ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第790号 「八重の桜 ⑥」 襄が生涯の恩人として敬った人

2013年04月08日 | テレビ番組
昨夜(7日)の祝言の席の放映、意外と質素だった。
考えてみれば無理もない。藩が大変になっているからだ。

酔いつぶれてしまった新郎を担いで部屋へ運ぶ場面。
米俵を担いだ実績があるからか、周囲で驚く者はいなかった。
実像は何しろご立派な体格。「綾瀬はるか」さんでは、役不足と思った。
いつまで、彼女を充てようとしているのかな。

ところで、新島襄が生涯の恩人として忘れることがなかった人物は?
それは、箱館から海外渡航を実現させてくれた「福士成豊」だ。

彼(幼名=続 卯之吉)の父(続 豊治・つづき とよじ 1798~1880)は、国内初の洋式帆船「箱館丸」を建造した船大工。
この船は、箱館お奉行の江戸へ帰任の際に使われたりもした。

成豊(1838~1922)は五男。福士家の養子となった。
イギリス人の経営するポーター商会へ5年間勤務。
同じく箱館在住イギリス人実業家・ブラキストンから気象学を学び、観測機器の使い方も習得。
大変な勉強家でもあった。

明治5年7月、開拓使直営の気象測量所を彼の自宅に置いた。
位置は現在の金森倉庫のあたり。






この測量所が、函館測候所となり、現・函館海洋気象台へと発展したのである。

中央に気象官署が設置されたのは、明治23年のこと。
名称は、中央気象台。初代台長は荒井郁之助。
彼は箱館戦争で明治政府軍と戦った、旧幕府軍(榎本軍)の海軍奉行の要職にあった人物。
獄中での猛勉強が活かされたのであった。

明治20年に、襄と八重は函館を訪れている。
このとき、イギリス人ポーターとは、病院で対面している。

江戸時代から近代明治へ。
多くのことが超加速をつけて、日本を駆け巡ったのだと思う。
翻弄されないように生きた人々は偉い、偉い。

次回の放映が楽しみである。




ミカエル