まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世皇女 マリア・アマーリア

2011-05-17 10:25:12 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
一瞬だけど…神聖ローマ皇帝の座を実家から奪った
ヨーゼフ1世皇女 マリア・アマーリア・フォン・エスターライヒ
神聖ローマ皇帝カール7世妃


1701~1756/在位 1742~1745

マリア・アマーリアは、ヨーゼフ1世と皇后ヴィルヘルミーネ・アマーリエの次女です。
兄で唯一の皇子レオポルト・ヨーゼフの死の1週間後に生まれました。

母のヴェルヘルミーネ・アマーリエはその後身ごもることができませんでした。
あくまでも噂ですけど、ヨーゼフ1世が愛妾の一人から梅毒をうつされて
それが皇后にもうつっちゃったらしいです。

    

マリア・アマーリアも、姉のマリア・ヨーゼファ同様、継承権を奪われて
放棄を認めるまで結婚の許可がおりませんでした。

サヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオ妃の候補にあがりましたが
ヴィットーリオの父サルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世が乗り気でなく
うだうだしている間にヴィットーリオ(息子の方)が亡くなってしまいました。
でも、この話しも継承権問題があるうちは進まなかったかもしれませんね。

その後、マリア・アマーリアは継承権を放棄し
1722年にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の王子カールと結婚しました。

そして1740年、叔父カール6世が亡くなりました。
マリア・アマーリアの夫バイエルン公も早速妻の権利を主張して
ハプスブルク家に戦いを挑みます。

オーストリア=バイエルン戦争で勝利し、1742年にカール7世として
神聖ローマ皇帝に即位しましたが、結局マリア・テレジアの反撃を受けて
領土まで奪われてしまいました。

そんな戦争まっただ中の1745年に、カール7世が亡くなります。
マリア・アマーリアは息子のマクシミリアン3世がバイエルン選帝侯を継承すると
ただちにマリア・テレジアと和平を結ぶように説得して講和を結ばせました。

すでにバイエルンが占領されて負けが見えていたこともありますが
やはり姉や従姉妹と争うのは、本意ではなかったのかもしれませんね。

マリア・テレジアの夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝に即位して
皇帝位は再びハプスブルク家の手に戻りました。

1756年にミュンヘンで亡くなっていますから、オーストリアへは帰らず
子供たちの側で暮らしていたようです。

7人のお子様がおりましたが、長女マリア・アントニアと次男マクシミリアン3世が
それぞれ姉マリア・ヨーゼファの息子プファルツ選帝侯フリードリヒ・クリスティアンと
マリア・アンナ・ゾフィーと結婚しています。
四女マリア・ヨーゼファはマリア・テレジアの息ヨーゼフ(2世)の妃になりました。

いとこ・またいとこ同士で3組も! これは戦争している場合ではありませんね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヨーゼファ

2011-05-15 13:26:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女帝はマリア・テレジアじゃなかったかも…
ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
ポーランド王アウグスト3世妃


1699~1757/在位 1734~1757

ヨーゼフ1世と皇后ヴィルヘルミーネ・アマーリエには3人のお子様が生まれました。
たったひとりの皇子レオポルト・ヨーゼフがわずか1歳で亡くなったことが
マリア・テレジアという有名な女帝誕生の第一歩となりました。

マリア・ヨーゼファはヨーゼフ1世の長女でした。

     
祖父レオポルト1世が存命中に、父ヨーゼフ(1世)と叔父カール(6世)は
もし二人に皇子ができなかった場合、ヨーゼフの長女にハプスブルク家の統治権を
全て継承するという布告に署名をしていました。
つまり、マリア・ヨーゼファが継承権を持つわけですね。

しかし、ヨーゼフ1世が6年ほどの短い在位で、天然痘で急逝すると…
後を継いだカール6世がそんな言いつけを守りますかいな!

カール6世は1713年に相続順位法を発布して
自分の娘マリア・テレジアへの継承を独断で決めました。

実はマリア・ヨーゼファには5歳の時、ポーランド王アウグスト2世から王子の妃に…
という話しがありました。
二人の間には宗教上の問題があってなかなか発展しませんでした。
1712年には王子アウグストがカトリックに改宗して問題はなくなったのですけれども
この縁談はまだまだ実現しませんでした。

カール6世が、マリア・ヨーゼファと妹のマリア・アマーリア
継承権を放棄するまで結婚を許さなかったからなんですね。
二人の夫が妻の名目で継承権を主張し始めたら困るからです。

カール6世は晩年、娘への継承を確固たるものにするために権力と時間を費やしたわけですが
近しい身内に対してでさえこんな疑心暗鬼ぶりじゃ
他人なんてとことん信用できなかったでしょうね。

マリア・ヨーゼファは継承権を放棄して、1719年にアウグスト(3世)と結婚しました。
敬虔な人だったので、ポーランド国内のカトリック化に力を注ぎ
教会や修道院を設立したそうです。

1740年、カール6世が亡くなると、マリア・ヨーゼファはいきなり継承権を主張します。
これは自分のためではなくて夫のためだったようです。

カール6世があんなに苦心したにもかかわらず、神聖ローマ皇帝位をはじめ
ハンガリー王位、ベーメン王位などなど、各国の王から横槍が入りました。
ハプスブルク家は、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦うことになりました。

マリア・ヨーゼファは、2年後の1742年に前言を撤回してオーストリアと同盟を結びますが
この年、妹マリア・アマーリアの夫がカール7世として神聖ローマ皇帝に即位しました。
たった二人の姉妹間で争いか… つらい時代ですね。

七年戦争中、マリア・ヨーゼファはドレスデンで遠征に発った夫の留守を守っていましたが
都市はプロイセンに占領されてしまいました。
マリア・ヨーゼファは占領下の1757年、卒中で亡くなりました。

ちなみに、アウグスト3世の父は、マリア・アウローラアンナ・コンスタンシアなど
多数の愛妾を持ち、300人以上の庶子がいたというアウグスト2世です。
アウグスト3世に浮気癖があったかどうだか、今のところわからないのですが
二人の間には15人のお子様が生まれていますので、仲は悪くなかったんじゃないかな…と
勝手に思ってます。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
      Wikipedia英語版)
コメント (6)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト

2011-05-15 00:11:16 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女性誌の取材に向いてそうな皇女
レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世と二人目の妃クラウディア・フェリチータスの間には
三女、四女にあたる皇女が生まれていますが、二人ともすぐに亡くなりました。

レオポルト1世と三人目の妃エレオノーレ・マグダレーネには三男七女が生まれています。
五女クリスティーナは生まれて数ヶ月で亡くなりました。
マリア・エリーザベトは六女になります。

             

マリア・エリーザベトは、皇女たちの中でお母様の血を一番引き継いでいたのか
ラテン語・ドイツ語・フランス語・イタリア語をこなす、知的な女性だったそうです。

ハプスブルク家の皇女でありながら未婚です。
これが頭脳明晰なマリア・エリーザベト自身の判断なのか
レオポルト1世の政略結婚を含めた政治力の無さなのかはっきりしませんけど
たぶん縁談はたくさん持ち込まれたと思うのよね…

45歳の時に弟の神聖ローマ皇帝カール6世からネーデルラント総督に任命されました。

パワフルで牽引力があるマリア・エリーザベトは
ネーデルラントでは人気があったようです。
でも、実家ハプスブルク家よりもネーデルラントのことを考えて行う
独立思考の政治はウィーンでは評価されませんでした。
親会社の言いなりにならず業績を上げる子会社っていう感じかしら? 男らしいですね!

大金を投じて芸術と音楽が溢れる最高の宮殿づくりに精を出し
作曲家のパトロンにもなりました。

当時のプリンセスとしては珍しい “ 自分の道を進んだ女性 ” という感じですね。
自己啓発型の女性誌があったら、ぜったい取材を受けてそうなタイプです。

1741年に突然モランヴェル(ベルギー)で亡くなりました。
ブリュッセルに葬られましたが、8年後ウィーンのカプツィーナ皇帝廟に移されました。



              
失恋の痛手から立ち直れなかった皇女
レオポルト1世皇女 マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世の七女マリア・アンナはポルトガル王ジョアン5世妃になりました。
八女マリア・テレジアは9歳、九女マリア・ヨーゼファは16歳で亡くなりました。
マリア・マグダレーナは十女になります。
十一女マリア・マルガレーテも1歳で亡くなっています。

         

1708年にマリア・アンナがジョアン5世と結婚した時、両王家はさらに関係を強くしようと
マリア・マグダレーナとジョアン5世の弟ベージャ公フランシスコの結婚交渉に入りました。
けれども交渉は早々に決裂して二人の結婚話はなくなりました。

マリア・マグダレーナは縁談がなくなった後、引きこもり生活に入ってしまいました。
親しくしたのは姪のマリア・テレジアと姉のマリア・アンナぐらいで
世間とは没交渉の日々を送りました。

54歳の時、急性肺炎で亡くなりました。

こんな時、女帝マリア・テレジアなら打ちひしがれている娘だって
有無を言わさず嫁に行かせて、逆療法になったりしたかもしれませんけど
レオポルト1世は引き蘢らしたままだったみたいね

ちなみに、ベージャ公は生涯未婚で51歳の時に亡くなってますが
マリアナ・シルヴァイラという女性の間に二人の庶子がいたようです。
この女性のことはわからないんですが、もしかして、この人と結婚したかったのかしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇女 マリア・アントニア

2011-05-12 22:21:35 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
スペインは誰のもの?
レオポルト1世皇女 マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ
バイエルン選帝侯マクシミリアン2世妃


1669~1692

レオポルト1世と一人目で最愛の妃マルガリータ・テレジアの間には二男二女が生まれました。
マリア・アントニアは長女です。
兄、弟と妹は生まれてすぐに亡くなりました。

家系図は省略しましたが、マリア・アントニアの父は、母の母方の叔父で
父方の従兄弟にあたります。
母方の祖父スペイン王フェリペ4世と祖母マリアナも伯父と姪の関係になります。
何言ってるかわからなくなってきたでしょ? 私も書いててわからなくなってきました。
とにかく、血が濃い~ってことでございます。

    

マリア・アントニアは生まれた時から母方の叔父(とは言っても8歳違い)にあたる
スペイン王カルロス2世と結婚させようと考えられていましたが
政治的な状況でかないませんでした。

サルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世のお妃候補にもなりましたが
成立しませんでした。

なにしろ優柔不断なレオポルト1世、子供たちの結婚でも英断ができなかったか?

結局1685年に、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世と結婚しました。
エピソードが無いんだけど、幸せな結婚生活ではなかったらしいです。

1692年に23歳の若さで亡くなりました。
3人目の子、ヨーゼフ・フェルディナントが生まれて2ヶ月目に亡くなっているので
出産が問題だったのかもしれませんね。

ハプスブルク家最後のスペイン王カルロス2世はマリア・ルイサ・デ・オルレアンス
マリアナ・デ・ネオブルゴの二人の妃を迎えていますが
結局嫡子を遺さないまま1700年に亡くなります。
もともと虚弱体質な王で、亡くなる前から各王国の目は「だ、誰が後を継ぐのかっ?」と
スペインに注がれていました。

母のマルガリータがスペイン王フェリペ4世の王女ですので
その娘のマリア・アントニアには継承権がありました。
ですので、その息子ヨーゼフ・フェルディナントにも当然継承権があり
(長男と次男は産後すぐに亡くなっていました)
幼い王子に各国の注目が集まりました。

しかし、ヨーゼフ・フェルディナントはカルロス2世が亡くなる1年前に
7歳で亡くなってしまいました。

ヨーゼフ・フェルディナントが生きていたら、スペイン王家はブルボン家ではなくて
ヴィッテルスバハ家に渡っていたかもしれません。

この時代はどんな政治的手腕や知性より、長生き&子づくり能力が大切だったんだなぁ…
もう、それだけでいい! とさえ言えるかも…と、あらためて思いましたとさ。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント3世皇女 エレオノーレ

