平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






JR那智駅の近くに補陀落渡海の寺として知られる補陀洛山寺があります。
駅は無人駅ですが、駅舎の隣には町営の温泉施設や道の駅「なち」があります。


かつてこの寺は高知県の室戸岬、足摺岬とともに、極楽浄土を目ざして小舟で
渡海を試みた僧たちの出発点となっていました。

『平家物語』『源平盛衰記』には、浜宮王子の前から船出し
入水した平維盛の話が記され、補陀洛山寺の裏山には、
渡海上人の墓とともに平維盛、平時子だといわれる供養塔があります。

本堂横に裏山への道しるべがあります。









渡海上人の墓は三段あり、そのうち最上段の左端が維盛、
その右が平時子の供養塔と伝えられています。


那智湾を臨む裏山に並んでたつ平維盛と平時子の供養塔

建礼門院右京大夫の歌集『建礼門院右京大夫集』には、都で維盛入水の
噂が広まっていたことや入水説が信じられていたことなどが書かれています。
建礼門院右京大夫はその中で、維盛入水を聞き人々が哀れがったことや
法住寺殿で維盛が光源氏さながらに青海波を舞った時の輝くばかりの
面影が忘れられないなどと記し、その死を悼む歌を残しています。
♪春の花の色によそへし面影の むなしく波の下にくちぬる
(桜の花にも例えたい人が今は空しい熊野の波の下に沈んだことよ。)

♪かなしくもかかる憂き目をみ熊野の 浦わの波に身を沈めける
(悲しいことにこんなつらい目にお会いになって
熊野の波の下に朽ちてしまったことよ。)
『建礼門院右京大夫集』は、建礼門院つきの女房で当代一流の歌人であった
建礼門院右京大夫が、維盛の弟資盛(すけもり)との恋を追慕し、
源平動乱が収まった後に歌日記風に書き綴ったものです。

歴史上の悲劇の主人公で「その遺体が見つからない」あるいは
「確認が困難」な場合、生存説やその末裔と称する伝説が広く見られますが、
維盛も入水せず紀伊半島に潜んでいたという伝承があります。
『大日本史』は、維盛の末裔が熊野の色川氏、小松氏であるとし、
『高野春秋年輯録』には、維盛は小松氏の祖となったとあります。
『源平盛衰記・中将入道入水の事』には、維盛の入水を記し、
そして「ある説に曰く」と断り、二つの説を載せています。
「一つは、維盛は熊野参詣の後、高野山に戻ってから、逃げきれないと観念し、
都に上り後白河法皇に助命を嘆願した。そこで法皇は不憫に思い
頼朝に伝えると、頼朝は下向を命じます。仕方なく維盛は鎌倉に向かったが、
飲食を絶ち、旅の途中の相模国の湯下の宿で餓死したというのです。

これは禅中記に見えるとしています。権中納言藤原長方の日記『禅中記』は、
残欠で確認できませんが、上横手雅敬氏は「長方の日記だとすれば
この説もすてがたい。」と述べておられます。(『平家物語の虚構と真実』)
もう一つは、那智山参詣の折、那智の修行僧が憐れみ滝の奥の山中に
庵を作って隠し、維盛は生きのび子孫繁栄したという説です。」
今となっては、維盛が入水したのか餓死したのか分かりませんが、五来重氏は、
「維盛の説話は高野聖や熊野山伏の唱導によって形成され、補陀落渡海を
平家の公達の最期に結びつけたものであることは疑いない。」と維盛入水と
補陀落信仰との関連をはっきり指摘し、高野や熊野の語り部が
この説話に介入したとされています。(『熊野詣』)


渡海上人たちは、外に出られないよう釘づけされた小さな舟に
生きながら乗り込み、那智の浜から船出しました。
補陀落渡海は一種の捨身行ですが、平安時代から江戸時代までの間に
20数回も行われ、当時の僧らの修行は文字通り命をかけたものでした。
補陀落とは、梵語(古代インドで用いられた言語)のポータラカ、
想像上の観音の浄土です。

