平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最寄りのJR篠原駅

十数年前、「源義経元服の池」を訪ねた時、ここ平家終焉の地にも来ましたが、
草津市にある平清宗の胴塚を参拝したついでに野洲市まで足を伸ばしました。

琵琶湖の東、野洲市大篠原、国道8号沿いに
「平家終焉の地」と記された案内板が設置されています。


案内板に従って細い道を進むと「平宗盛卿終焉之地」と
彫られた石標があり、宗盛父子の墓碑が建っています。

以前に来たときは、鬱蒼とした雑木と雑草に覆われて薄暗い中に墓碑が建っていましたが、
藪はすっかり刈られて見違えるように綺麗に整備されていました。
清盛桜、宗盛桜、清宗桜と名づけられた桜の苗木も植えられていました。

清盛桜

宗盛桜

令和元年6月清宗桜

追善供養が行われたようです。

「平家終焉の地
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなく、ここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は、源義経(?)に追われて
1183年7月一門を引き連れて都落ちをした。
西海に漂うこと二年、1185年3月24日、壇ノ浦合戦で敗れ、
平家一門はことごとく入水戦死した。しかし、一門のうち、
建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、
兄の頼朝に追い帰され、再び京都に向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で、義経は都に
首を持ち帰るため、宗盛と子の清宗の二人を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で、父子の胴は一つの穴に埋められ、
塚が建てられたのである。父清盛が全盛のころ、この地のために掘った
妓王井川が今もなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは、
宗盛父子にとっては、日本中のどこよりも安住の地であったであろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり
この池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れ
で蛙が鳴かなくなったことから、「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。
野洲町観光協会」(説明板より)

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)および首洗い池
西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が
平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った
「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、
蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、
その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、
お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約一六五m)、長さ二町(二二〇m)あった。
首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。
野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会」(説明板より)

江戸時代の諸国の名所図会

元暦2年(1185)5月に壇ノ浦合戦で生捕りとなった平宗盛・清宗父子は、
源義経に伴われ、鎌倉へ下って行く途中、野洲川を渡って三上山を望みながら
「篠原堤」を通過して「鏡宿」(現、蒲生郡竜王町大字鏡)に投宿した」と
『源平盛衰記』(巻45)に記されています。
篠原堤は東山道筋(中山道)に位置し、現在の国道八号沿いにある
西池の堤防堤といわれています。(『野洲郡史』)

西池は、、「首洗い池」と続きで蛙鳴かずの池ともよばれ、
現在も付近の農地に用水を供給しているため池です。

また京から鎌倉への道中を記録した紀行文である
『東関紀行』の作者は、
仁治3年(1242)に京を出発し、
「篠原といふ所を見れば、西東へ遥かに長き堤あり」と記しています。

義経は壇ノ浦で捕虜にした平家の総帥平宗盛父子を伴って鎌倉に向かいました。
鎌倉の手前で北条時政が宗盛父子を受けとり、父子は鎌倉に入りましたが、
義経は腰越に留められました。頼朝から対面を拒否された義経は、
兄の誤解を解こうと、腰越状を送り弁明しましたが、
梶原景時の讒言を聞いていた頼朝が心を開くことはありませんでした。
こうして元暦2年(1185)6月9日、宗盛父子は再び
義経とともに京に帰されることになりました。
橘馬允(うまのじょう)公長・浅羽庄司宗信らがその護送につけられました。

宗盛は道すがら「ここで斬られるのだろうか。」「ここでだろうか」と思いますが、
国々、宿々を次々と過ぎて行き、途中、尾張国を通りました。
尾張国内海は、義朝が騙し討ちに遭った地です。
しかし斬られることもなかったので、やや望みを抱き「ひよっとしたら、
命だけは助かるのかも知れない。」と思ったりもします。
清宗は「どうして命の助かることがあろうか。暑い頃なので首が腐らぬように
都近くで斬るのであろう。」と思いますが、父があまり心細そうなので、
口に出せず念仏を勧めました。

やがて都に近い近江国篠原に到着しました。
ここへ大原の本性房湛豪(たんごう)という聖がやってきました。
義経は、前もって宗盛のために使者を立てて呼び寄せていたのです。
湛豪を見て、ようやく宗盛も処刑が迫ったことを悟りました。
ここで父子は引き離され、それぞれ処刑されることになります。

