天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

松竹『家族』家族観と違い米映画『ゴッドファーザー』マーロンブランドは家族を大切にしない奴は男じゃない

2010-08-23 22:26:02 | 日記
今日の日記は、松竹映画『家族』「1970年製作 山田洋次監督 倍賞千恵子(風見民子:精一の妻)井川比佐志(風見精一:源造の長男)木下剛志(風見剛:夫婦の子供)瀬尾千亜紀(風見早苗:夫婦の子供)笠智衆(風見源造:精一の父親)主演」のこと・その5です。
以下に、その名作映画『家族』で山田洋次監督で訴えたかった家族とは何か?を私見として具体的に述べます(その5)。
・(5)男と女が結婚して、一つ屋根の下で二人が暮らして、一つの家族が誕生--長崎県の離島・伊王島から北海道標津郡中標津町へ移住を決意した風見家の夫婦、風見精一(井川比佐志)と民子(倍賞千恵子)は、伊王島のキリスト教会で結婚式をあげています。その移住旅行の最中、妻の倍賞千恵子は、昔の二人が夫婦になるまでの思い出を回想しています。その彼女が回想した場面は、夫婦になった井川比佐志と倍賞千恵子の二人が、いつも登場してくるだけです。唯一の例外として、夫の父親である風見源造(笠智衆)を訪問して、倍賞千恵子が三つ指を付いて挨拶した対面シーンだけです。この親子になった対面も、笠智衆が風見家の家族の一員だと、映画の観客に知らしめる為、山田洋次監督がわざわざ挿入したエピソードです。
山田洋次監督は、新たな家族の誕生を、男と女が結婚して一つ屋根の下で、二人が暮らし始めることと思っているでしょう。だから、新たな家族を描く時、それに直接関係しない人物にはまったく触れる必要はないと考えて、このような回想シーンを自己の映画で表現したと、私は思っています。
その一方、松竹映画『家族』が公開されて2年後に製作されたアメリカ映画『ゴッドファーザー』( フランシス・フォード・コッポラ監督 マーロン・ブランド アル・パチーノ ジェームズ・カーン主演)では、描かれた家族(ファミリー)の捉えかたがまったく違います。
その象徴的な映画のシーンは、冒頭のマーロン・ブランドの娘の結婚式(添付した写真を参照)です。この結婚式には、マーロン・ブランドの親族や彼の同志のすべてが出席し、その家族(ファミリー)の結束を誇示しています。さらに、マーロン・ブランドは自分のファミリーを大家族と看做して、『家族を大切にしない奴は男じゃない』を豪語し、その集団を庇護することを自らの信条としています。
この鉄の結束で結ばれた家族(ファミリー)思想と同じ教義を持つのが、某劇場演技者女性のブログ管理人です。だから、彼は、家族を英語の”family”(ファミリー)と同義であると拡大解釈して、彼女の親族全員を彼女の”family”『家族』と看做しているです。彼の論理によれば、甥っ子も当然の如く家族(ファミリー)になります。
コメント (1)
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