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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




比叡山の東麓、坂本にある日吉大社は八王子山(牛尾山)を

神体山として、その下に大宮川に沿ってゆったりと広がっています。
最澄は比叡山で修行を始めて以来、地主神として日吉山王を崇拝しました。
そのため日吉社の神々は、延暦寺の守護神・地主神ということになり、
延暦寺とともに発展し、全国に広がっていきました。
なお大衆・衆徒は延暦寺に属し、神人・宮仕は日吉大社に属していました。

日吉社には三輪明神を勧請した大宮(西本宮)と
産土神を祀る二宮(東本宮)を中心に、
宇佐宮・白山宮(客人)・十禅師(樹下社)・三宮・牛尾宮(八王子)があり、
合わせて山王七社(上七社)という。

客人(まろうど)宮は白山妙理権現を祀る白山の本宮で、中宮はその子とされ、
祗園社も神社・寺院の両面があり、この頃は延暦寺の末寺になっていました。

平安時代末期には、延暦寺の僧兵が朝廷への強訴の度に日吉社の神輿を担いで
押しかけ、これを「神輿振」と呼んで宮中では大いに恐れていました。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ朕が心にかなわぬもの」と
白河上皇が自分の意のままにならないものの一つとして
山法師(延暦寺の僧兵)を数え上げたことは有名な話ですが、
後白河院政が始まってからも院勢力と延暦寺の対立はしばしば繰り返されました。



二の鳥居から日吉馬場へ



大宮橋を渡り山王鳥居をくぐる





西本宮楼門



西本宮本殿

宇佐宮拝殿



宇佐宮本殿

白山宮参道









樹下社(じゅげしゃ)本殿



樹下社拝殿には、立派な神輿が置いてありました。



白山の衆徒は白山中宮の神輿を担いで山を登り、
日吉大社の客人(まろうど)宮に納めました。客人宮というのは
白山妙理権現のことで白山中宮の神とは父子の間柄です。
アクセス』
「日吉大社」大津市坂本5-1-1 京阪電鉄石山坂本線「坂本駅」下車徒歩10分
JR湖西線 「比叡山坂本駅」下車徒歩20分
『参考資料』
「平家物語」(上)新潮古典集成 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
「滋賀県の地名」平凡社 末木文美士「中世の神と仏」山川出版社
「比叡山歴史の散歩道」講談社 「「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社



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平家物語の中で最も有名な章段の一つに『妓王の事』があります。
この物語の主人公白拍子の妓王は『平家物語』の中の人気者です。
野洲市は妓王・妓女の故郷と伝えられ、この地には妓王寺や妓王の屋敷跡があります。

地元の伝承や『妓王寺略縁起』によると、「妓王は江辺庄の橘次郎時長の娘といわれ、
院の北面であった父が保元の乱で戦死したため、妓王・妓女は母刀自とともに都へ出て
白拍子となり、平清盛の寵をえた。妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために
清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12キロの水路を掘ってもらい
村人は妓王を讃えてこれを祇王井と名づけた」と伝えています。
祇王井が平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、確実な史料に
これが記載されるのは、妓王の頃から四百年以上もたった江戸時代初のことです。

 新潮日本古典集成『平家物語』(上)には義(妓)王の伝説について
「清盛の寵を受けるようになった義(妓)王は、清盛に乞うて故郷に
用水を造り、今に妓王川として残るという。これを証すべき史料は
もとよりないが、その地が篠原・鏡など遊女の宿駅に近いことは
注意されてよい。」という注釈が付けられています。
東山道の鏡宿で遮那王が元服の式をあげて源九郎義経と名乗ったと『平治物語』に見え、
『義経記』では、この宿で遮那王(義経)が強盗を討ち取っています。
篠原宿は平治の乱で敗れた頼朝が伊豆に流された際、頼朝に好意を寄せる
平家の侍平宗清がこの宿まで送っています。
また壇ノ浦合戦で捕らえられた宗盛は義経に伴われて、鎌倉に護送され
頼朝に対面した後、そのまま京へ向い、この宿で処刑されました。
このように東山道沿いの「鏡」「篠原」の両宿は、平安時代末期交通の要衝として栄え、
遊女も多くその中から都に上り白拍子となり名をなした者もいたでしょう。
『源平争乱と平家物語』には、「妓女は白拍子を意味する普通名詞、
妓王は妓女に対応する普通名詞的な呼称だと思う。刀自も老女を意味する
一般名称でありそのような女性の実在を証明するのは困難だと思う」と記されています。
清盛をめぐる妓王・仏の悲話が本当であったのかどうか、真相は分かりませんが
篠原や鏡宿の遊女の伝説が語り継がれ、妓王に仮託されて水利をめぐる問題と
結びつけられてやがて妓王伝説となったとも考えられています。
















