まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝カール5世皇女 ヨハンナ

2011-04-21 01:32:11 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
息子の成長を肖像画で見つめ続けた母
カール5世皇女 ヨハンナ・フォン・シュパニエン
ポルトガル王太子ジョアン・マヌエル妃


1535~1573

マクシミリアン1世が亡くなった時、王子フィリップ(カスティーリャ王フェリペ1世)は
すでに亡くなっていましたので、孫のカール5世が即位することになりました。

ヨハンナ(ジョヴァンナ)はカール5世とイザベラ・フォン・ポルトゥガルの三女です。
長女マリアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇后になりました。
次女は生まれてすぐ亡くなっています。
異母姉(庶子)のマルガレーテはフィレンツェ公アレッサンドロ妃になりました。

カール5世はスペイン王カルロス1世でもありましたので
ヨハンナはスペイン王女としてマドリッドで生まれました。
        
ヨハンナは17歳の時、2歳年下のポルトガル王子ジョアン・マヌエルと結婚しました。
ジョアンは、母の兄ポルトガル王ジョアン3世と、父の妹カタリーナの王子なので
ダブルで従弟ってことになりますね。

ところが結婚から2年後、ジョアンが16歳で亡くなりました。
糖尿病説があるんですけど…若いのにそんなことってありますか?
いいものを食べ過ぎたってことでしょうか?

ジョアンの死から2週間後にヨハンナは王子セバスティアーノを生みました。
摂政になる可能性も大きいのでポルトガルに残っていてもよかったんですが
兄のフェリペ2世からマドリッドに呼び戻されます。

フェリペ2世はイングランド女王メアリー1世と結婚したばかりで
将来手に入るかもしれないイングランドに向かう必要があり
留守をヨハンナに任せたかったものと思われます。
ヨハンナはしっかりその期待に応えたそうです。

ヨハンナはその後ポルトガルへ戻らず、残して来た息子セバスティアーノに
会うことはありませんでした。
そのかわり、成長してゆく息子の肖像画を送らせていたそうです。
会いたいからとホイホイ会いに行けない王族の家庭事情…
なに不自由なそさうで、けっこう融通が利かない不自由さがありそうです。

ヨハンナは肖像画ではきつそうな顔をしていらっしゃいますけれども
聖クレア修道会の修道女たちのために、王宮内に修道院を設立しました。
現在はラス・デスカルサス・レアレス修道院として知られています。

ヨハンナが信徒になったことで、貴族の娘たちの間で
修道女への憧れが高まった時期があったそうです。
だって王宮内にあるんだもの、なにかいいことがありそうな予感…
すみません、不謹慎でした

また、イエズス会(男性オンリー)の設立にも興味を示していたらしく
1555年にはマテオ・サンチェスという名でこっそり入会したとまで言われています。
でも集会に出たらばれちゃうわね
『イケメンですね!』とか『コーヒープリンス1号店』みたいに隠し通せたのかしら?

             
            男装してもイケるかも…しかも美男子ですわね

38歳で亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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2 コメント

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Unknown (エリア55)
2011-04-22 20:14:02
綺麗な人ですね~
それに男装も似合ってて^m^
でも生まれたばかりの子供と一生離れて暮らさなくっちゃいけないなんて・・・
不幸・・・だと思うなぁ・・・
返信する
こんばんわ (まりっぺ)
2011-04-23 20:59:16
この肖像画はドレスを着てるんですけど、それでいてこの凛々しさ!
男装したら美男子になりそうですよね。
宝塚◯◯組トップ、みたいな感じですかね?

王侯貴族は庶民と違って子供と毎日顔を合わせることもなかったでしょうけど、肖像画を命じて送らせるほど子煩悩な人が我が子と離れて暮らすというのは辛かったでしょうね、きっと。
返信する

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