宗盛は、「たとえ首は落ちても、むくろは子の清宗と一緒にと願っていたのに、
こうして別々にされたのが悲しい」と湛豪に涙ながらに訴えました。
湛豪もくずれそうになるおのれの心をおさえて、「そのように思いなさるな。
今はただ念仏を唱えれば必ず往生できると信じて、
南無阿弥陀仏と唱えればいい。」などと説いて聞かせ、戒を授けて
しきりに念仏をすすめるので、宗盛は妄念をひるがえして
西方に向かって声高に念仏を唱えます。
そこへ橘馬允(うまのじょう)公長が太刀を引き寄せ後方にまわり、
今まさに斬ろうとすると宗盛は念仏をやめ、「右衛門督(うえもんのかみ
=清宗)はもう斬られたのか」と聞いたのが最期の言葉でした。
最後まで息子の身を気にかけ、ついに悟り切れなかったのです。

人々はみな、公長がかつて平知盛の家人であったことを忘れておらず、
「権力者にへつらうのは世の習いであるとはいえ、
あまりにも無情な男よ。」と口々に非難しました。

同じ日、右衛門督にも湛豪は仏教の教えを説き、
鉦を鳴らして戒を授けました。
右衛門督が父の最後はいかがでしたか。と聞くので仕方なく、
「ご立派でございました。ご安心なさいませ。」というと非常に喜んで
「それでは憂き世に思い残すことはない。さあ斬れ。」と首を差しのべました。
今度は義経の郎党堀弥太郎が斬りました。
宗盛があまりに未練を残していたので、
遺骸は公長のはからいで、父子を同じ穴に埋めました。


同年6月23日、三条河原で検非違使が宗盛父子の首を受けとり、
三条を西へ東洞院を北へ引き回した後、獄門に掛けられました。
法皇は三条東洞院に於いて見物したという。
そしてこの日は、木津川の畔で平重衡が斬られた日でもありました。

宗盛を斬った公長は、かつて平知盛の家人でしたが、
平家の衰運を見こし、またその昔、源為義から恩を受けたことがあり、
加々美長清の仲介で息子の公忠と公成を連れて頼朝に帰順しました。
(『吾妻鏡』治承4年12月19日の条)

加々美長清(弓馬術礼法小笠原流の祖)も知盛に属して京にいましたが、
平家を見限り富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えています。
(『吾妻鏡』治承4年10月19日条)

ところで、『延慶本』は宗盛の斬り手を息子の公忠としています。
こちらの方が年齢的に妥当と思われます。
橘馬允
父子はともに弓馬に優れ、頼朝は鎌倉での
武芸競技会に2人の息子を出場させています。

平宗盛に引導を渡す湛豪は、当時貴族たちの間にも
信敬厚かった大原来迎院(らいごういん)の長老です。
建礼門院の出家の際にも戒師を務めたといわれる聖で、
いよいよ処刑の迫った宗盛・清宗父子への授戒のために招かれたのでした。
壇ノ浦で捕虜となった平宗盛   平清宗の胴塚  
『アクセス』
「平家終焉の地」滋賀県野洲市大篠原86
JR篠原駅下車、県道158号を南方へ徒歩約30分。
国道8号と県道158号の交差点付近の国道に案内板が立っています。

又は、JR野洲駅南口から近江鉄道湖国バス
「三井アウトレットパーク」行き乗車約20分。
「道の駅 竜王かがみの里」バス停下車、西へ徒歩約10分。
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 「滋賀県の地名」平凡社、1991年
「日本名所風俗図会 近畿の巻」角川書店、昭和56年
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年 
山本幸司「頼朝の天下草創」講談社、2001年

 

 

 

 



コメント ( 6 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
平家終焉の地 (揚羽蝶)
2021-02-04 13:47:57
 ご無沙汰しております。
いつもブログの更新ありがとうございます。
平家終焉の地、と言うと壇ノ浦?と思いますが、こんな所(失礼)にあったのかと思います。
数年前に一度来たことがありますが、本当に寂しいところで草木がうっそうとしていて、やぶ蚊に刺されました。今は、きれいに整備されているようで嬉しいです。
宗盛公と清宗公が、処刑されたのは、当時の状況からは、致し方ない。宗盛公は命乞いをして評判は良くないが、なんとか平家の名を絶やさないように考えたと思います。子煩悩の優しい人であったと思います。
なお、本日2月4日は、清盛公の命日であります。合掌






 
 
 
Re: ご無沙汰しております。 (sakura)
2021-02-05 10:46:27
こちらこそいつもありがとうございます。
揚羽蝶さまが胴塚を祇王の故郷と一緒にお回りになった時も、
荒れていたそうですね。

以前は、国道からこの塚に入る道が分かりにくかったのですが、
「平家終焉の地 平宗盛公胴塚」と記された新しい
案内板が国道沿いに建っていました。
野洲市では、ここを平家終焉の地としているようです。