ここで『平家物語・妓王の事』のあらすじを簡単にご紹介します。
妓王・妓女の姉妹は都に聞こえた白拍子の名手であった。姉の妓王は
今をときめく清盛の寵愛を受けて、西八条邸で幸せな日を送っていた。
おかげで彼女の母刀自(とぢ)も立派な屋敷で豊かに暮らしていた。
それから三年が過ぎ、加賀の者で仏という若くて美しい白拍子の
名手が西八条邸に現れた。清盛は仏を追い返そうとしたが、
情け深い妓王のとりなしで対面がかなう。
仏御前の謡う今様に心を動かされ、その舞に魅せられた清盛は
たちまち寵を移し妓王を邸から追い出してしまった。妓王は出て行く際、
♪もえ出るも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
 と詠み襖に書き付けます。
(仏御前もいづれかには自分のようにあきられてしまうであろう)

翌年の春、妓王は、清盛に仏が退屈しているので慰めに来て欲しいと
呼び出されます。母に諭されてやむなく邸に出向くと下座に侍らされ、
かっての自分の席から仏御前が見守る中、今様を歌わされるという
辱めを受けました。惨めさに深く傷ついた妓王は母や妹とともに出家して
嵯峨野に庵を結びました。その年の秋も深まったある夕べ、3人が念仏を
唱えていると庵の戸をたたく者がいます。尼僧姿の仏御前です。
「私もいつか捨てられる身、来世の往生を願おうとたずねてきました。」という。
以来、4人はともに朝夕仏前に花香を供えひたすら念仏を唱え、
それぞれ静かに極楽往生を遂げたということです。
後白河法皇の長講堂の過去帳には「妓王・妓女・仏・とぢ等が尊霊」と
4人の名前が入れられたという。

ここに登場する清盛は思いやりのない無神経な男として描かれ
世の人々にひどく悪いイメージを与えました。『京都発見(1)』によると
「平家物語は法然の専従念仏の宣伝書という意味をもっている。」とあり、
物語は清盛の横暴を伝える説話から当時、高まっていた念仏往生の
説話へと展開している。この世の栄華のはかなさにいち早く気づいた
妓王や仏たちが仏教に帰依し、往生したことに多くの読者や聞き手は
彼女たちの運命に涙を流し、惜しみない拍手をおくったことであろう。
はたして妓王という名の白拍子は実在の人物だったのだろうか。
この物語は史実なのだろうか。それを確かめる史料はない。」とあります。

白拍子というのは鳥羽天皇の時に始まり、島の千歳・和歌の前という
遊女が白い水干に立烏帽子、白鞘巻(しろさやまき)の刀という出で立ちで
男装で舞った。これを男舞といったが、のちに烏帽子、刀をとって
水干だけで舞ったので白拍子といったと平家物語では述べている。
『徒然草』は、藤原通憲入道(信西)が、舞の型の中で特に面白いものの数々を
選び磯禅師に教え舞わせた。白い水干を着た上に、鞘巻を腰に差させて、
烏帽子をかぶって舞う扮装であったのでこれを男舞と言った。この舞を禅師の
娘静が継承したのが白拍子の起こりと説明しています。(第225段)
禅師の娘静とはむろん源義経の愛妾静御前のことです。磯禅師は白拍子を
育成し統括、派遣する役目を果たしていたと考えられています。
京都市嵯峨野にある祇王寺もご覧ください。

祇王寺 (祇王・祇女) 
『アクセス』
「妓王寺」野洲市中北90 
JR野洲駅北口から近江鉄道バス木部循環行で約10分、「江部」下車、 徒歩約10分。

バスの本数が少ないのでご注意ください。
妓王寺には、妓王・妓女、母刀自、仏御前の4人の像が安置されています。
通常拝観は予約が必要ですが、今年はNHkの大河ドラマ平清盛が放送されている関係で
平成24年11月30日までは毎日予約なしで見学可 9:00~16:30