2011-05-09 12:45:10 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
凡庸な王に尽くした王妃
フェルディナント3世皇女 エレオノーレ・マリア・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ミハウ・コリブト妃/ロートリンゲン公カール5世妃


1653~1697/在位 1670~1673

フェルディナント3世は3度結婚していて、一人目の王妃マリア・アンナには
神聖ローマ皇帝レオポルト1世を含む6人が生まれました。
皇女は2人ですが、次女マリアは生まれてすぐ亡くなっています。
長女マリア・アンナはスペイン王フェリペ4世妃になりました。

二人目の王妃マリア・レオポルディーネには皇子が一人。

三人目のエレオノーラ・ゴンザーガには一男三女が生まれました。
三女マリア・ヨーゼファは1歳で亡くなりました。

エレオノーレ・マリアは四女になります。
         
家系図がさっぱりしていますが
本当はロートリンゲン公家とゴンザーガ家も入り乱れております。

17歳の時、ポーランド王ミハウ・コリブトと結婚しました。
翌年とその翌年王子を流産してしまい、ミハウの敵に偽装妊娠だという噂を流されます。

なんの取り柄も無い一瞬芸の王でしたが、エレオノーレは夫に忠実でした。
ポーランド語も学んでミハウの視察旅行に同行しました。

1673年、ミハウは亡くなりますが、エレオノーレはその後2年間ポーランドに留まりました。

1678年、ロートリンゲン公カール5世と再婚します。
子供は6人生まれ、生涯インスブルックで暮らしました。

善良で優しさの見本みたいな人だったそうです。
嫁ぐ相手が違ったら、もっといいエピソードが残っていたかもしれないのに…
でもいい人の話しってあまり残っていないのよね…悪女にくらべて。



              
後妻と対照的なエピソードの無さ・・・
フェルディナント3世皇女 マリア・アンナ・ヨーゼファ
                   フォン・エスターライヒ
プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム妃


1654~1689

マリア・アンナはフェルディナント3世の五女になります。
母はエレオノーラ・ゴンザーガです。
        

24歳の時、プファルツ選帝侯子ヨハン・ヴィルヘルムと結婚しました。
マリア・アンナの兄レオポルト1世は、ヨハン・ヴィルヘルムの姉
エレオノーレ・マグダレーナを妃に迎えていました。
二人の王子を生みましたが、二人とも幼い頃に亡くなっています。

結婚から10年後に結核で亡くなりました。
ヨハン・ヴィルヘルムは翌年選帝侯になっているので、後1年長生きしたら
選帝侯妃の称号が与えられたんですけどね…

ヨハン・ヴィルヘルムは1691年にコジモ3世とマルゲリータ・ドルレアンスの王女
アンナ・マリーアと再婚しています。
彼女にはい~っぱいエピソードがあります。
アンナ・マリーアについてはまたの機会に…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント2世皇女 ツェツィーリア

2011-05-06 00:34:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
何ごとも実家しだいなのか…
フェルディナント2世皇女 ツェツィーリア・レナータ
                フォン・エスターライヒ
ポーランド王ヴワディスワフ4世妃


1611~1644/在位 1637~1644

フェルディナント2世とマリア・アンナ・フォン・バイエルンの三女です。
        
従兄にあたるポーランド王ヴワディスワフ4世の結婚相手に選ばれ
26歳の時に結婚しました。
結婚の年の2月に父フェルディナント2世は亡くなっていますが
式は9月につつがなく行われています。

フェルディナント2世、3世はバリバリのカトリックで
新教を相手に、カトリック改革(対抗宗教改革)を敢行中でした。
スウェーデン(新教)と関係が良くないポーランドを取り込みたかったのかもしれません。

挙式当日にワルシャワで戴冠式を行ったのですが、これにポーランド貴族大激怒!
(当時の)首都クラクフ以外で戴冠式が行われたのは初めてのことでした。

ヴワディスワフ4世の父ジグムント3世(カトリック)は母方から
ヤゲェウォ家の血を引いていますが、スウェーデン王家の出なので
揚げ足をとられたのかもしれません。

ま、とりあえずポーランド王妃になったツェツィーリアは
宮廷を自分好みに変えていきました。
勝手な想像だけど、ハプスブルク家の宮廷と比べたら
ポーランド宮廷って地味そうじゃない? 違ったらごめんなさい

ヴワディスワフ4世には愛妾Hedwig Luszkowskaがおりました。
ツェツィーリアは彼女に縁談をもちかけて追い出したらしいです。

また、ツェツィーリアはカトリック支持、ハプスブルク家支持で
大法官イェジ・オッソリンスキやラジヴィウ公爵と手を結び
ヴワディスワフ4世の親友で影響力を持っていたアダム・カザノフスキの一派と対立しました。

ツェツィーリアは結婚後2~3年は発言力があり、人事にも口出ししました。
逆にカザノフスキの力は衰えていきます。

しかし、ヴワディスワフ4世は「ハプスブルク家は思ったより助けてくれないな」
なんてことを考え始めます。
もしかしたらカザノフスキの入れ知恵かもしれません。
ヴワディスワフはツェツィーリアのアドバイスを無視するようになります。

ツェツィーリアはポーランド宮廷では人気があり
義姉アンナ・カタリーネとは仲良くなって劇場に行ったりと、私生活は楽しかったようです。

王女が二人生まれていますが幼くして亡くなっています。
33歳の時感染症で亡くなりました。

パワフルな人だったみたいです。
嫁ぎ先によっては、もっと政治的に力を発揮して名を上げられたかもしれない人ですね。
王子を生んだり長生きしていたら状況も違っていたかもしれません。

ちなみに、その後ヴワディスワフ4世が再婚したマリア・ディ・ゴンザーガも
けっこうパワフルな人でした。
ヴワディスワフ4世は強い女性が好きだったのかしらね?
政略結婚だから単なる偶然か…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇女 マルガレーテ

2011-05-02 18:29:06 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
神に一生を捧げた皇女
マクシミリアン2世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ


1567~1633

マクシミリアン2世とマリア・フォン・シュパニエンには16人のお子様がおりました。
皇女は5人ですが三女は生後1ヶ月で、五女は14歳で亡くなりました。

マルガレーテは四女です。
長女アンナはスペイン王フェリペ2世妃に、
次女エリーザベトはフランス王シャルル9世妃になりました。

血族結婚の香りがプンプン漂ってきましたね!
            
