コメント
 
 
 
時代や階級によって考え方も様々で (yukariko)
2017-06-07 15:38:09
武人の考え方として「弓矢とる者同士、万一合戦の時にも、敵方に知人がいれば、ひとまず身の安全がはかれるし…」などどこかに共通の認識がり、このような敵味方が入れ替わる乱世にはそれなりの処世術でもあったのでしょうね。
大将の義仲、義経、頼朝でさえ部下による敵の命乞いを受け入れますもの。
その共通の価値観がのちに幕府と御家人の形の繋がりになるのでしょうか。
ところが公卿、殿上人、局の女房など武士とは価値観や考え方が違う者達にはそれが通用しなかった。
 
 
 
そうでしたね (sakura)
2017-06-09 11:15:14
義仲も倶利伽羅合戦で生け捕りにした平家譜代の家臣
瀬尾(妹尾)兼康を助命しています。
ところが、後に兼康は義仲の温情を裏切り反旗を翻しましたね。

また清盛は池の禅尼に懇願され、やむなく死一等を減じ頼朝を伊豆へ配流としましたね。

義経は樋口兼光の助命を法皇に奏上し、法皇は一旦許しましたが、
側近・殿上人・女房らが助命に納得をせず結局斬られました。

合戦にありがちなレイプの問題の実態は分かりにくいのですが、
「延慶本」によれば、兼光は法住寺合戦の際、
在地の合戦の習慣をそのまま都に持ち込み、後白河院の御所にいた身分ある女房を捕えて衣類を剥ぎとり、
5、6日監禁したため、それを恨んだ女房たちが誘い合って
「兼光を斬らないなら私たちが身を投げます」と直訴したそうです。
 
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