平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平家一門の都落ち直前、資盛(重盛の次男)は、
別れを惜しんで建礼門院右京大夫の許をひそかに訪れました。
「万事につけこれからは死んだものとお思いください。
あなたとは長いつきあいなので、後世を弔ってほしい。」と言い残し、
都を捨て西国へと落ちていったのは寿永2年(1183)7月のことです。

それからの右京大夫は、平家の人々の悲報を聞くにつけ
資盛の安否を心配していましたが、資盛から便りが来ないことを、
この世に未練を残さないようにしているのだと思い、
手紙を書き送りたい気持ちをおさえていました。

平家は一旦九州の大宰府へ落ち延び、しばらく状況をうかがっていましたが、
九州の豪族たちが次々と背き、かつて小松家の家人であった
豊後の緒方惟義(これよし)までもが攻め寄せると知り、
資盛は500騎の軍勢を率いて説得にあたりました。
惟義は「昔は昔、今は今」と言い放ち資盛を撃退したので、
平家は大宰府を捨てて山鹿秀遠が籠る遠賀川河口の山鹿城に辿りつきました。
しかしそこにも敵が押し寄せると聞き、豊前柳ヶ浦
(現、大分県宇佐市)から舟に乗り海上に漂いました。

その時、資盛の弟清経(重盛の三男)は行く末を悲観し、
横笛を吹き念仏を唱え海に身を投げ、
翌寿永3年(1184)には、兄の維盛が熊野で入水しています。
これを知った右京大夫は、資盛を心配して手紙を書き、
兄弟の悲報にふれて ♪思ふことを 思ひやるにぞ 思ひ砕く 
思ひに添へて いとど悲しき
(あなたのお気持ちを、想像するにつけ心が砕けるようです。
察すれば察するほどいっそう悲しくなります。)
などの和歌を贈りました。

資盛は手紙を嬉しく受け取ったと礼を述べ、
今はすべてをあきらめ、今日明日の命と覚悟しています。
として次の歌を書き添えました。

♪あるほどが あるにもあらぬ うちになほ 
 かく憂きことを 見るぞ悲しき
(生きていても、生きていなくても同じであるような
たよりない生活であっても、
このような兄弟たちの
情けない事を見るのは本当に悲しいことであるよ。)

資盛からの文を受け取ってほどなく平家は壇ノ浦で滅亡し、
愛する資盛までも失ったことを知った右京大夫は、
呆然としてただ涙にくれるだけでした。
折にふれ資盛のことを思いだしては嘆き悲しみ、
ため息をついては涙し、資盛が右京大夫に託した最後の言葉を守り、
菩提を弔っていました。いつまでも悲しいのは、
住んでいる場所のせいなのかと、都を逃れ琵琶湖の畔の坂本に
隠棲しましたが、ここも良くなかったらしく、やがて戻り
兄の尊円(比叡山延暦寺の僧)の許に身を寄せていました。
建久7年(1196)ごろ、知人の勧めで後鳥羽天皇付きの女房として
再出仕(42歳?)しましたが、高倉天皇の中宮建礼門院に
仕えた頃のような感慨はありませんでした。
初めて宮仕えした頃の平家は栄華を極め、一族で高位高官を独占し、
清盛の娘たちはみな権門勢家に嫁ぎ、
宮中はまぶしいほど美しく、輝くばかりでした。
17、8歳の右京大夫にとって、胸ときめく日々でした。

その後、建礼門院が亡くなり、後鳥羽院は承久の乱に敗れ
隠岐に流されてしまいました。
『新勅撰和歌集』の選者となった藤原定家は
「建礼門院に仕えた時の女房名か、後鳥羽院に仕えてからの名か、
どちらで撰集に載せましょうか。」と右京大夫に尋ねてきました。

♪ことの葉の もし世に散らば しのばしき
 昔の名こそ とめまほしけれ

(私のような者の歌でも、もし世に広がるのでしたら、
忘れがたい昔の名前こそ、それに書き残していただきとう存じます。)
「それなら昔の名を後の世まで残しましょう。」と
定家は答えてくれたという。
この時、彼女は76歳になっていました。
そこで右京大夫は『建礼門院右京大夫集』を終えています。
後年、後鳥羽院の宮中に再度出仕し20年以上使っていた女房名ではなく、
若いころ、数年でしたが用いていた時の忘れがたい名を選びました。

彼女の和歌は定家によって『新勅撰和歌集』に
二首選ばれたのをはじめとして、玉葉に九首、新千載に一首、
新拾遺に一首、新後拾遺に一首、新続古今に二首、
合計二十二首が勅撰集に載せられていますが、
これらの和歌はすべてこの家集から採られています。

境内図は寂光院HPよりお借りしました。
建礼門院に対する鎌倉方の監視の目もまだ厳しく、
大原の入口には監視所が置かれていた頃、
右京大夫は寂光院に女院を見舞っています。
昔の主といっても右京大夫が仕えていたのは僅か5、6年間です。
比叡山の麓にある大原は、今でも京都駅からバスで1時間はかかり、
当時は都からはるかに遠い場所と思われていました。
それを監視の目をくぐりぬけ、訪れる人とてない
奥山里の庵をあえて訪問したというのです。

京都バスの終点大原で下り、西に草生(くさお)川の
上流に向かって進むと寂光院への道です。

本堂

寂光院の傍らに庵を結んだ建礼門院の庵室跡に建つ石碑

汀の池の畔に文化5年(1808)3月建立
「阿波内侍、右京大夫、
大納言佐局、治部卿局古墳、是より三丁ばかり」と彫られた石標があります。
女院に仕えた女官たちの墓への道標です。

寂光院を右手に見て100mほど進むと左側に駒札が建っています。

草生川に架かる橋を渡り石段を上ると、
女官たちの墓が並んでいます。



阿波内侍は、語り物系の『平家物語』が藤原信西の娘としているのに対し
読み物系は信西の孫としています。
治部卿局(じぶきょうのつぼね)は、平知盛の室、
大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)は、
藤原邦綱の娘で平重衡の室です。
壇ノ浦から都に戻され、
日野にいた姉の許に忍び住んでいましたが、
やがて寂光院の女院に仕えました。
右京大夫(うきょうのだいぶ)は、平資盛の恋人です。
女院を慕う後世の人々がお傍に仕えた
彼女たちを供養したものと思われます。
建礼門院を監視する頼朝 花尻の森  
平資盛と建礼門院右京大夫(資盛の住吉詣) 
『アクセス』
「寂光院」京都市左京区大原草生町676 (午前9時~午後5時)
TEL.075-744-3341
京都駅前から17番(18番) 〔C3のりばから〕
京阪電車「出町柳駅」前から10番・16番・17番
市営地下鉄「国際会館駅」から19番
京都バス「大原」下車 徒歩15分
京都バス「寂光院道」下車 徒歩約20分
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
糸賀きみ江「建礼門院右京大夫集」講談社学術文庫、2016年

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52年

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
若き日々は彼女の心にずっと残っていたのでしょう。 (yukariko)
2019-03-31 18:39:02
勅撰集に載せられた二十二首を「建礼門院右京太夫」の名で上げてほしいと言ったという、彼女にとって5~6年の建礼門院での宮仕えに使った名乗りとその頃の思い出こそが生涯で一番大事だったのでしょう。
再出仕後の20年とは比較にならないほどのインパクトだったからこそ、京からも遠い隠棲の山里まで昔の主や側仕えの人々に会いにゆき、榮華に溢れていたその昔の話をしたかったのでしょう。
 
 
 
そうでしょうね (sakura)
2019-04-02 16:00:46
右京大夫が宮仕えを辞めた理由は、資盛との恋愛が
世間の噂になったとも、母夕霧の看病のためとか推測されていますが不明です。

出仕した当時は「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほど
平家が繁栄していた時代でしたから、朝廷に仕える臣下には、
平家公達が多くを占め、後宮は彼らと宮廷女房たちが
打てば響くような歌の贈答や知的な会話が交わされる社交場でした。

右京大夫は、平家の栄華、源平争乱、平家一門の滅亡、
承久の乱を見て、80歳くらいまで生きたのではとされています。

平家の人々と親しく交流する機会があったことや
資盛との恋を誇りに思いながら残りの日々を追憶と鎮魂に生きたのでしょう。

 
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