「妓王屋敷跡」、「土安(てやす)神社」どちらも妓王寺の近くにあります。

『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 梅原猛「京都発見」(1)新潮社 
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
五味文彦「源義経」岩波新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「滋賀県の地名」平凡社

 



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三井寺北院・新羅善神堂は弘文天皇陵西の山側にあり、
参道はうっそうとした木々に覆われ境内はひっそりとしています。

新羅善神堂と源氏との関りは深く、源頼義は前九年合戦に出陣する際、新羅明神に戦勝を祈願し、
頼義の三男義光は新羅明神の社前で元服し新羅三郎と名のりました。


智証大師(円珍)が留学して、天安二年(858)唐から帰国の船が
暴風雨に翻弄されている最中に新羅明神が現われ、「我は新羅明神なり、
汝のため護法の神とならん」と約束したことから、三井寺北院の現在地に
860年、新羅明神を祀る祠を建てたのが起こりです。内陣須弥壇には
平安時代後期に造られた木造の新羅明神像(国宝)が安置されています。





三井寺は、比叡山との宗門対立で度々焼き打ちに遭っています。
また「平家物語」巻四(三井寺炎上の事)によると
源頼政が以仁王とともに三井寺を頼って兵を挙げ、敗北した頼政は
三井寺の別院であった平等院で自刃し、
以仁王も奈良に向かう途中で殺されます。
この報復として平家の大軍が三井寺を攻め、
金堂のみを残して由緒ある伽藍も焼きつくしてしまい、
責任者は役職を解かれ僧兵は流罪になります。
平家滅亡後、源頼朝は三井寺を源氏の氏寺として再興しました。

現在の三間社流造の代表的な建築の社殿である新羅善神堂は、
貞和三年(1347)足利尊氏によって再興され、国宝に指定されています。
もとは、新羅社・新羅明神社とよばれていましたが、
明治の神仏分離で現在の名称となりました。


新羅善神堂の南の道を上って義光の墓へ



玉垣に囲まれた義光の墓。

新羅三郎義光(1045~1127)
新羅三郎義光は、弓馬の道に優れ早くから朝廷に仕え、
左兵衛尉に任じられていましたが、
後三年の役で兄の義家が
苦戦していることを知ると勅許を得ずに奥州に下向して
勝利に導き、
嘉承元年(1106)には、近江国甲賀郡柏木郷を三井寺に
寄進しています。
義光の子義業からは佐竹家、義清から武田家が出ています。


義光は弓馬に秀でていたばかりでなく
「武芸の家に生まれたため、心ならずも、
これに従っただけである。
先祖の恥は守護神が庇護してくれる」といって

詩歌や笙を好み、その芸域は名人に達していたといいます。
笙の師豊原時元死去の際、義光は秘曲「大食調入調」を授けられ、
源義家に加勢するため奥州に下る義光が、
豊原時元の子時秋に
この秘曲を授けたという伝承があります。

(現地説明板)

源義綱(?~1132?)は、賀茂社前にて元服し賀茂二郎義綱と称します。
前九年の役では父頼義、兄義家に従って奥州に下向し活躍し、
陸奥・伊勢・甲斐・信濃等の国守を歴任します。
義家の死後、義家の子・義忠を殺したという冤罪を着せられて
佐渡へ流されその後自害します。子息五人も自害し一門は滅びました。
(この事件の背後には、義光がいたと云われています。)
 『アクセス』
「新羅善神堂」京阪電車石山線別所駅より徒歩10分。
弘文天皇陵のすぐ西側にある鳥居をくぐって進むと、道が右に折れます。
石段を上った広場の奥にあります。
「新羅三郎義光の墓」新羅善神堂鳥居の横から、
石畳の敷かれた山道を7、8分上ります。
『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社
「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館
「日本古典文学大辞典」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
「京都発見」(比叡山と本願寺)梅原猛 
「滋賀県の歴史散歩」(上)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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以仁王(またの名を高倉宮)は、後白河院の皇子で皇位継承の位置に
ありますが、
平家から疎外され、不遇をかこっていました。
高倉天皇が清盛の娘徳子の生んだ皇子(安徳天皇)に位を譲り、
宮は自らの皇位継承の夢が断たれました。
そこへ平氏全盛の世に不満を抱いていた源三位頼政が宮を訪ね、
平家打倒の挙兵を勧めます。頼政の説得に思い悩んだ末、
源行家に令旨を与え諸国の源氏に挙兵を促しますが、
謀議が平家方に伝わるや、清盛は福原から急ぎ京に入り、
「以仁王を捕らえて土佐に流せ」と命じました。

