コメント
 
 
 
平家終焉の地 (揚羽蝶)
2021-02-04 13:47:57
 ご無沙汰しております。
いつもブログの更新ありがとうございます。
平家終焉の地、と言うと壇ノ浦?と思いますが、こんな所(失礼)にあったのかと思います。
数年前に一度来たことがありますが、本当に寂しいところで草木がうっそうとしていて、やぶ蚊に刺されました。今は、きれいに整備されているようで嬉しいです。
宗盛公と清宗公が、処刑されたのは、当時の状況からは、致し方ない。宗盛公は命乞いをして評判は良くないが、なんとか平家の名を絶やさないように考えたと思います。子煩悩の優しい人であったと思います。
なお、本日2月4日は、清盛公の命日であります。合掌






 
 
 
Re: ご無沙汰しております。 (sakura)
2021-02-05 10:46:27
こちらこそいつもありがとうございます。
揚羽蝶さまが胴塚を祇王の故郷と一緒にお回りになった時も、
荒れていたそうですね。

以前は、国道からこの塚に入る道が分かりにくかったのですが、
「平家終焉の地 平宗盛公胴塚」と記された新しい
案内板が国道沿いに建っていました。
野洲市では、ここを平家終焉の地としているようです。

妻子への愛情深い宗盛は、今日では家庭思いのよき父親という
評価を与えられるのでしょうが、平家物語や吾妻鏡は、彼を鋭く非難しています。

当時、生きて捕虜の辱めを受けるより潔く死を選ぶという思想がありましたから、
いつまでも生に執着する宗盛は卑怯者に見えたのでしょう。

また、大将の政治指導いかんによっては、一門に別の運命をもたらす可能性もあったでしょう。
しかし、老獪な法皇やあの頼朝と渡り合うには、宗盛は善良すぎます。

そして、そんな宗盛を総帥としなければならなかったところに
平家の悲劇があったような気がします。

平家物語は、「平宗盛は、西国で捕虜となり、生きて六条通りを東へ引き回され、
東国から帰ってから、死んで三条通りを西へ渡された。
生きての恥、死んでの恥、いずれもこれに過ぎるものはない」と語っています。
平氏の惣領としてまた内大臣にまで昇進した人物として、
やはり壇ノ浦で一門とともに沈んでほしかったと思います。
 
 
 
久しぶりですね。 (ひろ庵)
2021-02-13 11:13:07
平家終焉とありますが、よく平家の末えとして北条、織田信長、豊臣秀吉と逆に源氏で末えが足利、明智光秀、徳川家康とか聞きますが、このつながりが良くわかりませんがご存じなら教えてください。
 
 
 
お久しぶりです (sakura)
2021-02-14 11:33:49
知っているわけではありませんが、よかったらご参考までにご一読下さい。

一般に平家は壇ノ浦合戦で敗れ、滅亡したといわれています。
「平家物語」は、巻12・六代被斬(きられ)で、平維盛の子(重盛の孫)
六代が相模国田越川(逗子市)で斬られたことに触れ、
「平家の子孫は絶えにけり」としています。

実際は清盛の血筋は、皇室やもと侯爵家の花山院家、もと侯爵家四条家、宗家(平知盛の子孫)などに伝えられています。

宗家は鎌倉時代以来、対馬を支配し明治になって伯爵を授けられています。
知盛が壇ノ浦で沈んだ時、その子知宗はまだ僅か2歳でした。
乳母と知盛の老臣にこっそりと育てられたのです。

桓武平氏には、堂上平氏と武家平氏があります。
堂上平氏には、清盛の妻時子や「平氏でなければ人ではない。」と豪語した時忠がいます。

時忠は壇ノ浦から帰ると能登に配流され、
能登の上時国家、下時国家として存続しています。

北条氏の祖といわれる平維時(平貞盛の子)から後の家系図が明確ではありませんが、
伊豆国田方郡北条を本領とした時政に続くといわれています。

維時の兄惟衛(これひら)の二代後に正盛が登場し、
忠盛・清盛・重盛と続きます。
惟衛の時代に伊勢に進出し勢力を伸ばします。

源氏にも、武門源氏(清和天皇を祖とする)と
村上源氏のような公家の源氏があります。

清和源氏の勢力が確立されるのは、頼信・頼義・義家の
いわゆる源氏三代の時に河内国を拠点として武士としての名声を築きました。(河内源氏)

そして義家の子義親・為義・義朝・頼朝と続きます。
足利氏は、義家の子義国の流れを汲んでいます。

明智光秀の系譜関係についてはいまだ謎が多いのですが、
土岐源氏は満仲(頼光の父)の流れを汲むといわれています。
余談ですが、先日NHKラジオにフリスペポラー氏が光秀の子孫として出演し、
お父さんがドイツ人で母方の祖母が土岐氏と仰っていました。

家康も源氏(新田源氏)の子孫と称していますね。
藤原姓を名のっていた家康は、天正末年に源氏に改姓しています。
かつて鎌倉北条氏を滅ぼして鎌倉に入った新田氏を、
小田原北条氏を滅ぼして関東に入った自らを重ねようとして源氏に改姓したという説があります。

信長には、平資盛の子孫という噂がありました。
織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称しています。
信長は16歳の時に「藤原信長」と称していました。
しかし、源氏の足利軍を倒すのは、平氏の信長だという考えから平氏の子孫と称し、
その後織田家の系図が作られていきます。

これは「信長記」に載っていますが、この物語の信憑性があまり高くないことから創作かも知れません。

秀吉の出自は、尾張国の百姓または足軽の子だと思います。


 
 
 
ひろ庵さんのお名前を見つけて!! (yukariko)
2021-03-11 18:46:40
詳しいお方が色々書いておられるのを読ませていただいくと、なかなかコメントが書けません。
感想は一杯あるのですが…。

ひろ庵さんのお尋ねに対して書いてくださっているのがとても詳しくて、なるほどとありがたく読ませていただきました。
 
 
 
長文でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。 (sakura)
2021-03-13 09:22:53
ひろ庵さまのお尋ねは、史学会においても数々の論議があります。
詳しいことは知らないので、手元にあった本郷和人氏の
「頼朝から信長へ 人物を読む日本中世史」や
野口実氏の「武門源氏の血脈」などを参考にして纏めてみました。
 
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