平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




三井寺の観音堂へ上る石段の脇に祀られている十八明神社は、
「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。

この社は延暦寺に攻め上った鼠の霊を祀っているため、
比叡山の方向を向いて建っています。



『平家物語』(巻3・頼豪)によると、「白河天皇の時代、
関白藤原師実(もろざね)の娘賢子は、第一の寵愛を賜りました。
天皇はこの后の御腹から皇子が誕生することを望まれて、
効験あらたかな僧として知られた三井寺の頼豪阿闍梨を召して、
『賢子の腹に皇子が誕生するよう祈祷せよ。この願いが叶えられれば、
褒美は何なりととらせよう。』と仰せになったので、頼豪は三井寺に帰り、
懸命に祈ったのでめでたく皇子が誕生しました。

天皇は大そうお喜びになって頼豪を召して、望むものをとらせると
仰せになったので、
三井寺に戒壇建立の許可を願い出ました。
しかし天皇は『いま、そちの望み通り三井寺に戒壇を設ければ、
山門が憤って世の中が無事に治まるまい。三井寺と延暦寺が合戦をすれば、
天台の仏法は滅びるであろう。』といってお許しになりませんでした。
頼豪は無念に思い餓死して怨霊となり、
生まれてきた敦文親王をも殺してしまった。」と書かれています。

その後日談が『源平盛衰記』(巻10・頼豪鼠と為る事)に記されています。
山門があるので我寺に戒壇の設立が許されないのだ。それならば、
山門の仏法を亡ぼしてやろうと頼豪は大鼠になり、経典を食い散らかした。
これは頼豪の怨霊であるとして、身分の上下の別なく、鼠を打ち殺し踏み殺したが、
ますます鼠がふえてきておびただしいと言うほかなかった。

困り果てた延暦寺の僧たちは、怨霊を宥めようと、
鼠ノ宝倉(ほこら)を作って神に祀ったところ鼠の騒ぎが鎮まった。」とあり、
頼豪は敦文親王を呪い殺しただけでなく、
その怨霊は大鼠となり、延暦寺にも襲撃をしかけてきたのです。
鼠ノ宝倉について『源平盛衰記(2)』71㌻下欄に日吉山王大宮の
北方にあり、
大黒天を祀るという。鼠の祠。と書かれています。

『太平記』にも同じ伝説に基づく記述があります。
比叡山の強訴により戒壇設立の勅許が取り消され、これに怒った頼豪は、
21日間護摩を焚き壇上の煙となって果ててしまった。その怨霊は鉄の牙、
石の体をした8万4千の鉄鼠(てっそ)となって比叡山へ押し寄せ、

堂塔や経巻を食い散らかした。」と
記されていることからみても、
当時、広く知られた説話であったと思われます。

ところでこの説話は史実ではありません。そのことは頼豪の没年が
応徳元年(1084)5月、敦文親王(白河天皇の第1皇子)の逝去したのが
承保4(1077)9月ですから、頼豪の入滅は親王がこの世を去って
7年後であることから容易にわかります。
こうした説話が生まれたのは、三井寺の戒壇(かいだん)設立の希望が
長い間にわたってのことであり、戒壇には朝廷の許可が必要でしたが、
それが延暦寺の反対にあい天皇が認めなかったということを
背景にして生まれたと考えられています。

当時のわが国では戒律を正式に授かることで、
国家公認の僧と認められることになり、
その儀式を行う場所が戒壇です。
ちなみに東大寺大仏殿前に戒壇を建立したのが最初で、ついで唐招提寺、
下野の薬師寺、筑紫の観世音寺にも建てられ、東大寺の戒壇とともに
わが国の三戒壇と呼ばれました。その後、平安時代に大乗戒壇設立のため
最澄が奔走し、比叡山に勅許がおりたのはその死の1週間後のことでした。

江戸時代には、頼豪説話をモチーフにした作品が生まれ、滝沢馬琴は
『頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」』を創作しています。
下の絵は妖怪ブームを作った絵師・鳥山石燕が『画図百鬼夜行』で描いた
僧衣を着た鉄鼠(てっそ)と呼ばれるネズミ男と経典を食い荒らすネズミ。


護摩壇前で祈祷する頼豪の口から無数のネズミが吐き出されています。
(『伊勢参宮名所図会』寛政9年刊)


 さて平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示して、集団で
朝廷に訴えを行い自らの要求を通そうとする強訴が始まり、特に南都北嶺と
称された興福寺・延暦寺はたびたび強訴を行い、朝廷を悩ませていました。

『平家物語』では、白河院が思うようにならないものとして
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、これがわが心にかなわぬもの」と
語ったという逸話が紹介されています。
(たびたび氾濫する賀茂川、双六のサイコロの賽の目、
何か意に沿わないことがあると、神輿を担いで京で暴れまわって強訴を繰り返す
延暦寺の僧兵、この三つだけは思うとおりにならない)(「巻1・願立」)
この時に用いたのが興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿でした。



樹下(じゅげ)社本殿



日吉大社の神輿は、摂社樹下社拝殿に置かれていました。

比叡山麓の日吉大社は、『平家物語』にたびたび登場します。
延暦寺の守護神であり、東西本宮を中心に山王二十一社とよばれる
神社から形成され、さらに各神社にはいくつかの末社がついています。
山王祭の「宵宮落(よみやおと)し神事」が行われる大政所(おおまんどころ)の
近くにある子(ね)の神を祀る鼠ノ宝倉もそんな末社の一つです。

