平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平家物語では、平重盛は横暴傲慢な父清盛と対比して
誠実温厚な人物として好意的に描かれています。
しかし物語は重盛を理想的人物として描き、聖人像を強調するために
思い切った虚構も加えています。その事例としてあげられるのが
「巻1・殿下乗合(てんがのりあい)」での重盛です。

「乗合」とは乗り物に乗ったままで出会うこと、
特に貴人の行列に乗り物に乗ったまま出会うことをいう。

平資盛画像(赤間神宮蔵)
藤原基房画像(徳川美術館蔵)

九条兼実(基房の異母弟)の日記『玉葉』によると、
事件は嘉応2年(1170)7月3日に平重盛の次男資盛と摂政基房の間で起きました。


法勝寺の法華八講よりの帰り道、基房の車が資盛の女車と鉢合わせをしました。
基房の従者は下車の礼をとるよういいましたが、それを聞かずに駆け抜けようと
したため、基房の従者達が無礼を咎め、車を壊すという乱暴狼藉を働きました。
後に車の主が今をときめく平家の御曹司であることを知った基房は慌てて
実行犯を重盛に引き渡しましたが、重盛は彼らを返して訴えたので、
基房は検非違使にその身柄を引き渡し勘当しました。

それでも重盛は怒りを鎮めず兵を集めて報復の準備をします。
この噂を耳にした基房は邸に籠り外出をしなくなりました。そして事件から
3ヶ月以上もたった10月21日、高倉天皇の元服についての儀定が内裏で
開かれることになり、摂政基房の行列が参内の途上、重盛配下の武士たちに襲われ、
5人が馬から引き落とされ、そのうち4人が髻(もとどり)を切られたという。
基房は驚いて引き返したので、この日の儀定は延期ということになりました。

当時の人々にとっても重盛のこの行動は
奇妙に映ったらしく、天台座主慈円も(兼実の弟)その史論書『愚管抄』で、
「重盛がしたことが、理解しがたい不可思議な事をした。」と記すほどです。

平家物語絵巻より殿下の乗合(林原美術館蔵)

ところが『平家物語』では、報復を命じたのは重盛ではなく、
清盛だとして次のように語っています。

資盛は鷹狩の帰り、摂政基房の車に行きあい、基房の従者は馬からおりろと要求しました。
しかし当時資盛は13歳で、お供の者たちもみな若侍だったので礼儀作法を
心得ている者は一人もなく、平家の威勢を嵩にきて駆け抜けようとしたので、
怒った従者らは資盛主従を馬から引き落とすという狼藉を働きました。

資盛からこの件を聞いた清盛は激怒しますが、重盛は息子の非礼が悪いのだからと
清盛を宥めます。怒りがおさまらない清盛は重盛に内緒で報復の機会をうかがい、
宮中に向かう途中の基房の行列を待ち受け、六波羅の兵三百余騎に
お供の者の髻(もとどり)を切るなど散々に乱暴を働かせました。

これを知った重盛は大いに驚き、摂政に無礼を働いた資盛を伊勢に追放した上、
事件に関わった侍たちを勘当したとしています。重盛の立派な振る舞いに
世間の人々は感心し、臣下の中では最高位にある
摂政に恥をかかせた
清盛の行為を『平家物語』は「平家悪行のはじめ」としています。

実際は、仁安3年(1168)2月に清盛は病のため出家し、
出家後は福原に隠棲していたのでこの事件とは無関係でした。
物語には清盛の暴走が過度に強調され、優れた面を隠蔽するため多くの創作が含まれ、
平氏一門滅亡という悲劇は、清盛の悪行によって導びかれたとしています。

 清盛の孫、資盛に乱暴した摂政基房の行列を報復のため襲い、
見せしめのため基房の従者たちの髻を切る清盛の家来たち。

事件の背景
この事件の背景には、摂政藤原基実の死後、その莫大な所領の大部分を
後家の盛子(清盛の娘)が相続したことからくる
平氏と松殿基房(基実の弟)の根強い反目があったと考えられます。
基房邸は中御門東洞院にあり、松殿と呼ばれ、この家系を松殿家と呼びました。

平安時代、藤原氏は天皇の外戚という立場を背景に摂政・関白となり、
娘3人を妃に立てた道長の代に最盛期を迎え、
多くの荘園を集積するなど、経済的な支配力も強めていきました。
道長の子の頼通(よりみち)はあまり娘に恵まれず、天皇のもとに皇后として
納れた娘も皇子を生むことなく摂関政治はこの代で終焉を迎えましたが、
道長の子孫がそのまま摂政・関白を独占しました。
摂関政治に代わって藤原氏から政権を奪い、実権を握った上皇(退位した天皇)たちの
院政という専制政治がスタートし、白河・鳥羽・後白河院政と続きました。