そんな中、マルガレーテはと言いますと、バリバリのカトリック信者である
母マリアから厳格な教育を授けられ、大きな影響を受けて育ちました。

1582年、母マリアは大好きなカトリック大国スペインに帰国します。
その際、末娘のマルガレーテを連れて帰りました。

たぶんお母様はスペイン王女としての生活をされたと思うんですけど
マルガレーテはシスター・マルゲリータという名で聖クレア修道会の
サンタ・クララ・デ・ラス・デスカルサス・レアレスの修道女になりました。
この修道院はファナ・デ・アウストリアが創立したものです。

66歳で修道女として亡くなり、修道院に葬られました。

とはいえ、母マリアや王妃マルゲリータ・デ・アウストリアとタッグを組んで
フェリペ3世にオーストリア支持を訴え続けたそうなので
宮廷とも行き来していたみたいですね。

私は最近王侯貴族の子女たちの教会・修道院問題に興味津々です。
教会・修道院に入ってからの生活ぶりも気になるし
懲罰のように修道院に入れられている王妃や王女がいるところをみると
修道院によって役割が違ったのかしら…という謎もあります。
それとも、どの修道院もモン=サン=ミッシェルのように牢獄を備えていたのでしょうか?
今後の課題にしたいと思います。



               
実家を敵にまわす?
フェルディナント2世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
バイエルン選帝侯マクシミリアン1世妃


1610~1665

マクシミリアン2世を継いだ次男ルードルフ2世は未婚でした。
四男マティアスは従姉のアンナ・フォン・ティロルと結婚しましたが嫡子無し、で
皇帝には従兄弟にあたるフェルディナント2世が即位しました。

フェルディナント2世と最初の妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンには
7人のお子さんが生まれましたが3人は幼くして亡くなりました。
長女クリスティーネも赤ちゃんで亡くなってしまいまして、マリア・アンナは次女です。
          
1635年に母方の伯父、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の二人目の妃になりました。
マクシミリアンは37歳年上です。
その年に前妃エリーザベト・フォン・ロートリンゲンを亡くしたばかりのマクシミリアンが
急いで再婚に踏み切ったのは、なにしろ嫡子が必要だったからでした。
マリア・アンナは期待に応えて二人の王子を生んでいます。

バーリバリのカトリック信者だったフェルディナント2世も
30年戦争まっただ中のこの次期、強力な同胞が必要だったに違いありません。

マリア・アンナは賢くて慎重で威厳はあり、しかも財政管理がしっかりしていたと言います。
前妃とは違って政治にも関心がありました。
その上待望の嫡子も生んでいるわけですから、宮廷での存在感も大きかったはずです。
閣議にも参加していました。

マリア・アンナは実家の政策にこだわらなかったばかりか
むしろ完全にバイエルン擁護にまわることもありました。
ハプスブルク家にしてみれば「あの子は何を考えてるんだか!」と
怒りたい時もあったででしょう。

もしかすると母マリア・アンナからバイエルンの良きところを聞かされて
バイエルンに愛着があったのかもしれませんね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 エレオノーレ

2011-04-30 20:36:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
奇跡をおこした親の愛
フェルディナント1世皇女 エレオノーレ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公グリエルモ妃


1534~1594

エレオノーレはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの六女です。

        
1561年に4歳年下のマントヴァ公グリエルモ1世に嫁いでいます。
27歳ですから決して早くはないですね。

ヨハンナ(十二女)の結婚でフランス王アンリ4世妃
マリー・ド・メディシスの伯母になりました。

お子様は3人おりまして長男のマントヴァ公ヴィンツェンツォ1世は
エレオノーレの姪にあたるエレオノーラ・ディ・メディチと結婚しました。
その公女エレオノーラがフェルディナント2世妃になりました。
次女アンナ・カテリーナは母方の伯父にあたる
前方オーストリア(ティロル)大公フェルディナント2世妃になりました。
その公女アンナは神聖ローマ皇帝マティアス妃になります。
        
アンナ・カテリーナは5歳の時思い病に罹り、命が危なくなったことがあります。
なんの病気かわかりませんが、高熱が続き四肢が膨張したそうです。
この状態が2年ほど続きました。

グリエルモ1世とエレオノーレはとうとう聖マリアに
「アンナ・カテリーナの命が助かったら、その後はマリア様の子として育てます」
という誓いをたてました。

するとどうでしょう! アンナ・カテリーナはみるみる回復いたしました。
その後アンナ・カテリーナはマリア様の子として言い聞かせられ教育をうけました。
アンナ・カテリーナの信心深さはこのようにして培われました。

幼い娘を救ったのは、親の愛か神の力か…いずれにしろ良くなってよかったですね。



                                
そして九女もイタリアへ
フェルディナント1世皇女 バルバラ・フォン・エスターライヒ
フェラーラ公アルフォンソ2世妃


1539~1572

エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの九女です。
七女マルガレーテはハーラー修道院(チロル)の修道女になり
八女ヨハンナは生後11ヶ月で亡くなりました。
バルバラの妹十女ウルスラは2歳で亡くなり、十一女ヘレナはハーラー修道院に入りました。
十二女ヨハンナはトスカーナ大公妃になっています。

バルバラは、マグダレーナ、マルガレーテ、ヘレナ、ヨハンナとともに
インスブルックで厳格な信仰生活を送りました。
そのうち3人は修道院に入っていますから、バルバラやヨハンナも縁談がなければ
同じ道を歩んでいたかもしれません。

バルバラはあまり美しくないという評判でしたが、ちょうどお年頃がよかったのか
いくつかの縁談がありました。

1565年にエステ家のフェラーラ公アルフォンソ2世に嫁ぎました。
アルフォンソ2世の父方の祖母は、あの、ルクレツィア・ボルジアです。

         

