梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

虐待と虐め・親から子へ

2010-08-25 09:07:33 | 日記
日本でも韓国でも世界各国でもマナーと言う物は必ずあると思う、文化によって違いはあるが文化を築いてきた人間社会の最低ルールであろう、ルール以前の物でやはり理屈ではなく生まれたら本能の様に身に付けなくては成らないものだと思う、理屈ではなく身に着けなくてはならないが基本を言えば「不特定多数の他人に不快感を与えない」と言う所に立脚し、長い年月で経験則として培われてきた、言わば円滑に社会を動かす為の潤滑油の様な物で経験上の最大公約数的なものだと思う、此れは親が子に物心が着く前から自然に行動に出る様に教えて来なければいけない、私と女房の親達が教えてくれた物は略同じだったので夫婦でも自然に当たり前に子供達に教え込んでいた、しかし結婚とは違う家庭で育った者の共同生活になる、此処で娘が驚いたと言う話を聴いた、一番違和感を持ったのは食事マナーである、作法と言うほどではないと思っていたのだが、箸の上げ下ろしと言うが女房も私も肘を付いての食事は無作法だと教わって来たし食事中のテレビは原則禁止だった、しかし彼は両肘を付いてテレビを見ながらの食事をする、器を箸で引き寄せる寄せ箸をする、物を口に入れて話をする、開けたまま噛むのでくちゃくちゃと音がする、此れが全て当然孫に伝わってしまう、孫が来るとそれらを口煩く言う様になる、娘の話だと彼の実家に行ったら皆そうだという、しかし私達の孫でもあるので遊びに来るとマナーを守らなければ食事はさせないと言っている、孫達は素直に従ってくれるが如何思っているのだろうか、それでも此れはマナーと言うレベルの話だが彼の言う「食事は美味しく食べれば良いのだからそんな細かな事を言われたら飯がまずくなる」と言うような風になると(もっと根本的に我々が伝え送って行こうとした物が何か違っていたのか)と不安になった、若しかしたら我々が当たり前と思っていたのが違っていたのかもしれない、食事マナー程度は我々夫婦が偶々煩かっただけなのかもしれないが人間は助け合うのが当然と言う事や卑怯と言う言葉の意味は親が伝えて行くものと思っていたのだが、最近のニュースを見ていると非常に不安になる、因みに彼の両親は教育者だそうだ、学校教育でやらなければならない事ではないにしても給食時間などで問題にならなかったのだろうか、それとも我々の親が異常に煩かったのだろうか、女房の方は大工で我が家は工員だったのだが、

児童虐待と虐め

2010-08-24 09:48:18 | 日記
私は子供が好きだ、電車で見てもつい手を振ったりしてしまう、公園で祭りで寄って来る子供は本当に可愛い、自分の子供だったらもっと可愛いだろうし全霊を持って守ってあげたいと思うのが常識だと思っていた、しかし最近は「児童虐待」と言う事件が頻々と起きる、「躾だ」と言うのが殆どの言い訳だ、躾は確かに大切だと思うが次元が違う、理解する様に話す、未だ幼児は理解でき無い時期も有る、それを根気よく教えるのは親の仕事だ、確かに難しく嫌になる事も多い、しかし誰もがそうして来た、何千年もだ、傷が付くほど暴力を振るう、食事を与えない、大抵の場合はどちらかの親が違う事が多い、だから自分でも此れは拙いとは思っているのだろう、廻りには大抵隠している、子供が最後に逃げ込むのは親のはずだ、それが他人に逃げて行かないとならないのは本当に悲しい、日本には任侠と言うジャンルが有る、アウトローだが彼らに人気があるのはその生き方だ、(実際に殆ど居ないが)彼らがヒーローなのは「弱気を助け強気をくじく」と言うところだろうと思う、しかし児童虐待はその逆だ、子供は大人に対して絶対的に弱い立場だ、その立場で行う行為はもう一方で頻発している「虐め」の構造に似ている、虐めは弱いとされた者に対して多人数で行われる所が更に陰湿だが、この2つには何処かに共通する物がある様な気がする、いつの間にか日本から「卑怯」と言う言葉がなくなった、勝てば良い、ばれなければ良い、溺れた犬には石をぶつけろと言う、他の動物と違い此れだけの文化を築いてきたのが人間だ、「卑怯」という言葉の持つ重要な意味が弱肉強食の獣と違う社会性を維持して来たと言っても過言ではないと思う、しかし、今我々は知恵と道具を手にした獣に向かいつつある様に見える、獣でも生まれてから自立できるまでは親は命がけで子供を守る、それすらしなくなった最低の生き物集団は如何したら人間に戻る事が出来るのか、卑怯者と言う事は学校に行ってから教わる物ではない、親から子に生きる術と同じ様に痛みの様に教えなくては成らない、その親が行う行為だとするとやはり日本人は滅びに向かっているのかもしれない

野牡丹

2010-08-23 10:30:30 | 日記
野牡丹と言う花が有る、濃い紫色で4弁の花を初夏から秋口まで咲かせる、非常に強い様だ、最近は彼方此方で見かける様に成った。最初この花を見たのは鉢植えで小さな物だった、色の感じはトルコ桔梗の色に似ているが少し花弁が肉厚だった、店員が「丈夫な花ですよ、温かい所の花だから冬は部屋に入れたほうが良いかも知れません」」と言われて居たのだがすっかり忘れてその頃やっと手に入れた家に1坪程度の庭が有ったので直植をしてみたらどんどん増える、この庭は植物に良いのか、賃貸に居る時に買ってベランダで鉢植えをしていた物を植えるとどんどん大きくなる、最初はバラで次は雪柳だった、バラはやせ細ったままだったが雪柳は大きくなったて道路にはみ出してしまった、細い路地で坂の途中だったので通行の邪魔には成らないのだが散り始めると毎日掃除をしてもきりが無い、風が吹くと吹き溜まりが出来る位だ、此れをねこぞぎ抜いたら隣に植えておいた紫陽花がその分大きくなった、一番小さな鉢に入っていっていた西洋紫陽花だったが株立ちになった、高さは1mを超えて庭の半分近くを占領した、しかし毎年楽しませてくれるのでそのままにしておいたが紫陽花は見ているところは花ではないので何時まで経っても所謂花はなくならない、寒くなる事鋏で切り落とすのだが後で聞いたら此れが大きくなった原因らしい。兎に角残り半分に面白がって色んな花を買ってきて植えてみる、その中にこの野牡丹があった、此れも年々大きくなり株も増える、瑞々しい花は濡れると実に綺麗で花を切って仏様に上げた、しかしこの花は落ちるとどういうわけか落ちた場所に真っ黒の後を残す、残念だが部屋に飾るのには向かない様だった、余り大きくなったのでその頃行きつけになっていた伊豆の小さな旅館に持っていって庭に植えて貰った、その後何年かして行ったが「「綺麗に咲いていますよ」と言われてとても喜んだのだが、今では家も人手に渡り、伊豆の旅館も中々行く事も出来ない、暑い日差しの中で咲いている野牡丹を見ると我が身の移ろいが沁みて来る、(又、野牡丹の有る家に)と自分に言い聞かせているのだが、遠い夢の様な話だ。

魚取りの2

2010-08-22 12:13:34 | 日記
鰻を取るのは「穴釣り」という方法を使う、大きな太い針で「毒針」と言っていた奴にタコ糸を付けた奴に餌の縞ミミズを丸ごと1匹取り付ける(我々の所はガブロミミズと言っていた、畑に肥料用に敷いて居る物をどけると何匹か居た)此れを篠竹で作った細い竿の先端を切り、その穴に引っかけて鰻の居そうな穴にそっと入れる、あの頃はその方法で2~3時間頑張ると数匹は獲れた、時々鰻ではなく蟹の穴の事もあって引きを確かめそっと引き出すと蟹の半身が穴から出た所で餌だけ取られる事が有った、黒くって鋏に毛の生えた蟹で「ズガニ」と言っていたが最近本名は「もずく蟹」と言うのだと知った、網で追い込みをやって居ると時々これが獲れる、此れは味噌仕立てにする、束子で洗ってから茹で上げてそこに味噌を入れるのだが腸のせいかすこし苦く子供の私はあまり好きでなかった。増水して水が濁ると此の鰻の仕掛けを幾つも作り川が澱んだ所に夕方から仕掛けて置く、あくる朝早く引き揚げると10本も入れておくと2~3本掛かって居た、しかし鰻を開くと言う技術は無いので腹を開いて腸を抜くと竹串にさして焼く、丸焼きに近いがどうもこの焼き方が蒲の穂に似ている所から「蒲焼」と言う名前になったらしいのを大人になってから知った、まあその頃子供の口には居る事は殆どなかったのだが。有る程度大きくなると大人が夜漁に連れて行ってくれた、このあたりでは「夜ぼり」と言っていたが字は解らない、当時どの家にもアセチレンランプが有って燃料のカーバイトも農協で売って居た、その頃の夜店は殆ど此れでアセチレンの燃える匂いが祭りの思い出でもある、アセチレンランプは上下に分かれて居て下の部分に白い石の様なカーバイトを入れて上の部分には水を入れる、中央にねじが付いていて此れが水を落とす調整弁になって居た、ネジを緩めて暫くすると半円の傘の下にある2つの穴からシューと音を立ててアセチレンガスが出てくる、火を付けると勢いよく炎が噴き出した、想像以上に明るい。これを持って川下から上流に向かって川を溯るのである、大抵夏の日差しが落ちて夜の闇が落ち着く8時前くらいから12時頃まで続く、そーっと水の中を見て歩くと流れの無い所に魚が寝ている、魚も寝るのであるが目は開いていてじっとしているのである、目の前にタモを置くとすぐ後ろを足で脅すとそのままタモの中に入って来る、鰻は夜行性なのでこの時分は川の中を泳いで(這って?)居る事がある、此れも結構獲れた、獲物はハヤとモロゴ、キンキンと言っていた小魚とこの地方では「ずんこ」と言っていたカジカが取れる、これは白身で結構うまかった、時々は鮎も取れた、しかし獲物より夜の遊びが大人公認で出来る事の方が魅力だった、小さな川で両岸は殆ど篠竹の林で所々に灌木が生えているのでアセチレンランプの光に人の影が大きく揺らいで浅瀬をゴム草履で歩きながら妙に心が弾んでいた、あのままあの村に居たらやはり子供を連れて同じ事をやって居たのだろうか、それとも時代が変わりそんな物に子供達は見向きもしないのだろうか、望むらくは今でも楽しんでくれると思いたいのだが

