平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




『平家物語』が語る宇治川合戦は二度あります。
最初の合戦は以仁王と頼政の謀反による橋合戦です。
この戦は宇治橋をめぐる攻防となったことから、
『平家物語』は橋合戦とよんでいます。
その4年後、木曽義仲と源義経が宇治川で戦っています。

治承4年(1180)4月、後白河法皇の第二皇子以仁王(高倉宮)は、
平家打倒の令旨を諸国に潜伏する源氏に下しました。源平合戦の始まりです。
この計画はすぐに平家に発覚し、宮は追われる身となり、
源氏寄りの園城寺(三井寺)に入りました。比叡山延暦寺と
南都の僧兵に援軍を求めましたが、
延暦寺の協力が得られず、
まじかに平家軍が迫ってきました。
5月25日、やむなく、三井寺に合流した頼政とともに
一千五百余の軍勢が寺を脱出し南都へ落ちて行きます。
乗円坊の阿闍梨慶秀は、高齢のために弟子の刑部(ぎょうぶ)坊俊秀を
宮の御供におつけし、自らは三井寺に残るのでした。

俊秀の父山内首藤刑部俊通(としみち)が平治の乱で、
義朝に従って討死したため、幼い俊秀を
引きとり懐に抱くようにして
育てたと慶秀は涙ながらに宮に申し上げました。
源頼朝の乳父、山内俊通の塚(都ホテル裏山)  

宮は乗馬に不慣れな上に疲れ切っていたため、三井寺から
宇治までの間に六度も馬から落ちました。それで宇治橋の橋板を取り外し、
平等院に入って宮をしばらく休息させることになりました。
当時、平等院は天台宗の末寺で執行(しゅぎょう)は
延暦寺・三井寺から交互に任命され、橋合戦の時は三井寺の覚尊僧正でした。


翌26日、これを追って平家の大将軍知盛、頭中将重衡、薩摩守忠度を先頭に、
侍大将には、上総守忠清・忠綱、飛騨守景家・景高など総勢二万八千余騎の大軍が
木幡山を越え、宇治橋の袂に一気に押し寄せ、
鬨(とき)をつくること三度、
頼政軍も閧の声を合わせます。と物語は語っています。しかしこの数には虚構があり、
『玉葉』5月26日条によると、平氏方は300余騎、宮方は僅か50余騎でした。


橋板を外したため、両軍は宇治川をはさんでの合戦となりました。



  平家方先陣の兵が、「橋板がないぞ、怪我をするぞ。」と大声を上げて
叫んだのですが、後陣(ごじん)の者の耳には入りません。
橋板がないのを知らぬ後陣に押され、
先陣二百余騎が人馬ともども橋桁の
すき間から転がり落ち、
五月雨で増水した宇治川の激流にのまれてしまいました。

そうこうしているうちに、橋の両端から矢が射られ戦いが始まりました。
この日、源三位頼政は、長絹の鎧直垂(よろいひたたれ)に、地味な鎧を身につけ
今日の日を最期と思ったのでしょうか、兜はわざと被っていません。
嫡子伊豆守仲綱は、大将が身につける赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧装束、
弓を強く引こうというので、仲綱もやはり兜は被っていません。

この合戦で華々しい活躍を見せるのが、三井寺の僧兵たちです。
橋桁を伝って平氏方に押し寄せ、戦いを繰り広げました。
三井寺きっての荒法師、筒井浄妙明秀という男は、濃紺の直垂に黒革縅の鎧、

五枚錣の兜をかぶり、黒い漆塗りの太刀をさし、矢二十四本さした黒の箙(えびら)を
背負い塗籠籘(ぬりごめどう)の弓に、好みの白い柄の大長刀と黒装束、
華やかな装束が多い戦場ではかえって目立ついでたちです。

まず、五智院(園城寺の僧院名)の但馬が大長刀を持って一人橋の上に進むと、
平家方は「射取れや、射取れ」とさんざん射かけてきますが、
少しも騒がず敵が射かける矢を次々とかわし、
正面から来る矢は
長刀で切り払ったりと鮮やかな技をみせます。
後に「矢切りの但馬」といわれるようになりました。


