![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/45/9e9901dade6ea4c86d2e4afd07226644.jpg)
ぜっっったいに気が合わなかったと思ふ・・・
マルゲリータ・ダウストリア
1522~1586/在位 1533~1537
アレッサンドロは、11歳という幼さでフィレンツェの支配者になりましたが
実際は(実の父といわれる)教皇クレメンス7世に牛耳られていました。
クレメンス7世が皇帝と対立してローマが滅茶苦茶にされてしまったことで
フィレンツェでメディチ家批判が高まり一時追放されましたが
皇帝とも和睦し、その皇帝によって共和制も倒され、1531年に帰国しました。
すべてはクレメンス7世のおかげでございます。
そんなアレッサンドロの妃となったマルゲリータは、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で
大おばのマルグリット、叔母のハンガリー王妃マリアに育てられました。
マルグリットとマリアはネーデルラント総督になった女性です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/82/ecacfa5d33c47ca88ecaac310e28ee53.jpg)
マルゲリータは5歳でアレッサンドロと婚約し、11歳の時に父カール5世に認知されて
フィレンツェに嫁いで来ました。
アレッサンドロは専制君主になりたくて、厳しく市を統治していました。
当時フィレンツェではアレッサンドロを暴君として、カール5世に罷免を訴えていましたが
皇帝はこれを退けアレッサンドロを支持していました。
不人気な君主の方が好都合…と考えたのでしょうか?
カール5世は、パルマまでマルゲリータに同行して祝宴に加わりました。
しかし、アレッサンドロはもともと放蕩者で女関係も派手でした。
結婚後も同族のロレンツィーノと毎夜のように遊び歩き、美しい人妻を紹介するという
彼の誘いにのって出かけて暗殺されてしまいました。 おバカ…![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp30.gif)
知的と思われるマルゲリータとはたぶん気が合わなかったんじゃないかなぁ。
マルゲリータは翌年、16歳でパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと再婚しました。
これは、オッタヴィオの祖父教皇パウルス3世が、フィレンツェ公の未亡人との結婚で
ファルネーゼ家に公位をもたらそうと考えたためでした…ダメだったけど。
オッタヴィオは年下で、新婚生活はしっくりいかなかったみたいです。
おばたちの教育が良かったのか、マルゲリータの才覚の高さを認めたスペイン王フェリペ2世は
1559年、彼女をネーデルラント総督に任命しました。
しかし当時オランダではスペインの圧政に不満爆発で、ウィレム1世が自治を目指して奮闘中、
マルゲリータの任務はやさしいものではありませんでした。
1567年、マルゲリータは総督の座をアルバ公に引き継ぎイタリアに戻りました。
18年という長~い別居の後はオッタヴィオの良き妻として過ごしたもようです。
1578年には息子アレッサンドロがネーデルラント総督に就いて、彼女も嬉しがったそうです。
63歳で亡くなりました。
別居までして就いたネーデルラント総督の座はありがたいものだったのかしら?
マルゲリータの政治的失敗に関する記録もありますが
一番やっかいな時に総督になっちゃんたんじゃないでしょうか。
才覚を高く買われるのも善し悪しですな…
(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
マルゲリータ・ダウストリア
1522~1586/在位 1533~1537
アレッサンドロは、11歳という幼さでフィレンツェの支配者になりましたが
実際は(実の父といわれる)教皇クレメンス7世に牛耳られていました。
クレメンス7世が皇帝と対立してローマが滅茶苦茶にされてしまったことで
フィレンツェでメディチ家批判が高まり一時追放されましたが
皇帝とも和睦し、その皇帝によって共和制も倒され、1531年に帰国しました。
すべてはクレメンス7世のおかげでございます。
そんなアレッサンドロの妃となったマルゲリータは、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で
大おばのマルグリット、叔母のハンガリー王妃マリアに育てられました。
マルグリットとマリアはネーデルラント総督になった女性です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/82/ecacfa5d33c47ca88ecaac310e28ee53.jpg)
マルゲリータは5歳でアレッサンドロと婚約し、11歳の時に父カール5世に認知されて
フィレンツェに嫁いで来ました。
アレッサンドロは専制君主になりたくて、厳しく市を統治していました。
当時フィレンツェではアレッサンドロを暴君として、カール5世に罷免を訴えていましたが
皇帝はこれを退けアレッサンドロを支持していました。
不人気な君主の方が好都合…と考えたのでしょうか?
カール5世は、パルマまでマルゲリータに同行して祝宴に加わりました。
しかし、アレッサンドロはもともと放蕩者で女関係も派手でした。
結婚後も同族のロレンツィーノと毎夜のように遊び歩き、美しい人妻を紹介するという
彼の誘いにのって出かけて暗殺されてしまいました。 おバカ…
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知的と思われるマルゲリータとはたぶん気が合わなかったんじゃないかなぁ。
マルゲリータは翌年、16歳でパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと再婚しました。
これは、オッタヴィオの祖父教皇パウルス3世が、フィレンツェ公の未亡人との結婚で
ファルネーゼ家に公位をもたらそうと考えたためでした…ダメだったけど。
オッタヴィオは年下で、新婚生活はしっくりいかなかったみたいです。
おばたちの教育が良かったのか、マルゲリータの才覚の高さを認めたスペイン王フェリペ2世は
1559年、彼女をネーデルラント総督に任命しました。
しかし当時オランダではスペインの圧政に不満爆発で、ウィレム1世が自治を目指して奮闘中、
マルゲリータの任務はやさしいものではありませんでした。
1567年、マルゲリータは総督の座をアルバ公に引き継ぎイタリアに戻りました。
18年という長~い別居の後はオッタヴィオの良き妻として過ごしたもようです。
1578年には息子アレッサンドロがネーデルラント総督に就いて、彼女も嬉しがったそうです。
63歳で亡くなりました。
別居までして就いたネーデルラント総督の座はありがたいものだったのかしら?
マルゲリータの政治的失敗に関する記録もありますが
一番やっかいな時に総督になっちゃんたんじゃないでしょうか。
才覚を高く買われるのも善し悪しですな…
(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)