魚取り

2010-08-21 17:52:45 | 日記
未だ小学生の頃良く魚を取って遊んだ、釣りもやったがどちらかと言うと魚を取る方が多かった、釣りは簡単で村の雑貨屋に行くと10円でセットを売って居た、透明の袋に入って居て糸巻きにナイロンテグスが巻いて有って3~4m位だったかな?針が2本、鉛の重しが2つと丸い浮きにはゴムのチューブが付いて居た、竿は自分で調達と言うと大変そうだが川の岸に自生している篠竹を適当に切って来ると枝をはらいテグスを付けるだけだ、餌はミミズかご飯粒、薩摩芋の蒸かした奴を賽の目に切ったものだった。鮠ともろご(一般的なモロゴとは違うかもしれない)は流し釣りで、有る程度流れの有る所を狙って上流に入れて竿が届かなくなるとまた上流に入れると言う釣り方で雨の後少しして濁りが取れかけた頃は結構釣れた、鮒はミミズか薩摩芋だが此れに炒った糠をまぶすと結構釣れる、こちらは大抵川ではなく用水池で釣る、時々鯉も掛かるが大した大きさでは無いので髭を確認して(ああ、鯉だ)という程度のものだったが此れは村の暗黙の決まりで元の池に戻していた、と言うのは用水池は稲刈りが終えると下に溜まった泥と用水を田に落とす為の穴をメンテナンスする為に年に一度水を抜く、この時に池に放してある鯉と鰻(こちらは大人たちが川で採ってきて放しておく)を取って村人で調理するのが楽しみなので釣って良いのは鮒と雑魚だけだった、その他にザリガニが多く居て此れは子供の遊び材料になる、川釣りが出来ない程度の幼児はこちらで遊ぶ、30センチ程度の棒にタコ糸を付けて最初は親からもらったするめを付けて垂らすと簡単に取れた、暫くしてスルメがふやけてくると釣れたザリガニのしっぽを切って殻をむいて餌にする、此れで十分釣れたが食べるわけではなく釣るのが面白かっただけである、何時だったか大きなザリガニがやたらに取れてうれしくなってしまいブリキの雑巾バケツに入れて土間に置いて居たら夜になってバケツの中で暴れだしその音が部屋中に広がって親父が外に出した事が有ったのが思い出される。釣り以上にやったのはタモとモリで魚を取るのだがモリで魚を突く事は先ず出来ない、此れはタモを水辺の草の根元に置いて上流から追い出すのに使うだけだった、此れで採れるのはやはり鮠だった。こっちは遊びで採るのだが大人たちは酒のつまみ用なので真剣に取る、効率の悪い釣りは仕しないで竹で作った籠を水の落ち口に伏せる方法だった、この地方では「うげ」と言っていたが一般には何と言うのかは知らない、もうひとつは近年になって出て来たガラス製の物でとっくりの太い様な形で、底の部分が内側に落ち込んだ形をしていてその先端に直径10㎝~15㎝の穴が空いて居る、徳利の注ぎ口にあたる所に布を巻いて止め、中に炒った糠を入れて川の深み、と言っても1m程度の所に置いておく、一昼夜位で引き揚げると真っ黒になる位魚が入って居た、これを腸だけ抜くと口から竹串をさして囲炉裏の上に藁苞を下げて置きそこにさしておくと燻製が出来上がるのである、これを幾つかづつおろして味噌をつけたり醤油だったりで焼酎を飲んでいた、恐らくいまではやらないだろうがやってもあの頃程は獲れないんじゃないかな、