摂関家は身内同士の内紛も一因となって起こった保元の乱で打撃を蒙り、
その権勢には衰えが見えはじめましたが、最大権門勢力であることに変わりはなく、
清盛は娘盛子を基実(忠実の孫で忠通の子)に嫁がせました。
摂関家との接近を図り、清盛が政権を握ろうとする政略結婚ですが、まだ24歳の
若者である基実にとっても強大な軍事力をもつ清盛は頼りになる存在でした。

清盛は盛子を通じて摂関家を掌握し、摂政基実を補佐しましたが、
基実は病に倒れあっけなく亡くなりました。清盛の大きな誤算です。
11歳で後家となった盛子に子供はいませんでしたが、
のちに清盛は基通(基実の子)に期待し、盛子の妹完子(さだこ)との
婚姻を成立させ摂関家との関係をさらに深めていきます。

摂関家の側近、藤原邦綱のアドバイスで、清盛は基実死後、
摂関家の財産の大半を盛子に相続させ、平氏の管理下に置きました。
悪く言えば平氏が摂関家領を横領したことになります。

そして基実の遺児基通がまだ7歳だったため、基房(基実の弟)を摂政に立てました。
清盛にしてみれば、それは基通が成長するまでの一時的な措置のつもりですから、
基房は平家一門に対して、相当遠慮すべきであると思っていました。
一方、基房は基実の遺領をわずかしか相続できなかったことから、
平氏に大きな不満を抱き、鹿ケ谷事件で清盛によって、
近臣たちに過酷な処分を下され内心憤っていた後白河院に近づきます。
天皇家と摂関家が結び、反平氏政策を取り清盛と対立します。

重盛の死後、後白河院と清盛との関係が一気に崩れ、治承3年(1179)の
清盛クーデターで、院は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止され、
兄基実の死後、摂政のち関白となり、13年余、
摂関の地位にあった基房も職を罷免され備前に流されました。

清盛に提言をした藤原邦綱は低い身分の家柄でしたが、清盛に生涯にわたって尽し、
その才覚で権大納言にまで出世し、娘の大納言佐(すけ)は
重衡(清盛の5男)の正室で、安徳天皇の乳母となります。

重盛の行動を好意的に解釈すれば、この当時、清盛は福原の別邸に常住していたので、
父に代わって一門を統率していた重盛の気負いからきたものともいえます。

また基房襲撃の時、重盛(33歳)は病気で一時休職していたのを復任した時期です。
この年の暮には再び病のため職を辞しています。
健康への不安や体調不良が続き、こうした行動をとったとも考えられます。
重盛は殿下乗合で見せたような武断的な面も持ち合わせていますが、
『愚管抄』に「この小松内府はいみじく心うるはしくて」と記されるように、
どちらかといえば、貴族的で温厚な人柄だと評価されています。
『参考資料』
河合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、平成13年 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 大津透「日本の歴史(6)道長と宮廷社会」講談社、2001年
 安田元彦「平家の群像」塙新書、1982年 上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
殿下乗合事件 (揚羽蝶)
2017-05-10 17:21:57
 平家悪行の始まりみたいな感じで言われていますが、
貴族社会から武家社会に移る一つの事件だったと思います。平家は家族愛が深いというか、子に甘いところがあるので、一族の面目もあり仕方なく仕返しをしてしまいました。
重盛公も猛省をしているので、許していただきたいと思います。
 
 
 
子供可愛さに報復 (sakura)
2017-05-12 07:30:28
それは一面の真理かも知れませんね。

重盛は平家物語の作者だけでなく、周囲の人々にも
冷静穏便で何かと心配りができる人物と見られています。
「愚管抄」でも、これは重盛が犯した唯一の過失としていて、
本来の彼は真面目人間であったようです。

ご存知の通リ、重盛の継母、時子は後白河院の寵愛篤い建春門院の姉であり、
さらに娘の徳子が安徳天皇を生むと、時子に連なる人々が
一門の中で勢力を得てきます。

重盛は平家一門にとってもっとも憎らしい相手、
藤原成親の妹を妻にしていますから、鹿ケ谷事件以来、
一門内で孤立し大変な気苦労があったと思います。
平氏滅亡を見ずに亡くなったことがせめてもの救いです。

 
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