この頃ハプスブルク家からはかなりイタリア方面に嫁いでいますね。

当時イタリアではフランスとハプスブルク家が激しく領土争いをおこしていました。
人の国で何やってるんだか…

子だくさんと政略結婚で領土拡大をしてきたハプスブルク家は
イタリアにも同じ戦術を用いようとしていたようです。

1570年と1571年にイタリアでは大地震がおこったようです。
バルバラは両親を亡くした少女たちのために自分の収入を投げ出して
サンタバーバラ女学校( Conservatore delle orfane di Santa Barbara)を建てました。

バルバラはカトリックを信仰していて、イエズス会との親交を暖めていまいたが
プロテスタントの義母レナータ・ディ・フランシア
(ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの王女)とも仲良く過ごしていました。
フランス王女でプロテスタントとは珍しい…

アルフォンソ2世とバルバラの仲は良かったようですが
バルバラは結婚の翌年から病気がちになり、お子様は生まれませんでした。
結核に罹り33歳で亡くなりました。

アルフォンソ2世は7年後、バルバラの姪にあたるマルゲリータと再々婚しました。

あまりエピソードはありませんが、寛容な方だったとお見受けします。
敬虔な教育を受けたおかげですかね?
信心深い人が皆こうだったら宗教戦争みたいなものはおこらなかっただろうに…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 マリア

2011-04-29 12:16:03 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
えーっと…特にはないんですけど
フェルディナント1世皇女 マリア・フォン・エスターライヒ
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム妃


1531~1581

マリアはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの三女です。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルムと結婚しました。
ヴィルヘルムの姉アンはイングランド王ヘンリー8世の4人目の王妃です。
特にエピソードが無いので家系図だけ…
           
娘のシビレは、兄の前部オーストリア(チロル)大公フェルディナント2世と
フィリッピーネ・ヴェルザーの ” 語り継がれる愛の物語 ” 貴賤結婚で生まれた
ブルガウ辺境伯カールと結婚しました。



              
こんな結婚させちゃいけない! 第2弾
フェルディナント1世皇女 カタリーナ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公フランチェスコ3世妃/ポーランド王ジグムンド2世妃


1533~1572/在位 1553~1572

カタリーナはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの五女です。
(四女マグダレーナはチロルのハーラー修道院の修道女になりました)

        
1549年に同じ年のマントヴァ公フランチェスコ3世と結婚しましたが
4ヶ月後にフランチェスコが17歳で亡くなってしまいます。

4年後、姉エリーザベトの夫だったポーランド王ジグムント2世と再婚しました。

ジグムントはエリーザベトの死後、最愛の女性だったバルバラ・ラジヴィウヴナと
念願の結婚を果たしていましたが、バルバラは1551年に急死していました。
証拠はありませんが、王大后ボナ・スフォルツァが毒殺したという噂でした。

ジグムントはバルバラの死にうちひしがれていました。
そんな人の後妻になるのは気がすすみませんね…
しかもきっとボナ・スフォルツアの姉への仕打ちも知っていたでしょう。

案の定この結婚もハッピーな結果にはなりませんでした。

カタリーナは結婚の翌年妊娠しましたが流産してしまいました。
ジグムントはこの流産を姉エリーザベトの呪いだと、おバカなことを考えます。
そしてそんなおバカな考えのせいで結婚を無効にしようと試みました。

結婚から13年後、カタリーナはポーランドを後にしてその後はリンツで過ごし
そこで亡くなり、サンクトフロリアン修道院に葬られました。

亡くなるまで王妃でしたので離婚はしていないみたいですね。
もしかしたら流産後の12年間は別居状態だったのかもしれません。
21歳から33歳という女盛りを無駄にさせられて…
姉妹揃ってこんな目に遭わされるなんて、ジグムントったらヒドいやつだ!
でもバルバラサイドから見れば逆境の愛を成就させた一途な男性なのか…韓流っぽいぞ。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 アンナ

2011-04-25 00:44:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
“ 三度目の正直 ” 結婚
フェルディナント1世皇女 アンナ・フォン・エスターライヒ
バイエルン公アルブレヒト5世妃


1528~1590

アンナはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの三番目の子で次女です。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹になります。

           
幼い頃、バイエルン公子テオドールと婚約しましたが、相手が亡くなりました。
テオドールは1534年に8歳で亡くなっているので
アンナが6歳になるまでに婚約したみたいですね。

次にシャルル・ドルレアンと婚約しましたが、またまた相手が亡くなりました。
シャルルは1545年に23歳で亡くなっているので
アンナが17歳になるまでに婚約したと思われます。
シャルルは、アンナとカール5世の皇女マリアの、どちらと結婚してもいいという
ダブル婚約だったみたいです。
          
シャルルが亡くなった翌年、バイエルン公子アルブレヒト(5世)と結婚しました。
アルブレヒトは最初の婚約者テオドールの2歳下の弟でした。

アンナの伯父カール5世は、シュマルカルデン戦争でバイエルンの支援が欲しくて
この結婚を決めました。

アルブレヒトはドイツ国内のカトリック改革のリーダーで
政治よりもそっちに力を注いでいました。
とはいえ、当時のヨーロッパでは政治と宗教は密接に繋がっていたんだけどもね。
アンナもそんな夫共々精力的に活動したみたいです。

また、アルブレヒト5世とアンナは芸術面でミュンヘンの評判を高めていきました。
アルブレヒト5世には、ギリシャやエジプトの骨董品をはじめとする
美術品のコレクションがあり、芸術面のパトロンでもありました。
蔵書も多く、バイエルン州立図書館の前身になる宮廷図書館も建てています。
自分の名前を冠したギナジウム(中・高等学校)も建てています。
アンナも一緒に芸術をサポートしていました。

してみるとこの夫婦、ものすごく気が合っていたみたいですね。
アンナにもともと芸術方面の興味があったのか夫唱婦随なのかはわかりませんが
良いコンビだったように思えます。