円珍(智証大師)は園城寺(三井寺)を授けられ、延暦寺別院として
初代別当となり、貞観10年(868)には、延暦寺の第五代座主に就任しました。
しかし円珍が天台宗を開いた最澄の直弟子ではなく、弟弟子の初代座主
義真の弟子だったため、最澄の直弟子円仁(慈覚大師)の弟子たちの反発を招き、
天台宗は円仁学派と円珍学派が争う山門と寺門の対立時代を迎えるようになります。
寛平3年(891)円珍は円仁派との軋轢を案じながら入滅しましたが、
円珍が心配した通り、この対立は激化していきました。

両派の対立の歴史は、平家物語にも暗い影を落としています。
かつて後白河法皇は受戒のしるしに「伝法灌頂」といって、 
頭に香水(こうずい)をそそぐ儀式をひいき
にしていた三井寺で
受けようとしたことがありました。
この噂を聞きつけた山門側はいきりたち、
法皇が三井寺で戒を受けるなら、
寺を焼き払ってしまおうと
横やりを入れたため中止せざるを得ませんでした。

「第21句・伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」

「巻4・蝶状(ちょうじょう)」には、以仁王の挙兵を受けて、
これに味方する三井寺の動向が詳細に描かれています。
治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政が企てた謀反は平家方に漏れ、
平家方の動きを知った頼政は以仁王を三井寺に逃しました。この頃、
三井寺や延暦寺、興福寺などの寺社勢力はこぞって反平氏に傾いていました。
それは、
天皇が退位してはじめての御幸は、都近辺の神社に
参詣するのが通例ですが、高倉上皇は清盛の崇拝する厳島神社に詣で
これらの寺院は平家に対して強く反発していたのです。

三井寺でも僧兵の反平家感情は強く、

三井寺は南都と延暦寺に加勢を依頼する蝶状(手紙)を送り、
南都は快諾しましたが、
延暦寺からは返答がありません。
その理由は「延暦寺、園城寺は門跡が山門と寺門の二つに分かれているが、
学ぶところはともに天台の教義である。鳥の翼、車の両輪に似ている。云々」とあり、
二寺を対等に扱う文面を無礼であるとして園城寺の申し出に応じなかったのです。
園城寺は円珍が再興して延暦寺の別院としたことに端を発するため、
延暦寺側は園城寺を末寺として扱っていました。
この時、平家は延暦寺に懐柔策をとり賄賂を贈ったことや
清盛の出家に際して、延暦寺の座主明雲が
戒師を務めたことなども影響し、
結局延暦寺は動きませんでした。

倶利伽羅峠、篠原合戦と勝ち進んできた木曽義仲も都に入る時には、
延暦寺に連帯を申し入れる手紙を出しています。
義仲は平家と延暦寺が連携するのを心配し、くさびを打ちこんでおいたのです。
この頃、比叡山では源氏に好意的な僧らの勢いが強まっており
義仲は提携に成功しました。
(「巻7・木曽蝶状並返蝶」)
このように源氏にとっても平氏にとっても
延暦寺の存在は無視できないものでした。
『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(中)角川書店、昭和42年
「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社、1993年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
 「比叡山歴史の散歩道 延暦寺から日吉大社を歩く」講談社、1995年
古寺をゆく「延暦寺」小学館、2001年 
小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫、2002年

 



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コメント
 
 
 
十八明神社 (揚羽蝶)
2018-05-28 23:37:44
三井寺と延暦寺は、色々確執があったのですね。地理的にも近いし日吉大社も大津市です。
戒壇の設立が、延暦寺の妨害で、出来ず、それに対して
鼠が復讐したというのは、なかなか面白いお話ですね。
日吉大社は四月の桜の時期に山王祭があり、神輿も出ます。その時期にまた、行きたいです。
 
 
 
Re: 十八明神社 (sakura)
2018-05-30 09:27:13
三井寺の桜と山王祭、いいお考えですね。
京阪電車の坂本駅近くにある最初の大鳥居から日吉大社の参道沿いには、
みごとな桜並木が続いていますから、こちらでもお花見がおできになります。

グラビア写真で見ているだけで、実際に山王祭を見物したことがありませんが、
比叡山麓と琵琶湖を舞台にして繰り広げられる豪快なお祭のようです。

戦国時代、淺井・朝倉両氏に味方した比叡山に対し、
信長の大軍が瀬田の浜から押し寄せ日吉大社を焼き尽くし、
その勢いで山上に駆け上り延暦寺を焼き滅ぼしてしまいました。
この時、当時の神輿も一基残らず焼失してしまい、今の神輿は後のものですが、
国の重要文化財に指定されています。

江戸時代の「東海道名所図会」や「近江名所図会」には、
山王祭の神輿渡御を拝もうと遠近の人々が群れをなして集まり、
参詣人目当ての酒売、餅売、飴売、くじ引き屋などが店を出し、
賑わう様子が描かれています。
今も県内外の観光客を大勢集めて賑わうのでしょうね。

戒壇の設立が延暦寺の妨害で出来ず、それに対して
鼠が復讐したというのは、あり得ないお話ですが面白いですね。

 
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