天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

甥っ子を家族と看做した管理人は独自なファミリーを尊ぶ集団意識の顕れ、名作『家族』を観て真実を知るべし

2010-08-19 22:13:33 | 日記
今日の日記は、札幌キリンビール園が昔のグランドキャバレー「ミカド」札幌店だったと教えてくれた某劇場演技者女性のブロク管理人のことです。
昨日の某女性のブログ投稿『今年はできたょん♪・・花火したょーんo(^-^)o甥っ子たちともたくさん遊べて楽しかった』に対して、ここの管理人は分類仕分をcategory:『家族』と整理しています。まったく瑣末なことですが、私はその分類の仕方に、とても強い違和感を抱きました。
『家族』とは、『居住を共にすることによって、ひとつのまとまりを形成した親族集団』(引用:百科事典Wikipediaより)または『夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。』(引用:大辞泉より)のことです。
どちらの定義によっても、彼女の『甥っ子たち』は、管理人が選択した言葉『家族』に、まったく当てはまりません。当初、この間違った行為は、ここの管理人の日本語に関する語学力の欠如と、私は思っていました。しかし、この管理人は、独自の集団教義により、日本語の『家族』を、英語の”family”(ファミリー)と同義であると拡大解釈して、彼女の親族全員を彼女の”family”『家族』と看做していると、私は熟考の上、今得心しました。
この独自なファミリーを尊ぶ集団意識は、管理人自身の応援行動にも影響しています。自己に敵対する者と自分たちの教義を信奉するシンパを完全に差別化し、そのシンパをファミリー集団として徒党を組ませて独善的な応援をしています。
敵対する者は手段を選ばず排除し、同じ教義のシンパの者は、同じTシャツを着用し同じ応援行動をする集団は、この女性のファミリー『家族』と同じだとの、独自な集団論理がその背景にあって、彼女の『甥っ子たち』は彼女の『家族』との間違った結論に達しているのです。
この独善的教義を信奉する管理人に、日本人の家族の絆の尊さを描いた名作映画『家族』(1970年松竹製作:山田洋次監督 倍賞千恵子 井川比佐志 笠智衆主演・添付した写真を参照)を是非観てほしいです。真の家族とは何かを、この映画があなたに懇切丁寧に教えてくれるからです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1981年気まま独身の私は給料を夜の街に注ぎ込むが、札幌は何も深刻にならずとても良い大らかな愉しい街

2010-08-19 00:30:59 | 日記
今日の続編日記は、1981年札幌市内で仕事をしていた私が通ったグランドキャバレー「ミカド」札幌店(添付した写真は現在のキリンビール園の外景、外装は昔のまま)のこと・その2です。
この「ミカド」札幌店に、私が初めて訪れたのは、会社の関連業者の接待でした。当時は、この大人の社交場は、お互い商売の接待の場でもありました。だから、ステージ近くの良いテーブル席は、どこかの企業が接待用に常時おさえていたのか?予約席になってほとんど空席になってました。
その時、私たちが接待された丸テーブルは、ステージ舞台から3列目あたりで、階段を上がって並んでいる角テーブル席よりも、ダンスホールに近くとても良い位置(注:昨日の日記写真を参照)でした。だから、ホステス嬢とすぐに踊りに出られる場所でもありました。
その後自腹で来るようになってからは、私はその高いテーブルチャージ料を考えて、より後方の席を選ぶようになりました。それでも、集客効果を狙ったのか?店で使えるさまざまなクーポン券を、お店は常連客に配っていました。接待女性の指名料無料券やソフトドリンク一杯無料券、テーブルチャージ半額券などです。そのクーポン券一冊を有効期間中に使い切る為、私は再び「ミカド」札幌店を訪れる”良循環”を繰り返しました。
そして、馴染みになったホステス女性に頼まれて”同伴出勤”までしました。やはり入店前の夕食に、「定番の寿司屋」に連れていかれました。でも、有名な芸能人(主に演歌歌手)特別公演の時は、その実演ショーの座席予約の窓口になっているのは、ホステス嬢である彼女たちです。言い換えれば、彼女たちに逆の接待サービスしておかないと、その座席を確保できず、実演ショーを私は鑑賞できなくなります。だから、せっせと私は彼女にサービスをしました。
当時気ままな独身だった私は、このようにほとんどの給料を、このような”良所・すすきの”に注ぎ込んでいました。それでも、完全に使い切ることはなく、ある程度まとまった金は手元に残りました。その残金を私は即、貯金に廻しました。だから、1981年当時の札幌は、私にとって何も深刻になるようなこともなく、とても良い大らかな愉しい街でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする