![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/d1/4b6076ebb595b3784559e2affbe44d99.jpg)
籠の鳥から王妃へ
ジョアン3世妃 カタリーナ・デ・アウストリア
1507~1578/在位 1525~1557
ジョアン3世の時代に、ポルトガルは日本にやって来ました。
先王マヌエル1世時代に、もともとイタリアが行っていたインド航路が復活し
イングランドの海賊も登場、交易は下降線を描いていました。
そこでジョアン3世はアジアに活路を見いだすことにします。
布教活動もその一環で、フランシスコ・ザビエルが派遣されました。
カタリーナは、カスティーリャ女王ファナの王女で
叔母のイングランド王ヘンリー8世妃キャサリンの名をもらいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/37/d3e1d1a9523d78201c84774bea20a270.jpg)
女王ファナがカスティーリャから出してもらえぬ間、他の兄弟たちは
オーストリアでマルグレーテ・フォン・ハプスブルクの保護下におかれましたが
ファナはカタリーナだけは手放しませんでした。
ファナはすでに狂気に陥り、父王フェルナンド2世によってトルデリシャスの城に
幽閉されていましたから、カタリーナも一緒に閉じ込められることになりますね。
ファナはボーっとしてるだけなんだし、たぶん陰気な雰囲気だったと思うの。
カタリーナは窓の外を見て過ごす他は何もやることがなかったそうです。
18歳の時、カタリーナは従兄のジョアン3世と結婚しました。
しかし、この時まだファナは生きていました。
どうやって引き離したんだろうか? ファナは大丈夫だったのかしら?
カタリーナは9人の子供を生みましたが成長したのは2人だけでした。
王女マリアは、スペイン王フェリペ2世に嫁ぎ
王太子ジョアン・マヌエルはスペイン王女ジョアナと結婚しました。
もうっ! ハプスブルク家の思うつぼ…![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp30.gif)
1557年、ジョアン3世は心臓麻痺で亡くなりました。
ジョアン・マヌエルがジョアン3世より早く亡くなっていたため
孫のセバスチャンが3歳で王位を継ぎました。
この時、カタリーナは嫁のジョアナと摂政の座を巡ってもめたのですが
カール5世がとりなしてカタリーナを摂政に選びました。
5年間摂政を務め、エンリケ(後の1世)にその座を譲りました。
で、ここからハプスブルク家に王位が移るまでを駆け足で…
セバスチャンはとても好戦的な王で、自ら兵を率いてモロッコに遠征して
1578年に行方不明になりました。
フランスのマルゴ、神聖ローマ皇女エリザベート、スペイン王女イサベル・クララなど
いくつか縁談はありましたが、未婚で嫡子はいませんでした。
次に摂政をしていたマヌエル1世の王子エンリケが聖職から舞い戻って継ぎました。
結婚を急いだものの、ハプスブルク家が教皇に指図して結婚を認めさせず
未婚のまま2年後に亡くなりました。
そして庶子筋のアントニオ。
国民が推した国王ですが、ハプスブルク家との争いに敗れて33日間で廃位され
フランスへ亡命して一生を終えました。
ここで王冠はハプスブルク=スペイン家に移ります。
一度は王座から遠ざけられたブラガンザ家の復活を期待しましょう。
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
ジョアン3世妃 カタリーナ・デ・アウストリア
1507~1578/在位 1525~1557
ジョアン3世の時代に、ポルトガルは日本にやって来ました。
先王マヌエル1世時代に、もともとイタリアが行っていたインド航路が復活し
イングランドの海賊も登場、交易は下降線を描いていました。
そこでジョアン3世はアジアに活路を見いだすことにします。
布教活動もその一環で、フランシスコ・ザビエルが派遣されました。
カタリーナは、カスティーリャ女王ファナの王女で
叔母のイングランド王ヘンリー8世妃キャサリンの名をもらいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/37/d3e1d1a9523d78201c84774bea20a270.jpg)
女王ファナがカスティーリャから出してもらえぬ間、他の兄弟たちは
オーストリアでマルグレーテ・フォン・ハプスブルクの保護下におかれましたが
ファナはカタリーナだけは手放しませんでした。
ファナはすでに狂気に陥り、父王フェルナンド2世によってトルデリシャスの城に
幽閉されていましたから、カタリーナも一緒に閉じ込められることになりますね。
ファナはボーっとしてるだけなんだし、たぶん陰気な雰囲気だったと思うの。
カタリーナは窓の外を見て過ごす他は何もやることがなかったそうです。
18歳の時、カタリーナは従兄のジョアン3世と結婚しました。
しかし、この時まだファナは生きていました。
どうやって引き離したんだろうか? ファナは大丈夫だったのかしら?
カタリーナは9人の子供を生みましたが成長したのは2人だけでした。
王女マリアは、スペイン王フェリペ2世に嫁ぎ
王太子ジョアン・マヌエルはスペイン王女ジョアナと結婚しました。
もうっ! ハプスブルク家の思うつぼ…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp30.gif)
1557年、ジョアン3世は心臓麻痺で亡くなりました。
ジョアン・マヌエルがジョアン3世より早く亡くなっていたため
孫のセバスチャンが3歳で王位を継ぎました。
この時、カタリーナは嫁のジョアナと摂政の座を巡ってもめたのですが
カール5世がとりなしてカタリーナを摂政に選びました。
5年間摂政を務め、エンリケ(後の1世)にその座を譲りました。
で、ここからハプスブルク家に王位が移るまでを駆け足で…
セバスチャンはとても好戦的な王で、自ら兵を率いてモロッコに遠征して
1578年に行方不明になりました。
フランスのマルゴ、神聖ローマ皇女エリザベート、スペイン王女イサベル・クララなど
いくつか縁談はありましたが、未婚で嫡子はいませんでした。
次に摂政をしていたマヌエル1世の王子エンリケが聖職から舞い戻って継ぎました。
結婚を急いだものの、ハプスブルク家が教皇に指図して結婚を認めさせず
未婚のまま2年後に亡くなりました。
そして庶子筋のアントニオ。
国民が推した国王ですが、ハプスブルク家との争いに敗れて33日間で廃位され
フランスへ亡命して一生を終えました。
ここで王冠はハプスブルク=スペイン家に移ります。
一度は王座から遠ざけられたブラガンザ家の復活を期待しましょう。
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)