仕事一辺倒の亭主よりは多趣味な亭主の方が一緒にいて楽しいものね。
趣味にもよるけど…

お子様は7人。
娘のマリア・アンナは、アンナの弟の内オーストリア大公カール2世と結婚しました。
この二人の長男が後に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世になります。
娘二人は相次いでポーランド王ジグムント3世妃になっています。
ポーランド…ハプスブルク家にとってどんだけ重要だったんだ…
すごく興味が湧いてきました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 エリーザベト

2011-04-23 21:11:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
こんな結婚させちゃいけない! 第1弾
フェルディナント1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ジグムント2世妃


1526~1545/在位せず

エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの長女で
15人の兄弟姉妹の中で最年長の子供でした。
12人姉妹です!26歳年が離れている末の妹ヨハンナ
トスカーナ大公フランチェスコ1世妃になりました。

        
1歳の時にはすでにポーランド王子ジグムント(2世)と結婚することになってました。
エリーザベト本人も、もの心がついた時からポーランドに嫁ぐことを知っていました。
17歳の時に7歳年上のジグムントと結婚しました。

実はふたりの結婚の4年前に、ジグムントの姉イジャベラ
フェルディナント1世のハンガリー対立王ヤーノシュに嫁いでいました。
ヤーノシュはすぐに亡くなりましたが、イジャベラは王子を王に立て
摂政としてハプスブルク家に抵抗していました。

東欧・中欧は各国の覇権をめぐって、まだ右往左往していました。
ポーランドはハンガリー&ベーメンをハプスブルク家から奪いたいし
ハプスブルク家はポーランドを手に入れたいし…と虎視眈々状態。
長女として、エリーザベトには大きな期待と責務を背負って嫁いだに違いありません。

しかし、エリーザベトはそれどころじゃなかったのね
まずは嫁姑問題…義母ボナ・スフォルツァはハプスブルク家大嫌い!でして
もともと結婚に反対していました。
宮廷内でエリーザベトを嫌っていることを隠そうともしませんでした。

それから愛人問題…ジグムントには愛するバルバラ・ラジヴィウヴナがいて
彼女との結婚を熱望していたんだけどかないませんでした。
エリーザベトが嫁いできてからもバルバラ命!で、エリーザベトはほったらかし。

また、エリーザベトの世間知らずで引っ込み思案な性格や癲癇の発作などが
宮廷内での評判を下げてしまって、優しくしてくれたのは義父ジグムント1世のみ…
十代の少女には不幸すぎる環境ですよね。
(そういえば妹ヨハンナも、優しく接してくれたのは義父だけだったんじゃ…

結婚から2年後の1545年、エリーザベトは癲癇の発作が重なり健康が悪化しました。
ジグムントったら「生きてるうちに…」ということか、彼女を一人残して
持参金を手に入れるためクラクフに向かいました。

エリーザベトは寂しく病と闘った末18歳で亡くなりました。

ビリニュス大聖堂に葬られたわけなんですが
棺の位置も夫の叔父アレクサンデル2世の隣という、なんだかわけのわからない場所じゃない?
祖父ウラースロー2世の弟なので一応親族ではあるんですけどね。

17歳から18歳(19歳まで1ヶ月足らず)という、少女が輝き始める時に
こんな思いをさせちゃいけない!!
国を治めるための政略も大切でしょうが、バリバリ政治向きの野心家少女ならまだしも
こんなに気の弱い子を… 娘の特性を考えて嫁にだしましょうよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール5世皇女 ヨハンナ

2011-04-21 01:32:11 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
息子の成長を肖像画で見つめ続けた母
カール5世皇女 ヨハンナ・フォン・シュパニエン
ポルトガル王太子ジョアン・マヌエル妃


1535~1573

マクシミリアン1世が亡くなった時、王子フィリップ(カスティーリャ王フェリペ1世)は
すでに亡くなっていましたので、孫のカール5世が即位することになりました。

ヨハンナ(ジョヴァンナ)はカール5世とイザベラ・フォン・ポルトゥガルの三女です。
長女マリアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇后になりました。
次女は生まれてすぐ亡くなっています。
異母姉(庶子)のマルガレーテはフィレンツェ公アレッサンドロ妃になりました。

カール5世はスペイン王カルロス1世でもありましたので
ヨハンナはスペイン王女としてマドリッドで生まれました。
        
ヨハンナは17歳の時、2歳年下のポルトガル王子ジョアン・マヌエルと結婚しました。
ジョアンは、母の兄ポルトガル王ジョアン3世と、父の妹カタリーナの王子なので
ダブルで従弟ってことになりますね。

ところが結婚から2年後、ジョアンが16歳で亡くなりました。
糖尿病説があるんですけど…若いのにそんなことってありますか?
いいものを食べ過ぎたってことでしょうか?

ジョアンの死から2週間後にヨハンナは王子セバスティアーノを生みました。
摂政になる可能性も大きいのでポルトガルに残っていてもよかったんですが
兄のフェリペ2世からマドリッドに呼び戻されます。

フェリペ2世はイングランド女王メアリー1世と結婚したばかりで
将来手に入るかもしれないイングランドに向かう必要があり
留守をヨハンナに任せたかったものと思われます。
ヨハンナはしっかりその期待に応えたそうです。

ヨハンナはその後ポルトガルへ戻らず、残して来た息子セバスティアーノに
会うことはありませんでした。
そのかわり、成長してゆく息子の肖像画を送らせていたそうです。
会いたいからとホイホイ会いに行けない王族の家庭事情…
なに不自由なそさうで、けっこう融通が利かない不自由さがありそうです。

ヨハンナは肖像画ではきつそうな顔をしていらっしゃいますけれども
聖クレア修道会の修道女たちのために、王宮内に修道院を設立しました。
現在はラス・デスカルサス・レアレス修道院として知られています。

ヨハンナが信徒になったことで、貴族の娘たちの間で
修道女への憧れが高まった時期があったそうです。
だって王宮内にあるんだもの、なにかいいことがありそうな予感…
すみません、不謹慎でした

また、イエズス会(男性オンリー)の設立にも興味を示していたらしく
1555年にはマテオ・サンチェスという名でこっそり入会したとまで言われています。
でも集会に出たらばれちゃうわね
『イケメンですね!』とか『コーヒープリンス1号店』みたいに隠し通せたのかしら?

