福田の雑記帖

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三陸訪問(4)  広範な被害の山田町 逃げられる街をつくるには

2011年09月30日 15時56分17秒 | 旅行・出張報告
 

上記画像は宿泊したホテルから見た朝陽。岬は宮古湾の閉伊崎、海は静かにないでいた。9月25日5:20am。

 今回の三陸訪問の二日目は山田町で、午前に宮古から山田町に向かった。
 山田町は宮古在住の2年間に何度か訪れた町である。県立山田病院の外来手伝いも何度かしたことがある。当時の山田町は国道沿いにびっしりと商店が並び活気のある町であった。あれからかなり経ち,恐らくは高齢化少子化で様相は変わっていた,と推定できる。

 小高い丘陵にある国道を通過すると町並が見えてくる・・はずであったが、見えたのは海岸から山側までの平坦地に建造物は僅かしか見られず、残されたコンクリートの土台だけが見えた。どういう津波の力加減であったのか,所々に建物が残っていたが、いずれも無残な様相を呈していた。町営住宅かアパートか,ビルは2階まで,一部は3階まで激流が襲ったことが見て取れた。被災された方々にとってはどちらであっても同じであろうが、印象では宮古は地区別に差が大きく、山田町は平地はほぼ均等に総なめにされたというイメージであった。

 宮古には 川に沿って市街地には防潮堤はあった否か、定かな記憶はない。少なくとも浄土ヶ浜近辺にはなかった。山田町は奥深い湾に沿って発展した町で、湾内でいろいろな養殖漁業も盛んであったが高い防潮堤があったのだろうか。実際には、宮古で8.5m、山田では6.5mの防潮堤があったとされているが、実際にこれか、と見たことはなかった様な気がする。一方、宮古の北部にある田老地区は防波堤のために景観が大きく損なわれていたが、今回は被害は軽度であった。津波の波高は宮古で11.6m、山田で10.9mだったとされる。あれほどの巨大地震、津波を想定していなかった、と言うことだろう。宮古から50Kmほど北部にある普代村は、過去の災害を生かして15.5mの水門・防潮堤を備えており,推定20mの津波が襲ったが、行方不明者1人、死者は出ていない。

 この度、地震・津波対策を見直す国の中央防災会議に設けられた専門調査会が、提言をまとめた。
 その主な内容は、■歴史を調べて考えられる最大級の津波に備える■大きな揺れなら迷わず高い所に逃げる「津波てんでんこ」が基本■津波避難ビルの指定■浸水の恐れが大きい土地の利用規制などで、5分程度で避難できる町づくりを求めている。

 宮古や山田の被災地を前にしての印象では、基本は防潮堤と避難ビルだろう,と思う。その上で、「まず逃げる」事を基本にして訓練を積む必要がある。実際には、海辺から高台まで距離があり逃げることが困難であったことが伺われる。車での避難は危険と言っても、走って逃げられない人もいる。そうした人の安全をどう確保するか。車を使わざるを得ない方もいるだろう。

 「5分で避難」できる場所を複数作るしかない。避難が困難な虚弱な方々が多い病院とか福祉施設は立地や、構造を見直して地域の避難ビルを兼ねたものにする、などが必要であろう。

 今回の三陸訪問で見た海は、波も少なく静かで美しかった。これが半年前に牙をむいた海だとは思い難かった。
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