当時、頼政は70歳を超え、位は清盛に推挙され三位まで昇っていました。
『平家物語』では、頼政が以仁王に謀反を持ち掛けたとしていますが、
実際は以仁王が皇位継承の最後の機会と見て、
頼政をそそのかしたという説が有力視されています。

治承4年(1180)5月15日、十五夜の月を眺めていた以仁王のもとに、
頼政の使者があわてた様子で手紙を持ってきました。
それには
「ご謀反が早くも顕れ、検非違使の役人がお邸にお迎えに参ります。
園城寺(三井寺)へお入り下さいませ。頼政もやがて参ります。」と書かれてありました。
平氏が以仁王の反乱を知ったのは、『覚一本平家物語』には、熊野別当、
『源平盛衰記』では、湛増の弟の佐野法橋が密告したと記しています。


以仁王は長谷部信連(のぶつら)の勧めに従って、
髪をほどき市女笠を被り女房装束をし、三条高倉の御所を脱出し、
乳母子宗信と童を供に高倉小路を北へ、近衛大路を東へ進み、
鴨川を渡り、
東山の大文字山から如意ヶ岳を越え(如意越え)、
暁近く琵琶湖畔の三井寺の背後に辿りつきました。
この山越えは
御足(みあし)より出づる血は、いさご(砂)を染めて紅のごとし。
と悲惨なものだったようです。
三井寺は源氏に縁の深い寺で、頼政の弟の良智・乗智という僧もいました。

『平家物語』巻4・山門蝶状には、以仁王の挙兵を受けて
三井寺の動向が描かれています。

以仁王は僧兵が南院(現、三井寺高台にある観音堂辺)
法輪院に用意した御所に入りましたが、
三井寺の僧たちも一枚岩ではありませんでした。
三井寺長吏・円恵法親王(後白河法皇の皇子・以仁王の異母弟)は
兄宮を都に送り返そうと奔走しましたが、
以仁王は「生きて
辱めを受けるより死を選ぶ」と武人をしのぐ毅然とした態度で拒否します。


天皇が退位してはじめての御幸は石清水、賀茂社など都近辺の神社に
参詣するのが通例ですが、高倉上皇は初参詣を、清盛の崇拝する
厳島神社に詣で
都附近の寺院は平家に対して強く反発しました。
三井寺でも僧兵の反平家感情は強く、

円恵法親王は以仁王の説得を諦めます。

三井寺から比叡山延暦寺、南都興福寺に協力を求めて牒状(書状)が送られ、
興福寺はすぐに承諾しましたが、延暦寺からは返信がありません。
 二寺を対等に扱った三井寺からの手紙の文面が延暦寺の反感をかった上、
清盛と親しい延暦寺の 座主明雲の存在も関係したと思われます。

同月22日、頼政は近衛河原の自邸を焼き払い、息子らを率いて
三井寺に入りました。
以仁王に味方する三井寺の僧には、乗円坊の
阿闍梨慶秀(きょうしゅう)・円満院大輔源覚(げんかく)などの他、
橋合戦で活躍した一来(いちらい)法師や筒井浄妙明秀などがいます。

当時、三井寺は南院・中院・北院で構成されていました。

南院の法輪院に入った以仁王と頼政は、早速、開かれた軍議で六波羅の夜討ちを
提案しましたが、平家に味方する阿闍梨真海が長々と時間かせぎをして撹乱し

夜明け近くになってしまいこの計画は失敗しました。

そして、比叡山には平家から莫大な米や絹が次々と届き、
賄賂を受け取った延暦寺は結局動きませんでした。
延暦寺の協力がなければ、とても以仁王を守りぬくことはできません。
延暦寺との連携に失敗した以仁王と頼政は、急遽、
頼政一族とその配下の兵、
三井寺の僧兵たちを率いて、
南都興福寺の僧兵と合流すべく25日に奈良を目指しました。

境内図は三井寺HPよりお借りしました。

三井寺と清和源氏との結びつきは深く、源頼義は永承六年(1051)
前九年合戦に出陣の際、厚く崇拝する新羅明神に参拝し武功を祈願しました。
この合戦に勝利した頼義は、息子快誉を三井寺の
学侶(法務に携わる僧侶)
とし、頼義の三男義光は新羅明神の前で
元服して、新羅三郎義光と称し、金光院を創建したという。
以仁王の令旨を受けて挙兵した源頼朝は、平家討伐後、
源平合戦の戦火で焼かれた三井寺を源氏の氏寺として再興しています。