             
            男装してもイケるかも…しかも美男子ですわね

38歳で亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ

2011-04-17 20:39:49 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
フランス大嫌い!
マクシミリアン1世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
アラゴン王太子ファン妃/サヴォイア公フィリベルト2世妃


1480~1530

フリードリヒ3世がハプスブルク家の家運を賭けて結婚させたマクシミリアン(1世)と
ブルグント(ブルゴーニュ)公マリア(マリー)の長女がマルガレーテです。
兄は後にカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカと結婚するフィリップ(フェリペ)です。

マクシミリアン1世はマリア妃の死後ビアンカ・スフォルツァと再婚しましたが
子供はできませんでした。
       
マルガレーテの名は、母マリアの継母にあたるイングランドの
マーガレット・オブ・ヨークから名付けられたものです。
マリアとマーガレットはものすごく仲が良かったんですって。

1483年、マクシミリアンはフランス王ルイ11世とアラス条約を結びました。
2歳のマルガレーテは王太子シャルル(8世)と婚約してフランスに向かいました。

フランス宮廷で未来のフランス王妃として教育され、義理の姉になるアンヌと暮らし
シャルルにも恋心を抱いていたマルガレーテだったのに、突然の裏切りが

11年後、シャルル8世は条約の破棄と、父マクシミリアン1世の婚約者(妃説あり)
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を宣言しました。
するとどうでしょう! 今まで王妃扱いしていたフランス宮廷は
手のひら返しでマルガレーテをお客様扱いにします。
しかも人質のつもりか、マルガレーテをブルゴーニュに帰したのはその2年後でした。

傷心のマルガレーテは「この恨み、一生忘れない!」とフランスを後にいたしました。

しかし、マクシミリアン1世はぼやぼやしていませんよ。
今度の狙いはカスティーリャ&アラゴン(スペイン)です。
マルガレーテと王太子ファン、兄フィリップとファナのダブル婚が決まります。

1496年、スペインに向けて出発したマルガレーテでしたが、なんと!
結婚から6ヶ月後に(たぶん結核で)ファンが亡くなりました。
マルガレーテは妊娠していたんですが流産してしまいました。
16歳で婚約破棄を経験し、未亡人になるとは…
         
20歳の時に同じ年のサヴォイ公フィリベルト2世と再婚しました。
ところが、なんと!フィリベルト2世も3年後に亡くなりました。
水にあたったらしいです。 23歳で再び未亡人になるとは…山あり谷ありすぎる

マルガレーテは「二度と結婚しない!」と宣言しました。
さすがにマクシミリアン1世も無理強いはしなかったみたいですね。
「じゃあ仕事に生きるかい?」ということでしょうか?
マルガレーテをネーデルラント総督に指名しました。

マルガレーテはどうやら政治向きな女性だったみたいです。
イングランドとはフランドルの羊毛をめぐって有利な通商条約を結び
カンブレ同盟形成でも一役かいました。

甥のカール(5世)は彼女の影響力を恐れて一度解任していますが
敵にするよりは味方に…と、すぐに総督の座に戻しています。
その後は亡くなるまでネーデルラント総督の座に留まりました。

北部では宗教改革がおこり、グエルダー公などやっかいな相手もいましたが
概ねネーデルラントに平和と繁栄をもたらした時代でした。

1529年には甥カール5世のために、抗争中のフランス王フランソワ1世の母后
ルイーズ・ド・サヴォワ(フィリベルト2世の姉)と “ 貴婦人の和 ” を締結して
争い激化を避けました。

1530年、居城にしていたメヘレンで亡くなり、彼女の希望どおり
フィリベルト2世が眠るブール=ガン=ブレスの霊廟に葬られました。

夫亡き後、何をやっていたかよくわからない王侯貴族の妃が多い中
活躍の場を得て立派に果たした女性がいると嬉しくなりますね!
見習いたいものです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      菊地良生史『歴史読本WORLD 世界の女性史(ハプスブルク家の女たち)』
      Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇女 クニグンデ

2011-04-16 22:44:12 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
めずらしい…父の反対を押し切って結婚
フリードリヒ3世皇女 クニグンデ・フォン・エスターライヒ
バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世妃


1465~1520

プリンセスシリーズが楽しくなってきちゃったので続けてまいります。
以前リクエストがあったハプスブルク家でいきますね。
ハプスブルク家は幅広いので、今回は神聖ローマ皇帝の皇女に絞っていきます。

なんといっても “ 血族結婚と言えばハプスブルク家 ” ですものね!
グローバル化には背を向けて、身内で固めようとする内向き思考の政略結婚。
どんな家系図ができ上がるか楽しみです

クニグンデはフリードリヒ3世とエレオノーレ・フォン・ポルトゥガルの皇女です。
フリードリヒ3世と皇后の間には5人の子供が生まれましたが3人は幼くして亡くなり
兄マクシミリアン(1世)とクニグンデだけが成人に達しました。

母エレオノーレはからだが弱く、クニグンデを生んだ2年後に亡くなりました。

     

自分で畑も耕しちゃったというフリードリヒ3世ですから
宮廷作法にもあまりうるさくなくて、解放的な雰囲気の中で成長しました。

女の子が一般的に習う読み書き・レース編み・刺繍に加えて数学や天文学も学びました。
乗馬・狩猟などもこなしたらしいです。

降って湧いたようなハプスブルク家の神聖ローマ皇帝即位に
他の有力貴族たちがだまってるわけありません。
フリードリヒ3世の一人娘を妻にしようと各方面から縁談が舞い込みました。

ハンガリー王マーチャーシュからの求婚は、フリードリヒ3世が拒否しました。
これが後々とんでもないことに…

クニグンデが15歳の時、ウィーンを訪問中のバイエルン=ランツフート公ゲオルクに
公式に紹介されていましたが、この頃マーチャーシュがオーストリア支配に乗り出して
フリードリヒ3世はリンツへ追放、クニグンデも叔父ジギスムントがいるインスブルックへ
送られて、縁談は無くなったみたいです。

それから8年後、クニグンデが選んだ相手はゲオルクの親類にあたる
バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世でした。

この結婚にはフリードリヒ3世が反対したというのだけどなぜかしら?
ヴィッテルスバハ家に皇帝の座を奪われる怖れからでしょうか?
それとも他に結婚させたい相手が… ポーランド方面かな?

