『平家物語』は、平重盛(清盛の嫡男)の嫡孫である六代御前が斬られる
巻12の「断絶平家」で終わりますが、諸本の中で一般に流布している系統には、
壇ノ浦での平家滅亡後の建礼門院の帰京から往生までを振り返って
語る箇所を一巻にまとめ『灌頂の巻』とし、物語の最後を飾っています。
謡曲大原御幸(おはらごこう)は、この『灌頂巻』に題材をとり、
大原に隠棲している建礼門院を訪ねた後白河法皇に女院が語る
「六道語り」の物語で作者は不明です。
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まず登場人物のご紹介をします。
建礼門院(平徳子)は清盛の次女に生まれ、母は二位の尼とよばれた平時子、
高倉天皇に入内して皇子を生み、その皇子は僅か3歳で安徳天皇となりました。
平家一門が壇ノ浦で全滅の際、安徳帝を抱いて入水した二位の尼の後を追いましたが、
心ならずも海中から救いあげられて京へ送られ、大原の寂光院でわが子や
母をはじめ一門の菩提を弔いながらひっそりと余生を送っています。
当時右大臣だった九条兼実の日記『玉葉』には、
高倉上皇の命が今日明日に迫っていたころ、清盛夫妻は上皇崩御の際には、
建礼門院を法皇の後宮に入れようにとひそかに計画していました。
しかし普段おとなしい女院がいつになく強く拒絶したため、
沙汰闇となったことが記されています。
後白河法皇は建礼門院にとって舅である一方、次々と平家つぶしを画策し
その追討を命じた当人、親兄弟の敵ともいえます。
法皇との対面にあたって女院の実際の心情はどのようなものだったのでしょう。
なんとも複雑な思いがあったと思われます。
大納言局は五条大納言藤原邦綱の娘、南都焼き討ちの責任者として
斬首された平重衡(清盛の五男)の北の方です。安徳天皇の乳母として出仕し、
父の官位、大納言佐(だいなごんのすけ)の女房名でよばれました。
壇ノ浦では二位の尼、女院に続いて神鏡をいれた唐櫃(からびつ)を抱え
海に飛び込もうとしましたが、袴の裾を敵の矢が射ぬいて生け捕りにされた後、
都に帰り夫重衡の供養を行うと、尼となり女院に仕えていました。
父邦綱はなかなかのやり手で財をなし、大福長者といわれていました。
清盛と仲が良く、清盛が死ぬと後を追うように邦綱も亡くなっています。
阿波の内侍の母は後白河法皇の乳母紀伊二位朝子、父信西(朝子の夫)は、
保元の乱後に政界を牛耳り、法皇の近臣らの反発を招き平治の乱で殺害されました。
萬里小路中納言は平家物語には登場しない謡曲作者の創作による人物です。
<あらすじ>壇ノ浦合戦の一年後の晩春のある日、後白河法皇が
萬里小路(までのこうじ)中納言を供に輿に乗って山深い大原に訪ねてきました。
その時、女院は大納言局と樒(しきみ)や花を摘みに山に入っていました。
供が荒れ果てた庵の中に声をかけると、年老いた尼が出てきて女院はお留守ですと答えます。
法皇は尼を見て「誰であるか」と尋ねると「お忘れになるのは当然です。
法皇様に可愛がっていただいた信西の娘阿波内侍です。
こんな情けない姿になりました。」と涙ながらに答えます。
しばらくすると、女院と大納言局が山から下りてきました。女院は尼になった
自身のこんな姿を見られるのも恥ずかしいとためらいながらも法皇と対面します。
法皇に「噂では六道の有様をご覧になったと聞くが、
このようなことは仏や菩薩の位に達した者でないと叶わぬはずなのに、
不審に思う」と尋ねられ、女院は自分のたどってきた生涯を天上道、
人間道、餓鬼道、修羅道、畜生道、地獄道に例えて語ります。
高倉天皇の后となり安徳天皇を生み、すべて思いのままの天上界のような
日々は長くは続きませんでした。木曽義仲に追われ、都落ちした心細さは
「人間道」の苦しみ、次いで、西海の波に漂い水に囲まれながら、
真水が飲めなくて苦しんだ生活は「餓鬼道」さながら、目の前で繰り広げられる
合戦は「修羅道」の姿そのまま。駒のひずめの音聞けば「畜生道」の
浅ましさを連想させ、壇ノ浦の合戦はまるで「地獄道」のようでした。
私は生きながら六道を見てきたのですと自らの体験を「六道」になぞらえて語り、
その苦しみよりはるかに辛いわが子安徳帝入水の悲しみを述べました。
華やかな宮中生活から凋落していった建礼門院の人生は、平家一門の運命そのものでした。
やがて時は過ぎ、夕暮れになり名残も尽きぬまま法皇は都へ帰る輿に乗り、
女院はその後を静かに見送り庵に入りました。
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画像は、すべて「大原御幸(小原御幸)」より転載。
『参考資料』
能の友シリーズ11「大原御幸(小原御幸)」白竜社、2002年
白洲正子「謡曲 平家物語」講談社文芸文庫、1998年
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書、1998年
永井路子「平家物語の女性たち」文春文庫、2011年
倉富徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年
また、謡曲大原御幸の題材になったのは、うれしい事です。いつも後白河法皇には、複雑な思いがありますが。
寂光院は平家滅亡後、建礼門院が隠棲し余生を送った寺、
平家にとって特別な場所ですから、揚羽蝶さまも参拝なさったようですね。
お書きくださったように、寺の隣には建礼門院の御陵や
近くには、女院に寄り添い仕えた女房たちの墓もあります。
法皇の御幸は平家一門が壇ノ浦で滅亡してから一年後のことです。
女院にしてみれば、合戦の恐怖や幼いわが子を抱いて入水した母、
海底に沈んだ兄弟らの記憶が生々しく、
心静かに法皇と対面できる状態ではなかったと思われます。