まりっぺのお気楽読書

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フィレンツェ公アレッサンドロ妃 マルゲリータ

2010-06-20 22:05:47 | イタリア王・公妃
ぜっっったいに気が合わなかったと思ふ・・・
マルゲリータ・ダウストリア


1522~1586/在位 1533~1537

アレッサンドロは、11歳という幼さでフィレンツェの支配者になりましたが
実際は(実の父といわれる)教皇クレメンス7世に牛耳られていました。

クレメンス7世が皇帝と対立してローマが滅茶苦茶にされてしまったことで
フィレンツェでメディチ家批判が高まり一時追放されましたが
皇帝とも和睦し、その皇帝によって共和制も倒され、1531年に帰国しました。
すべてはクレメンス7世のおかげでございます。

そんなアレッサンドロの妃となったマルゲリータは、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で
大おばのマルグリット、叔母のハンガリー王妃マリアに育てられました。
マルグリットとマリアはネーデルラント総督になった女性です。

        

マルゲリータは5歳でアレッサンドロと婚約し、11歳の時に父カール5世に認知されて
フィレンツェに嫁いで来ました。

アレッサンドロは専制君主になりたくて、厳しく市を統治していました。
当時フィレンツェではアレッサンドロを暴君として、カール5世に罷免を訴えていましたが
皇帝はこれを退けアレッサンドロを支持していました。
不人気な君主の方が好都合…と考えたのでしょうか?
カール5世は、パルマまでマルゲリータに同行して祝宴に加わりました。

しかし、アレッサンドロはもともと放蕩者で女関係も派手でした。
結婚後も同族のロレンツィーノと毎夜のように遊び歩き、美しい人妻を紹介するという
彼の誘いにのって出かけて暗殺されてしまいました。 おバカ…
知的と思われるマルゲリータとはたぶん気が合わなかったんじゃないかなぁ。

マルゲリータは翌年、16歳でパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと再婚しました。
これは、オッタヴィオの祖父教皇パウルス3世が、フィレンツェ公の未亡人との結婚で
ファルネーゼ家に公位をもたらそうと考えたためでした…ダメだったけど。
オッタヴィオは年下で、新婚生活はしっくりいかなかったみたいです。

おばたちの教育が良かったのか、マルゲリータの才覚の高さを認めたスペイン王フェリペ2世は
1559年、彼女をネーデルラント総督に任命しました。
しかし当時オランダではスペインの圧政に不満爆発で、ウィレム1世が自治を目指して奮闘中、
マルゲリータの任務はやさしいものではありませんでした。

1567年、マルゲリータは総督の座をアルバ公に引き継ぎイタリアに戻りました。
18年という長~い別居の後はオッタヴィオの良き妻として過ごしたもようです。

1578年には息子アレッサンドロがネーデルラント総督に就いて、彼女も嬉しがったそうです。
63歳で亡くなりました。

別居までして就いたネーデルラント総督の座はありがたいものだったのかしら?
マルゲリータの政治的失敗に関する記録もありますが
一番やっかいな時に総督になっちゃんたんじゃないでしょうか。
才覚を高く買われるのも善し悪しですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

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