平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




東松山市の北部、滑川町にある武藏丘陵森林公園の東方に比企氏の史跡があります。





バス停森林公園南口

森林公園南口から東へ徒歩約55分、「比丘尼(びくに)山」とよばれる美しい丘があります。
比企遠宗の妻比企局が夫の死後、尼となってここに庵を結び
大谷山寿昌寺(じゅしょうじ)を創立し、
源頼家の死後、比企能員(よしかず)の娘若狭局(頼家の側室)が、
この地に移り住み草庵を結んだとされています。


その途中に「上郷集会所前」のバス停があります。

ここから3分ほど歩くと、扇谷山宗悟寺(曹洞宗)の山門が見えてきます。





寺伝によると、天正20年(1592)に鎌倉二代将軍源頼家の菩提を弔うため、
森川金右衛門氏俊が宗悟寺の西にある寿昌寺を当地に移して
自身の法名宗悟居士からとって宗悟寺(そうごじ)
と改め、
代々の菩提寺としたとされています。
なお、寺には若狭局が持参したと伝えられる頼家の位牌が残されています。

江戸時代の旗本森川氏俊は岡崎で徳川家康に仕え、文禄1年(1592)に
この地を領地として治め、寺の裏には森川氏の立派な墓が並んでいます。

山門を潜ると左手に比企一族顕彰碑が建っています。
「平安時代末期から鎌倉時代初期に亘る約百年の間郡司として
比企地方一帯を支配し、一族を挙げて源頼朝公を援け
鎌倉武家政権創立の原動力として大きな役割を果たした比企氏の足跡は、
その広さと歴史的意義において正に私たちの郷土の歴史の原点であります。(以下略)

平成六年十一月吉日 比企一族顕彰碑建設委員会 清水清撰文 吉田鷹村書」

本堂



宗悟寺の東の谷、城ヶ谷(じょうがやつ)の丘陵上に比企能員の館があったと
いわれていますが、現在遺構は残っていません。ただこの近くには、
修善寺谷、梅ヶ谷、扇ヶ谷、比丘尼山などの地名が残っています。

宗悟寺西方、比丘尼山の麓には、若狭局が頼家の命日に
形見の櫛を沈めたという串引沼があります。
 









伊豆修善寺町の篤志家より贈られた頼家桜



比丘尼山





金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  
『アクセス』
「宗悟寺」埼玉県東松山市大字大谷400
東武東上線「森林公園駅」前から川越観光バスに乗り、森林公園南口下車徒歩約45分
運行は土日のみ、1時間に2~4本
「比丘尼山」宗悟寺から西へ700㍍
『参考資料』
「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年





 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
お尋ねします! (yukariko)
2017-11-15 21:28:53
比企能員(よしかず)の娘讃岐局は、比企の乱で命を失ったと思われ(中略)若狭局が家宝を抱いて身を投げた…前回こうお書きでしたね?
そして讃岐局と若狭局は同一人物とも思われます…と。

それなのにこの伝承地の記事で若狭局(頼家の側室)が東松山市に移り住み草庵を結んだ…というのはおかしくありませんか?
頼家の死後の一時に母の比企尼の隠棲地に移っていたという事でしょうか?
 
 
 
Re:お尋ねします! (sakura)
2017-11-16 09:00:55
比企尼の記事でも書かせていただきましたが、正確な比企氏の系図は残っていません。

このため、『新編相模風土記稿』の「比企能員の娘讃岐局は、
最初若狭局という」に従って讃岐局と若狭局は同一人物として受け入れられ、
妙本寺の伝承は発展しています。

しかし、田端泰子氏は、「能員の娘若狭局はおそらく命は助けられたのであろう。
能員の別の娘讃岐局は、比企の乱の時に命を失ったと
思われる。」と推測なさっています。(乳母の力)

「甦る比企一族」によると、比企の乱後、若狭局に従って
鎌倉からこの地に逃れてきたと伝えられる宮永氏の
ご子孫が今も続いているそうです。
周れませんでしたが、辺りにはこの他にも比企氏にまつわる伝承地があります。

伝承(伝説)を読み解くのは難しいです。

 
 
 
それならよく分かります。 (yukariko)
2017-11-16 13:11:54
比企尼の生んだ娘「若狭局」が母ゆえに助けられ、局に従った一族の生き残りが尼の隠棲地に身を寄せ、後世までその地に住みついた。…という事ですね。
この時代、戦力としての息子以外に嫁、婿として繋がりを作る為にも娘が幾人かいるのも大事だったでしょうから。
詳しい伝承のお話、ありがとうございました。
 
 
 
複雑になって申し訳ないのですが (sakura)
2017-11-17 12:33:11
どこまでが史実で、どこからが伝説なのか。

比丘尼山の説明板には、「この地に移り住んだ若狭局が先に庵を結んでいた
比企尼に諭され頼家の形見の櫛を捨て、思いを断つようにいわれた」と書かれています。
そうすると、比企尼は頼家死後も生きていたことになりますね。
比企尼は建久4年(1193)範頼が自害させられた時、その遺児が尼の嘆願で
助命されていますから、建久4年まで生きていたと思われます。

比企の乱は建仁3年(1203)9月のことです。
当初比企尼の邸だった比企ヶ谷は、事件当時、比企一族の邸が
建ち並んでいたそうですから、すでに尼は亡くなっていたのではと勝手に推測しています。

これはインターネットからの情報ですが、
「比企一族の歴史 郷土学部B班 - 東松山市」によると、
若狭局が頼家の命日に形見の櫛を沼に投げ入れたというのは、伝承であり、
実際には若狭局は一族と共に焼き殺されている。
可能性があるとすれば、頼家正室の辻殿(公暁の母)であろうか。と書かれています。

伝承には辻褄のあわないところや、後世の人が無理やりこじつけたものもありますが、
昔の人がそう信じて伝えてきているのですからそれはそれでいいのだと思っています。
 
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