の涙を流し、絶賛したという記述があります。
藤壷が光源氏との不義の結果妊娠したことを知らぬ桐壺帝は、
藤壷の懐妊を大層喜び、藤壺が朱雀院の50歳の式典に
参加できないのを残念がり、試楽(リハーサル)を催し、
光源氏は頭(とうの)中将とともに青海波を舞いました。

青海波の舞(伝土佐光則筆『源氏物語色紙貼付(はりつけ)屏風』部分)
世界の文学『源氏物語』より転載。

左端の挿頭(かざし)に菊を挿すのが光源氏で、紅葉の挿頭が頭中将。
青海波は二人舞で、寄せては返す波のさまを、袖の振りで表現する舞で、
舞楽の中で最も優美な装束をつけて舞います。
螺鈿(らでん)の細太刀を帯び、袍(ほう=上着)には千鳥の模様をつけ、
下襲(したがさね=袍の下に着用する衣服)には青海の波の模様をつけます。

12C末の平家の時代になると、『源氏物語』に描かれたいくつかの箇所を、
歴史的事実であると認識し、過去の出来事のように思い起こす場面があります。
維盛の青海波の舞を見た人々は、その光景を以前にも
みたことがあるような錯覚に襲われました。
右京大夫の父世尊寺(藤原)伊行(これゆき)は
『源氏物語』の注釈書『源氏釈(げんじしゃく)』の著者です。
源氏物語の研究者であり『河内本源氏物語』を記した
源光行の娘(建礼門院美濃)も建礼門院に仕えていました。
このようなな環境から中宮
徳子も物語を愛好したと思われ、
その傍には『源氏物語絵巻20巻』があったと伝えられています。
平家の人々にとって『源氏物語』は親しいものでした。

『平家物語』(巻5・月見)によると、
摂津国福原への遷都が強行されましたが、旧都の月を恋う
徳大寺実定(さねさだ)は、福原を離れ妹(姉とも)の
大宮多子(近衛・二条二代の后)の近衛河原の大宮御所を訪れました。
実定は大宮やその侍女の待宵小侍従と一晩中語り明かし
旧都の荒廃ぶりに涙するのでした。
この兄妹の再会は、
『源氏物語』橋姫で語られる男女の出会いを背景にして描かれ
源氏物語の世界、王朝物語的な雰囲気にあふれています。

那智の沖に舟を漕ぎ出し、鐘を鳴らし念仏を勧める滝口入道、
妄念を翻し入水する維盛。
林原美術館蔵『平家物語(巻10)』「平家物語図典」より転載。

平維盛坐像 成覚寺蔵
那智沖で入水した維盛は、死なずに落合の里(三重県安芸郡芸濃町)で
生き永らえたという伝承があります。「源平合戦人物伝」より転載。
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
巻五「月見の事」 (1)  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
高橋昌明編「別冊太陽 平清盛(源氏物語と平家のひとびと)」平凡社、2011年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)(下1)」角川書店、昭和42年
世界の文学24名作への招待「源氏物語」朝日新聞社、1999年
別冊国文学「源氏物語を読むための基礎百科」学燈社、平成15年
「平家物語図典」小学館、2010年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 



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