次に登場するのが浄妙坊、橋の上に進んでまず大声で名乗りをあげ、

24本背負った矢を射れば無駄な矢は一本もなく12人を射殺し、
11人に負傷させ残り一本となると、弓も箙も捨て毛皮の沓をぬいではだしになり、
長刀をもって狭い橋桁(はしげた)の上をさらさらと走り、
あたかも広い大路を渡るごとく
、かろやかに動きまわります。

長刀で向かってくる敵を5人なぎ倒したところで長刀が折れてしまい、太刀で8人
切り伏せましたが、太刀は川へおちてしまい、腰刀だけになってしまいました。
そこへ後に続いていた一来(いちらい)法師が浄妙を助けようとしますが、
橋桁は狭いし、
傍を通り抜けようにもかなわぬこと。
「御免候え」といって浄妙の兜の上に手を乗せ、
肩を飛び越して浄妙を救ったものの、
とうとう討死してしまいました。


平家方が宇治川を突破できず攻めあぐねていた時、
東国武士足利忠綱という17歳の若武者が郷里利根川での敵前渡河の例を語り、
みずから陣頭にたち、配下の三百余騎に馬筏(うまいかだ)を組ませ、
一気に川を渡ると、続いて平家の大軍が次々に対岸に渡り頼政勢に襲いかかりました。
強い馬を上流にたて、弱い馬を下流におき、
筏のように馬を横一列に並べて川を渡る方法を馬筏といいます。

馬筏の作戦で敵前渡河を成功させ、先陣を果たした足利忠綱


渡河に成功した平家の大軍は平等院に攻め込み、頼政軍はあっという間に敗れ、
頼政は平等院の境内で自害しました。


浄妙坊はほうほうの体で、平等院の門前に戻り、芝生の上で鎧、兜をぬぎ、
突き刺さった矢を数えてみると63本、そのうち鎧を貫いた矢は5本ありました。

その傷の手当をして、頭を布で包み浄衣に着替えて下駄を履き、
弓を折り杖にして、念仏を唱えながら奈良へ落ち延びて行きました。
木津川市高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚  
祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  筒井浄妙の坊跡(三井寺)   
源頼政の史跡(平等院扇芝・頼政の墓)
『アクセス』
「平等院」宇治市宇治蓮華116
「JR宇治駅」下車徒歩10分または「京阪電車宇治駅」下車徒歩7~8分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂

「平家物語を知る事典」東京堂出版 「図説源平合戦人物伝」学研





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コメント
 
 
 
血生臭い戦の中で (自閑)
2016-09-23 21:43:53
sakura様
平家物語の不思議な所は、血生臭い戦の描写の中で、雅な表現が挿入されている事です。
萌黄緋威赤威色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは神南備山の紅葉葉の峰の嵐に誘はれて龍田川の秋の暮れ井堰にかかりて流れも敢へぬ
に異ならず
これは漢文の大家の行長には無理な表現です。これを和歌にするとしたら、
神南備の山の紅葉は風さそひ井堰にかかる秋の夕暮
とでもなるかと。これは鴨長明クラスの歌人でないと出来ない表現です。
平家物語鴨長明関与説を主張している私としてはとても重要な部分です。
 
 
 
Re:血生臭い戦の中で (sakura)
2016-09-26 00:36:07
平家物語は、多くの人が関与して成立した作品といわれています。
私は平家物語さえ最後まで読んでいませんし、方丈記も一通り読んだだけです。
長明についても深く知らないので、コメントのお返事には困ってしまいますが、
「方丈記」の序文「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」と

平家物語の序文「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の浬を顕わす。」と同様やはり無常を美しく詠いあげ、
平家物語とともに古典の序文の双璧といわれています。

「萌黄緋威赤威色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは
神南備山の紅葉葉の峰の嵐に誘はれて云々」こんな雅な表現をできるのは長明である。
と仰る自閑さま(長明を研究のテーマとされている)の
ご意見になるほどと思うばかりです。

 
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