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「粟津の晴嵐」の意味が分からなかったのですが… (yukariko)
2013-07-01 12:30:11
「粟津の松原は旧東海道沿いの松並木で、
歌枕として知られ湖岸の美しい松原」だそうですが、「晴嵐」の意味をよく知らなかったので、どういう景色なのかと長い間思っていたので、解説で『なるほど!』

900年の歳月の厳しさは自然の景色さえも領主・武士の栄枯盛衰と共に変えてしまい、名残さえも現代まで残る処はよほど人々の思い入れがあった場所だけなのでしょうね。

同時代(少し前?)の歌人・西行に義仲についての記述や歌があったのを初めて知りました。
あの変動の時代を出家隠棲した身ではあっても生き抜いてきた彼にとって、万感の思いがあったと思うのですが、表面はとてもさらっとした歌ですね。
 
 
 
駒札がうまく説明してますね (sakura)
2013-07-03 07:25:03
近江八景の一つ「粟津の晴嵐」は知っていても、意味は調べないと分かりませんね。

琵琶湖は干拓や埋め立によって湖岸線が変化し、周辺の地形も地名も昔とは変わっています。
その昔、今井兼平の墓があった篠津川上流の墨黒谷(すぐろたに)の地名も失われ、現位置はよく分かりませんし、
徐々に膳所の町並みも古い建物が新しい建物に建て替えられています。

滋賀県文化財保護協会にいただいた「膳所の町並み」の資料には、
御殿浜にかってあった粟津番所の建物が写った写真と
番所が壊され駐車場になった写真と二枚載せられています。
いずれも右隣の民家は現在と同じ建物が写っているので、
番所が壊されたのはそんなに前のことではないと思うのですが…残念です。

西行は清盛と同い年ですから、義仲とは同じ時代に生きた人ですが、
彼とは面識はなかったはずです。
西行が60歳を過ぎて伊勢に移った治承4年(1180)は、
以仁王の乱、富士川合戦で平氏軍が大敗した激動の年でした。
伊勢には各地の情報がよく入ってきて、次々起こる都や地方の不穏な動き、
この騒乱の中、治承5年(1181)に清盛が死んだことも西行の耳に入っています。

この歌だけでは分かりにくいかもしれませんが、聞書集(ききがきしゅう)に収められている
源平争乱に関する歌、他二首の詞書で西行は戦うことの愚かさを述べています。
 
 
 
粟津の松原について深く知る事ができました (埼玉県の高校教員)
2023-01-21 12:35:49
突然失礼いたします。
素晴らしいブログに出会え、感謝をお伝えしたくてコメントさせていただきます。
当方、埼玉県で公立高校の教員をしています。「木曽の最期」の授業にあたり、粟津の松原について検索したところ、こちらのサイトに出会いました。
私どもは埼玉県民であるため、なかなか琵琶湖周辺の様子を知ることができなかったのですが、こちらのサイトを拝読させていただき、いろいろと知ることができました。ありがとうございました。


1点気になることがありました。
以下の引用文は、どの底本からの引用でしょうか。

>『平家物語』(巻9)木曽最期の章段で
「あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。
三町(300m余)には過ぎ候ふまじ。あれにてご自害候へ」

授業で扱っている本文は「新日本古典文学大系」(覚一本の系統である高野本を底本とする)からの引用です。それによると、
「あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ。」
とあり、「三町には過ぎ候ふまじ。」のくだりがありません。けれども個人的には、三町のくだりがあったほうが、無念さが増し、より胸を打つと思います。
そのため、この底本をぜひとも知りたいという好奇心が、私に湧いてしまいました。

周りの教員にも紹介したいので、可能でしたら、底本を教えてくださると幸いです。
ご検討よろしくお願いします。
乱筆・乱文失礼いたしました。
 
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