ハプスブルク家といえば、血族結婚と並んであからさまな政略結婚でも名を馳せてます。
よくこんなわがままが通りましたね
けっこう Going my way(わがまま) なプリンセスだったのかもしれません。

1508年、アルブレヒト4世が亡くなりました。
アルブレヒト4世は亡くなる前にバイエルンを統一していまして
15歳のヴィルヘルム4世がバイエルン公に即位しました。

摂政になったクニグンデは辞任された後、
自分にも継承権があると主張するお気に入りの次男ルートヴィヒを後押ししたりして
表舞台にとどまりました。
おかげでルートヴィヒも共同統治者になることができましたとさ。

アルブレヒト4世の死後はPuttrichにある修道院の信徒になりました。
彼女はそこが気に入って、城から移り住んじゃったらしい…
何が好くて移り住む? 女ばかりで気が楽だったのかしらね?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
      Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝カール1世妃 ツィタ

2010-01-30 00:07:00 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
帝国最後の皇后
カール1世妃 ツィタ・マリア・フォン・ブルボン=パルマ


1892~1989/在位 1916~1918

ツィタ・マリアの母マリア・アントニアはポルトガル王女で、カールの義理の祖母の妹です。
どうでしょう!! この、何かを企んでいる感じの家系図。
どの王家も生き残りに必死という時代でした。

         

カールとツィタは幼い頃から見知っていましたが、カールが21歳、ツィタが17歳の時に
親族一同の計らいで再会し1911年に結婚しました。

皇帝フランツ・ヨーゼフは甥の皇太子フランツ・フェルディナントの妃ゾフィー・ホテクが
どーにもこーにも気に食わなかったのね。
なぜかって言うと、ゾフィーはベーメンの下級貴族の娘だったからです。
それでカールとツィタの結婚には大喜び!
結婚式にも列席してツィタにティアラを贈ったり記念撮影に収まったりと上機嫌でした。

               
               帝国最後の輝き。御成婚でのおふたり

もちろん、皇帝に冷たくされている皇太子妃ゾフィーがおもしろかろうはずはなく
また、名家ブルボンの血を誇るツィタも家柄の悪いゾフィーを見下すところがあって
ふたりが仲良くできるわけないわよねぇ…

1914年、第一次世界大戦の引金になるサラエボ事件がおこります。
皇太子フランツ・フェルディナントとゾフィーが暗殺され
カールが皇太子になりました。

しかし皇太子とは名ばかり… 皇帝は80歳を越えても元気ばりばりで仕事をして
カールには何も関与させてくれませんでした。
なんと!カールは第一次世界大戦の宣戦布告も知らされてなかったんだって。

戦争のさなか、とうとうフランツ・ヨーゼフが力尽き、カールは皇帝に即位します。
戦況はオーストリアにとって良くありませんでした。
ツィタは王家存続のために精力的に活動しますが
これが高慢ででしゃばりというイメージを与えてしまいます。

その上、イタリアが同盟を破棄して敵にまわったために憎まれるようになり
(注…ツィタはブルボン=パルマ家とはいってもイタリアに住んだことはないのよね)
兄ジクストゥスを通じて、カールにこっそりフランスと和平交渉をさせたことで
国民を激怒させてしまいます。

1918年、大戦は終結、オーストリアは負けました。
帝国のひとつハンガリーでは革命がおこってウィーンでも市民が声をあげはじめました。
カールは側近たちの説得を受け入れて退位を決意します。
根っからの王侯貴族ツィタは激しく反対しましたが、退位は避けられませんでした。

その後オーストリアに共和国政府が誕生し、スイスに亡命したカール一家でしたが
「ハンガリー王はまだ退位してないじゃん!」と言ってはハンガリーへ向かいます。
一度は温情で見逃してもらえたのですが、二度目には逮捕され
ポルトガルのマデイラ島に島流し… その後しばらくはおとなしく過ごしたようです。

1922年にカールが島で亡くなると、大陸に戻ることになったツィタは
スペインやベルギーでハプスブルク王家復活の活動を再開します。
第二次大戦中は、もとハプスブルク帝国だった国々の行く末を憂い
戦後はオーストリア復興のために援助を惜しみませんでした。

嫁の鏡よね。
実家ではなくて嫁ぎ先の家のために一生懸命になれるんですもの。

1962年からはスイスの聖ヨハネス修道院で暮らすようになりました。
1982年に一度だけ、娘の墓参りのためにウィーンを訪れています。

97歳で亡くなったツィタの命日は、なんとカール1世と同じ4月1日でした。
葬儀はシュテファン大聖堂でおこなわれ、カプツィーナ教会に埋葬されました。
ただし、心臓は彼女の望み通りカールの心臓とともにスイスのムリに葬られました。

              
              すごく私好みのおばあちゃまなんだけど…
              激動の人生だったわりにはおだやかなお顔をしていらっしゃる
               

王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。
(これはとんでもない偏見だったことが発覚! 皇女エリーザベトのページをご覧下さい)
でも称号と人々の尊敬を失うのは、王侯貴族にとって堪え難いことなんでしょうね。

ツィタがそんなにまでして取り戻したかったハプスブルク家の栄光は
甦ることはないのでしょうね…

ちなみに、カール1世&ツィタの息子オットーと孫カールはEUの議員ですってよ。
(98歳のオットー氏は引退したもよう)
欧州統合… 別の意味で帝国の復活とも言えるかも…(無責任コメント

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
      Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち  講談社


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