園城寺(三井寺)表門の大門
もとは、湖南市常楽寺の門でしたが、秀吉が伏見城に移し、
のち家康の寄進によって三井寺に移築されました。
両脇に仁王像を安置することから、仁王門とも呼ばれます。




近江八景のひとつ三井の晩鐘

当時、園城寺中院の中央にあった金堂



長等神社横から観音堂へ



境内南部の高台の一郭には、西国三十三所第14番札所の伽藍があります。
辺りはかつて園城寺の南院と呼ばれていた所です。


正法寺観音堂

観音堂前広場の隅にある石段を上った展望所より琵琶湖を望む

三井寺(園城寺)には、鎌倉時代末期の三井寺境内と伽藍が描かれた五幅の
「園城寺境内古図」が残されており、そこには北院・中院・南院・
三別所・如意寺が描かれ、院政期の寺域を伝えています。


そのうちの一幅に描かれている如意寺は、平安時代中期?に創建され、
寺領は西が鹿ケ谷から東は三井寺
背後の長等山まで、北は志賀山より南は山科藤尾まで
如意ヶ嶽山中一帯に伽藍が連なっていましたが、応仁の乱
の兵火で焼失していったという。


この絵図から大文字山一帯は、如意寺の伽藍が峰伝いに連なっていたことがわかります。

鹿ケ谷の俊寛僧都山荘のあった辺に流れる楼門の滝の傍に園城寺西門があり、
かつては鹿ケ谷から如意が岳を越えて三井寺に達する道を、
如意越と呼び近江への重要な交通路でした。

東山鹿の谷といふ所は後ろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。
それに俊寛僧都の山荘あり。(平家物語・巻一)


治承4年(1180)5月、以仁王が御所を構えたという三井寺の法輪院
(南院に属した一支院)については、これ以降の記録はなく、
度重なる戦火で焼失したものと思われます。


一方、以仁王の御所の留守を預かった長谷部信連(のぶつら)は、
三条大路に面した総門も高倉小路に面した小門も開いて
役人を待ちうけていると、大納言実房を陣頭に、侍大将には頼政の養子の
兼綱が立ち追討軍300騎程が御所を取り囲みました。

(頼政の謀反を平家方はまだ知らなかったためと『平家物語』は説明しています。)

信連は孤軍奮闘して以仁王の
逃亡を助けますが、多勢に無勢、
長刀で股を突き通されて生け捕りにされ、六波羅に連行されます。

当初は首をはねるということでしたが、
清盛は武勇に免じて信連を伯耆国(鳥取県)の日野に流します。
信連は源経基の八代の孫にあたり、以仁王の侍として仕えていた人物です。
その後、鎌倉幕府の世になって源頼朝はこれを伝え聞き、
信連に能登の国を領地として与え、子孫は能登の豪族として栄えます。


『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246 
京阪電車「三井寺」駅より徒歩約10分


「三井寺」駅より琵琶湖疏水に沿って西へ「長等神社」横の三井寺拝観受付より
階段を上がると
現在の「南院」の中心
西国三十三所観音霊場の第14番札所観音堂です。

『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙書房
 「古絵図が語る大津の歴史」 大津市歴史博物館 「三井寺」三井寺発行 
「近江名所図会」柳原書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
「三井寺と近江の名刹」小学館 「平安時代史事典」角川書店 









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古くから沙沙貴(ささき)郷・佐々木庄と称されたこの辺りは
近江源氏(宇多源氏)佐々木発祥の地です。

沙沙貴神社には
少名彦(すくなびこ)神・ 大彦(おおびこ)神・仁徳天皇・
宇多天皇・敦実親王(宇多天皇の皇子)を祭神として祀っています。
はじめ古代の豪族佐々貴山公(ささきのやまきみ)一族の氏神でしたが、
平安時代中期以降は、佐々木氏の氏神として
崇拝されてきた『延喜式』式内社の古い社です。
佐々木氏が別の系統の氏族であった佐々貴山公との間で、
婚姻関係を結びながらしだいに勢力を広げていったと考えられています。