室町時代後期の『那智参詣曼荼羅図』には、
那智の滝を中心とした境内の様子や補陀落渡海などが描かれています。


下部に描かれている補陀落渡海の光景には、大鳥居を入った正面に浜の宮王子の
供僧寺・補陀洛山寺があり、その右隣には浜の宮王子の堂舎が並んでいます。
鳥居の前の海には、渡海舟のほか途中まで綱で引く舟や
浜辺には見送りの僧らの姿も見えます。
引舟に引かれて海に出た渡海舟は、帆立島近くにさしかかると、渡海舟の帆を引舟が
立ててやり、綱切島までくると綱を断ち切り、熊野灘へと放ったと考えられています。
江戸時代になると生きたまま渡海する風習はなくなり、死者を生きたように装って、
引舟が湾外の山成島まで引いて水葬に付すようになり、渡海の意味も
時代とともに厳しい修行から一種の儀礼に変わっていったことが伺えます。

寺伝では熊野浦に漂着したインドの裸形上人を開基としていますが、智定坊の
草創という伝承もあります。智定坊は源頼朝の家臣下河辺行秀で、行秀は
下野国那須野での狩りの際、頼朝から命じられた大鹿を射損じ、その場で
出家して行方知れずになっていました。その後、熊野で法華経の修行者となり、
やがて貞永2年(1233)3月渡海舟に乗り、30日分の食料と
灯り用の油を積んで那智の浜から、本気で補陀落山へと旅立って行きました。

地元には次のような伝説もあります。「戦国時代のこと、金光坊という僧侶が
渡海を恐れ、途中で舟板を破って脱出し小島に漂着したが、同行者に見つかり、
無理やり海の中に沈められたという。」この話を題材にした井上靖の小説に
『補陀落渡海記』があります。那智湾には地元の人が「こんこぶじま」と呼ぶ
金光坊島、勝浦湾には帆立島、綱切島、熊野灘には山成島が
補陀落渡海ゆかりの島として残っています。

補陀洛山寺は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されています。
熊野本宮大社・新宮速玉大社・那智大社を参拝する人は多いのですが、
熊野三山めぐりの観光バスのコースからはずれているせいか、
境内には人影もまばらです。


本堂内陣 本尊は平安時代後期の千手観世音菩薩像(国重文)です
右手に見えるのが那智参詣曼荼羅図です


本堂前の補陀落渡海記念碑には、25人の名が刻まれ平維盛の名も見えます。



境内にある渡海舟の模型は、那智参詣曼荼羅をもとに
平成5年南紀州新聞社社主、寺本静生氏によって復元されたものです。


渡海舟は入母屋の屋根で覆われ、その中心に帆柱を立て帆をかけます。
屋根を囲うように発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯(もがり)の
鳥居四基があり、鳥居の間に忌垣をめぐらせています。


維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  平維盛那智沖で入水(山成島)   
  
『アクセス』
「補陀洛山寺」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜ノ宮
 JRきのくに線「那智駅」下車徒歩約5分
『参考資料』
「和歌山県の地名」平凡社 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 
五来重「熊野詣」講談社学術文庫 高野澄「「熊野三山七つの謎」祥伝社 
安田元久「平家の群像」塙新書 
新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社 
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社 

上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 平維盛那智沖... 平重盛熊野詣... »
 
コメント
 
 
 
第二の人生があったのではないかと… (yukariko)
2014-11-04 20:13:15
那智山参詣の折、那智の修行僧が憐れみ滝の奥の山中に
庵を作って隠し、維盛は生きのび子孫繁栄したという説
…この通りじゃないにしてもあり得ると思います。
高野聖や語り部たちは維盛が死なないでは具合が悪いでしょうけれど…(笑)
公式に維盛は入水して果て、のちに供養塔が立てられた…そこで公人としての一生は完結、紀伊の山中かどこかで名前を変えて土着の豪族の庇護の元、子供を儲けて違う人生を送ったのではないかと思いたいですね。

徳川家康の政策ブレーンだった天海僧正も明智光秀が名前を変えて生きたという説があるぐらいですものね。
現代とは違うからどこかに抜け穴があるのではないかと…想像するのも楽しいではないですか(笑)
 
 
 
楽しいですね! (sakura)
2014-11-05 10:31:48
那智勝浦の沖で入水したといわれる維盛は、実は入水せず
生きていたという伝承が紀伊半島にはありますが、真偽のほどは謎に包まれています。
その伝承の一つ、『紀伊風土記』などによれば、維盛は入水せず、
太地から那智山の西、那智勝浦町色川に移って隠れ住み子孫を残し、
色川氏の祖となったとあります。
「色川文書」という古文書が残っています。これによると
「南北朝時代になると、色川氏は武士団を率いて足利尊氏方の水軍と
海上で激戦を繰り広げ、戦功を挙げたとされています。」
絵にも描ききれない美しさだったという維盛の最期が、
餓死したというのはあまりにも惨めですものね。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。