平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




治承4年(1180)4月、以仁王が諸国の源氏に下した平家追討の令旨が
伊豆に配流されていた頼朝の許に届き、やがて頼朝は挙兵を決意しました。
同年8月、まず
伊豆国代官の山木兼隆を討ちとり、幸先のよいスタートを切りましたが、
まだ従う兵が少なく源氏譜代の家人三浦氏との合流を図り、
伊豆を出て石橋山に陣取りました。

そこへ押し寄せた平家方の大庭景親軍と戦いますが、頼みとしていた
三浦一族の軍勢が折からの豪雨のため到着が遅れて大敗し、
一同はちりぢりに山中に逃げ込みます。頼朝は土肥の椙山に潜んだ後、
再起を期して真鶴から小船でからくも安房(千葉県)への脱出に成功しました。


石橋山古戦場は「石橋」バス停から熱海方向に旧道に入り、線路ぎわの
急坂を上った相模湾を見下ろす位置にあり、佐奈田霊社の辺が戦闘の中心でした。
佐奈田霊社には、この合戦で討死した佐奈田与一義忠が祀られています。

JR
早川駅から歩いて石橋山古戦場へ向かいます

小雨が降るあいにくのお天気です






石橋山古戦場は道幅狭く、山は間近に迫り、すぐ下はすい込まれそうな青い海。
とても三千騎が集合できるようなスペースはありません。
きっと山も谷も武者たちで埋め尽くされていたことでしょう。





古戦場からは頼朝が安房へと脱出した真鶴半島が遠くに見えます。

佐奈田霊社

『源平盛衰記』や『吾妻鏡』を読み進めながら石橋山古戦場を訪ねましょう。
頼朝は長年つとめてきた写経を走湯山権現(伊豆山神社)に納め、
妻政子を
僧侶覚淵に預け、300騎ほど率いて相模国土肥郷に着きました。
三浦半島の豪族三浦一族がこれに合流しようとしますが、
折からの強風波浪にはばまれて、海路をとれず陸路を迂回しました。
ようやく8月23日、小田原の酒匂川(丸子川)の対岸まで到着し、
大庭景親一族の家を焼き払いましたが、大雨による増水のため
酒匂川(さかわがわ)を渡ることができず夜明けを待つことになります。


援軍が到着しないまま、頼朝は源氏の白旗に以仁王の令旨をつけて、

相模灘を見下ろす石橋山に陣を構えました。
頼朝が頼みとする武士達は北条時政一族や安達盛長・佐奈田与一義忠など、
それぞれ「家を忘れ、親を忘れて戦う覚悟」という頼もしい勇者たちです。


一方、平家側は大庭景親を大将に三千騎が海を背後に頼朝軍と谷一つ隔てて対陣し、
頼朝の後方には、伊豆の伊東祐親の300騎が襲いかかろうとしていました。


三浦軍が大庭景親一族の家を焼き払った煙が空を覆うほどに立ち上り、
三浦一族が酒匂川まできたことを知った景親は、三浦一族が頼朝軍に
加わる前に討ち取ろうと、頼朝軍に襲いかかります。

合戦に先立って大庭景親と北条時政の間で交わされた言葉戦い
(戦場での言葉による非難の応酬)が『源平盛衰記』に書かれています。
大庭景親が「昔、義家殿の後三年合戦にお供して出羽国金沢柵を攻めるとき、
16歳で先陣を駆けて、右目に矢を射られながらも、敵を討ち取り
名を後代に留めた鎌倉権五郎景政の末裔である。」と名乗ると、

北条時政は「景親は景政の子孫と名乗るが、
我君は清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王より七代後胤、
八幡殿の四代の御孫・先(さき)の右兵衛佐(頼朝)殿であるぞ。
お主はなぜ三代相伝の君に弓を引き、矢を射るのか。」と返す。
「確かに昔は主君であったが昔は昔、今は今。恩こそ主よ。
我らが受けた平家の恩は
山よりも高く海よりも深い」と言い返し、
雨と闇の中での死闘が繰り広げられます。
石橋山古戦場(2)佐奈田霊社・文三堂    石橋山古戦場(3)土肥山中を彷徨う頼朝主従 
 石橋山合戦で敵味方に分かれた渋谷一族と大庭一族  

『アクセス』
「石橋山古戦場」小田原市石橋 JR早川駅より徒歩約1時間10
小田原駅より箱根登山バス「石橋」下車10分(バスは土・日・祝日運休・
平日もバスの本数は少ないので、箱根登山バス℡0465351271にお確かめ下さい。
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社 
「源頼朝のすべて」新人物往来社 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房 
「平家物語図典」小学館

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
「石橋山古戦場」の写真に感激! (yukariko)
2010-06-13 12:48:08
先日からの「山木判官平兼隆館跡 」の詳細な画像や「バスは土・日・祝日運休・平日もバスの本数は少ない・箱根登山バスにお確かめ下さい)」の付記に
それほど不便な所の現地写真を見せて頂けるのには感激・感謝です。

勿論往時の面影は残っていないでしょうが現代よりはるかに山深い場所を大勢の武者たちが山中の道さえ碌にない場所を闇の中、雨をものともせずに手柄をあげるべくかけずり回っていたのですね。

それにしても初戦には勝利したものの、300人の手勢を頼りに向かう相手は3000人!背後には伊東祐親の300騎が迫っているという背水の陣、圧倒的に不利ですよね。
案の定敗戦し、味方は散り々で頼朝の行方も分からなくなり、加藤五景員が敗けを覚悟して出家する事態に迄陥りながら逃げ延びて再起を図った頼朝!
本当に頼朝は強運の持ち主ですね。
やがて来る時代が彼が死ぬのをよしとしなかったのでしょうか?
神の見えない手がどこかに働いていたのかしら?
 
 
 
ありがとうございます! (saura)
2010-06-14 09:39:37
でも早川駅から石橋山古戦場まではハイキングコースになっているのですよ。駅前にはコース案内板が建っていますし道は海に沿って一直線ですから迷うこともありません。天気予報がはずれて雨の中を歩くことになってしまいましたが、お天気さえよければ海を眺めながらのハイキングもいいのかも知れません。
韮山は道に迷いウロウロするばかりで、史跡ガイドブックに載せられていた「山木館跡の碑」はとうとう見つけることができませんでした。

東国は頼義・義家以来の源氏の基盤だったので、挙兵に際して頼朝は源氏と縁の深い武士たちに書状を送って参加をよびかけます。
「源氏再興の秋(とき)に逢ふなり。なんぞこれを喜ばざらんや。」と言ったという三浦半島の大豪族三浦義明のように源氏に心をよせる武士もいましたが、20年の間には平家に仕え直す者も多くあり、そうでなくてもすぐに馳せ参じる者は少なく乳母関係や加藤父子・佐々木四兄弟のような浪人など300騎がやっとだったようです。
しかし頼朝の身に次々と奇跡のようなことが起こります。本当に頼朝は運のいい人です。
 
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