この辺を本拠地とした佐々木秀義は、保元の乱で源義朝に属し勝利しましたが、
続く平治の乱で敗れ、関東に息子らを連れて落ち延びました。
その後、源平合戦で頼朝に従い手柄を立てた秀義の子、
定綱が近江の守護に任じられて本拠地に戻り近江各地を治めました。
その子孫は六角氏・
京極氏に分かれ、戦国史にもその名を残しています。
 
さらに佐々木氏の子孫には、大名家の黒田氏や旧財閥の三井氏、
乃木希典らがいて、一族は全国で300万人にのぼるとされ、
例年10月第2日曜日に行われる近江源氏祭には、
全国から佐々木氏ゆかりの人々が集まり、
宇多天皇が愛護したという舞楽を奉納し、先祖を偲んでいます。

JR安土駅南側から沙沙貴神社への道順を追って画像にしました。

駅前にたつ織田信長像





駅から15分ほどで鎮守の森に囲まれた沙沙貴神社に到着しました。

表参道の鳥居の「佐佐木大明神」の神額は源頼朝の筆と伝えていますが、
文字は風化されて読み取れません。


境内の所々で神紋であり、佐々木氏家紋の四目結紋が目につきます。







江戸時代中期に再建された楼門や19C中期再建の本殿・拝殿他八棟は県指定文化財、
茅葺の楼門からは東回廊・西回廊が延びています。


舞殿

拝殿

拝殿の背後に本殿

ここで源平合戦で活躍した佐々木一族を辿ってみましょう。
宇多天皇の末裔にあたる佐々木秀義(高綱の父)は、宇多源氏、
近江源氏を称します。秀義は源為義(頼朝の祖父)の娘を妻とし、
平治の乱では義朝軍として戦います。
敗戦後、平家に従わなかったため、先祖からの相伝の土地である
佐々木荘(現、滋賀県安土町南部一帯)を没収されます。
仕方なく藤原秀衡に嫁いでいる伯母を頼って息子たち(太郎定綱・次郎経高・
三郎盛綱・四郎高綱)とともに奥州に奥州に向う途中、
相模国まで来たところ渋谷庄司重国が秀義の勇敢な行動に感心し
勧められるままそこに身を寄せ二十年を過ごします。
息子たちはこの間に逞しく成長し、ひそかに伊豆の頼朝の許に出入りし、
頼朝が挙兵の際には伊豆国目代山木兼隆攻めの主力となって戦い、
兼隆を討取り緒戦を飾りました。

『平家物語』には、佐々木高綱・盛綱が活躍する様子が描かれています。
◆佐々木四郎高綱「平家物語・巻九・宇治川の事」
以仁王の令旨を受けた木曽義仲は木曽で挙兵、平家を都落ちさせ
都に入った義仲はまもなく
後白河院と対立し、院は頼朝に義仲追討を命じます。
院宣を受け源範頼・義経兄弟が京へと
二手に分かれ東と南から攻め上り、
範頼が瀬田川に義経は宇治川に迫ります。

義経勢の中の佐々木四郎高綱・梶原源太景季が頼朝に賜った名馬で
どちらが先に
宇治川を渡って敵陣に突入するかと争います。
佐々木高綱は梶原景季を騙し、
先陣をきって宇治川の流れを渡り
向こう岸に駆け上がりました。
これを機に義経勢は一斉に川を渡り
義仲勢は総崩れ、
高綱と景季の宇治川先陣争いは、平家物語名場面の一つです。

◆佐々木三郎盛綱「平家物語・巻十・藤戸の事」
一ノ谷合戦で平家に大勝した源氏軍は西国へと兵を進め、吉備国児島
藤戸海峡を挟んで
源平両軍は陣どりました。盛綱が平氏のいる対岸に渡れる
浅瀬を知る
漁師に案内させると、なるほど騎馬で渡れる浅瀬があります。
手柄を独り占めしたい盛綱は、口封じのためその場で漁師を刺し殺し、
郎党とともに海に飛び込み一番乗りを果たします。
これを見た源氏軍は続々と海峡を渡り児島を占拠、敗れた平氏は屋島へと退きました。
このエピソードを元にして作られたのが謡曲「藤戸」で、
盛綱が殺した漁師の老婆に恨まれ、懺悔し供養するという物語です。

『アクセス』
「沙沙貴神社」近江八幡市安土町常楽寺2 JR安土駅下車 
主な祭礼 4月第1土~日沙沙貴まつり 10月第2日曜日近江源氏祭 
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社 「滋賀県の歴史散歩(下)」山川出版社
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 


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