妻子への愛情深い宗盛は、今日では家庭思いのよき父親という
評価を与えられるのでしょうが、平家物語や吾妻鏡は、彼を鋭く非難しています。

当時、生きて捕虜の辱めを受けるより潔く死を選ぶという思想がありましたから、
いつまでも生に執着する宗盛は卑怯者に見えたのでしょう。

また、大将の政治指導いかんによっては、一門に別の運命をもたらす可能性もあったでしょう。
しかし、老獪な法皇やあの頼朝と渡り合うには、宗盛は善良すぎます。

そして、そんな宗盛を総帥としなければならなかったところに
平家の悲劇があったような気がします。

平家物語は、「平宗盛は、西国で捕虜となり、生きて六条通りを東へ引き回され、
東国から帰ってから、死んで三条通りを西へ渡された。
生きての恥、死んでの恥、いずれもこれに過ぎるものはない」と語っています。
平氏の惣領としてまた内大臣にまで昇進した人物として、
やはり壇ノ浦で一門とともに沈んでほしかったと思います。
 
 
 
久しぶりですね。 (ひろ庵)
2021-02-13 11:13:07
平家終焉とありますが、よく平家の末えとして北条、織田信長、豊臣秀吉と逆に源氏で末えが足利、明智光秀、徳川家康とか聞きますが、このつながりが良くわかりませんがご存じなら教えてください。
 
 
 
お久しぶりです (sakura)
2021-02-14 11:33:49
知っているわけではありませんが、よかったらご参考までにご一読下さい。

一般に平家は壇ノ浦合戦で敗れ、滅亡したといわれています。
「平家物語」は、巻12・六代被斬(きられ)で、平維盛の子(重盛の孫)
六代が相模国田越川(逗子市)で斬られたことに触れ、
「平家の子孫は絶えにけり」としています。

実際は清盛の血筋は、皇室やもと侯爵家の花山院家、もと侯爵家四条家、宗家(平知盛の子孫)などに伝えられています。

宗家は鎌倉時代以来、対馬を支配し明治になって伯爵を授けられています。
知盛が壇ノ浦で沈んだ時、その子知宗はまだ僅か2歳でした。
乳母と知盛の老臣にこっそりと育てられたのです。

桓武平氏には、堂上平氏と武家平氏があります。
堂上平氏には、清盛の妻時子や「平氏でなければ人ではない。」と豪語した時忠がいます。

時忠は壇ノ浦から帰ると能登に配流され、
能登の上時国家、下時国家として存続しています。

北条氏の祖といわれる平維時(平貞盛の子)から後の家系図が明確ではありませんが、
伊豆国田方郡北条を本領とした時政に続くといわれています。

維時の兄惟衛(これひら)の二代後に正盛が登場し、
忠盛・清盛・重盛と続きます。
惟衛の時代に伊勢に進出し勢力を伸ばします。

源氏にも、武門源氏(清和天皇を祖とする)と
村上源氏のような公家の源氏があります。

清和源氏の勢力が確立されるのは、頼信・頼義・義家の
いわゆる源氏三代の時に河内国を拠点として武士としての名声を築きました。(河内源氏)

そして義家の子義親・為義・義朝・頼朝と続きます。
足利氏は、義家の子義国の流れを汲んでいます。

明智光秀の系譜関係についてはいまだ謎が多いのですが、
土岐源氏は満仲(頼光の父)の流れを汲むといわれています。
余談ですが、先日NHKラジオにフリスペポラー氏が光秀の子孫として出演し、
お父さんがドイツ人で母方の祖母が土岐氏と仰っていました。

家康も源氏(新田源氏)の子孫と称していますね。
藤原姓を名のっていた家康は、天正末年に源氏に改姓しています。
かつて鎌倉北条氏を滅ぼして鎌倉に入った新田氏を、
小田原北条氏を滅ぼして関東に入った自らを重ねようとして源氏に改姓したという説があります。

信長には、平資盛の子孫という噂がありました。
織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称しています。
信長は16歳の時に「藤原信長」と称していました。
しかし、源氏の足利軍を倒すのは、平氏の信長だという考えから平氏の子孫と称し、
その後織田家の系図が作られていきます。

これは「信長記」に載っていますが、この物語の信憑性があまり高くないことから創作かも知れません。

秀吉の出自は、尾張国の百姓または足軽の子だと思います。


 
 
 
ひろ庵さんのお名前を見つけて!! (yukariko)
2021-03-11 18:46:40
詳しいお方が色々書いておられるのを読ませていただいくと、なかなかコメントが書けません。
感想は一杯あるのですが…。

ひろ庵さんのお尋ねに対して書いてくださっているのがとても詳しくて、なるほどとありがたく読ませていただきました。
 
 
 
長文でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。 (sakura)
2021-03-13 09:22:53
ひろ庵さまのお尋ねは、史学会においても数々の論議があります。
詳しいことは知らないので、手元にあった本郷和人氏の
「頼朝から信長へ 人物を読む日本中世史」や
野口実氏の「武門源氏の血脈」などを参考にして纏めてみました。
 
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