「いじめ 」問題を論じるには少年期の心について考えなければならない。しかし、私は今の若者たちに接する機会は皆無に等しい。だから自分の経験を回想し、それに文献的に学んだことを若干加えることしかできない。
誰でも少年期を経過する。育った時代を背景に皆それぞれに楽しい or つらい少年時代の想い出があるだろう。
私の少年期は田舎で過ごし、ある意味でとても幸せであった。自然に囲まれて、ゆったりと過ごした田舎での生活は、時々ふと、鮮やかな記憶として浮んでくる。
●家が火災で消失したこと、●一匹のネコとの出会い、●自転車の三角乗り、●ボールが見えなくなるまで遊んだ草野球などなど。●太鼓や笛の音が響く祭りの日は自転車で隣町の神社まで遠征したこと、●北上川の支流の乙部川での釣りやヤスでの魚取り、置き針など猟法、次から次へと想い出す。到底上げきれない。●初恋?もあった。
田舎では田植え、稲刈り等の多忙期には小中学校は休みになり、その間、農作業は「結い」と呼ばれる地域社会内の労力交換のシステムがあり、我が家は開業医で農家ではなかったが、私はこの期間毎日のように農家の手伝いに勤しんだ。夜はささやかな打ち上げ会にも呼ばれ、大人の住民たちとも交わった。
今は機械化ですっかり廃れたが、当時の村民は「結い」を通じて緩やかに結ばれており、子供たちはみんな仲が良く、助け合ってもいた。私が園芸とか畑づくりに精を出せる技術的背景はこのような素地をもとに培われた。
当時、日本は全体に貧しかったが、特に岩手県は気候も厳しく冷害も多く日本のチベットなどと言われていた。これは決して屈辱的なことではなく、若いものはそのような評価の中で上昇志向が大きかったのではなかろうか。私は小学校に上がる前から、将来は医者になって地域に貢献するのだ、と固く思っていた。
今回、「いじめ 」問題を考えるにあたって改めてこの少年期のことを回想してみた。ある意味では私にとってもいい経験であった。
いつまでも少年の心を持ち続けているヒトもいるが、大人になるにつれ大抵はいつのまにか、どこか遠くに置き忘れ、いつしか大人の視点のみから世の中を見ており、しかもその問題点に気づいていない。特に教育界の方々にそのような方々が多いのではないだろうか。
このことは現代の「いじめ 」問題を考えるにあたって根本的意味があるように思える。当時の子供たちはガキ大将を中心に一定のルールがあり、諍いは日常茶飯事であったが、そこには自由があり、小さな自治があり、陰鬱な「いじめ 」など存在しなかった。