まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ妃 エリーザベト

2010-01-27 01:59:56 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
なぜかダントツの人気を誇る
フランツ・ヨーゼフ妃 “ シシィ ” エリーザベト・アマーリエ
                      フォン・バイエルン


1837~1898/在位 1854~1898

出ました! いにしえの王侯貴婦人を語る上ではずせないシシィ。
この人気はいったいなんなんだ?
確かにお美しい! でもそれ以外に彼女が残したものっていったい何があるのかしら?

さらさらと彼女の生涯をご紹介しますね。

母のルドヴィカはバイエルン王女で、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹です。
皇帝の母后として宮廷で絶大な力を誇っていたゾフィーは
姪のヘレーネと息子フランツの縁談をまとめ、お見合いをすることになりました。

ところが、フランツは一緒に来ていた妹のエリーザベトに恋をしてしまったわけ。
このように初めて母親に反抗するような形でフランツが結婚したので
ゾフィーはエリーザベトが大っっキライになったと言われていますけどね…

     

1854年に結婚してウィーンにやって来たシシィは
宮廷の堅苦しい儀式やしきたりにうんざりします。
しかも姑ゾフィーの目がギラギラ光っていて気が休まりません。
生まれた子供は「教育のために」とすぐにゾフィーに取り上げられてしまいました。

シシィは「もう役目は果たしたし!」てな感じで宮廷から遠ざかるようになり
ひとりで過ごす時間が増えていきました。
1872年には宿敵ゾフィーが亡くなって、自分の天下になるというのに
やはり宮廷を避けて、次第に儀式やパーティーにも姿を見せなくなります。

              
               こちら、有名な見返り美人の図

シシィと言えば旅する皇后。
ウィーンにいたくないばかりに、まずはヨーロッパ各地を巡り始めます。
そしてひとり残されたフランツが可哀想…と自ら紹介したのがカタリーナ・シュラット
変わってるよねぇ…愛人紹介しちゃうなんて。 

シシィも何人かの男性と噂がありまして
一番有名なのは、ウィンストン・チャーチルの妻クレメンティーンの父と言われる
ジョージ・ミドルトンです。

それからシシィと言えばウエスト50㎝ が有名ですね。
とにかくほとんどの時間を美容と体型維持に費やしたという女性でして
太らないために、果物と野菜ジュース以外は口にしませんでした。
また、ブラッシングの時に髪が抜けると侍女をはり倒す!というぐらい
髪が自慢で大事にしたらしいですよ。      

              
              実物も美しいのでのせておきしょう

1889年、息子の皇太子ルードルフがマイヤーリンクで心中したことは
シシィに大きなダメージを与えました。
その後は襟元の詰まったドレス、白いパラソル、黒いヴェールが定番になりましたが
これは顔のしわを見せたくなかったから…ってな説もあります。あくまで噂ね。

その後はモロッコやエジプトへも足を伸ばして、相変わらず旅三昧の日々を送り
ウィーンにもどると、フランツと茶飲み友達のような穏やかな時間を過ごしました。

1898年、スイスのジュネーブを訪れ、付き添いの夫人と船着き場まで向かっていた時
要人暗殺を謀っていたイタリア人ルケーニィにいきなり刺されてしまいました。
彼は他の人物を狙っていたんだけど、表れなかったので変わりにシシィを刺したのです。

シシィは一度倒れたのですが立ち上がり、まわりの人々にお礼を言って
船まで歩いて行きました。
道々友人と言葉まで交わしています。
しかし船上で崩れ落ち、ホテルへ運ばれましたが息を引き取りました。

シシィの望みは海に葬ってほしいということでしたが
もちろん叶わずカプツィーナ教会に葬られました。

でもね、ウィーン市民はあんまり悲しまなかったんだって。
だってほとんどいなかったし、教会とか病院とか学校を建てたりとか
何か市民のためにしてくれたっていうわけじゃないからね。

それが今では他を圧倒する人気者。
きっとオーストリアの観光産業やみやげ物業界の一翼も担っているのでしょうから
それはそれで国のためになった皇后様と言えますね。

(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』
      江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

エリザベート (上) 美しき皇妃の伝説 朝日新聞社


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オーストリア皇帝フェルディナント1世妃 マリア・アンナ

2010-01-25 01:40:18 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
愚かな皇帝の幸福な妃
フェルディナント1世妃 マリア・アンナ・フォン・サヴォイエン


1803~1884/在位 1835~1848

弱々しかったフランツ1世の後を継いだのは
さらに弱々しい、というか虚弱で意志薄弱なフェルディナント1世でした。
オーストリアは引き続きメッテルニヒの思い通りの国政を行うことになります。

フェルディナントは即位の4年前に、また従妹にあたるマリア・アンナと結婚しました。

       

ところが廷臣の誰もが見放したという無能のフェルディナントを
マリアはぞっこん愛したらしいのね
そしてフェルディナントもマリアに夢中だったらしいよ。
ふたりはべったりだったそうでございます。
でもお子はできませんでした。

そうこうしているうちにメッテルニヒがすすめていた保守的な政治に
帝国内の不満は高まり、ついに1848年に3月革命がおこります。
メッテルニヒは失脚してロンドンへ亡命し
お飾りにしかすぎなかったフェルディナントは退位することになります。

フェルディナントの後は甥のフランツ・ヨーゼフが継ぐことになりました。
もと皇帝夫妻は宮廷からは退きましたが、皇帝と同様の高位と待遇は与えられていたので
冬はプラハ、夏はライヒシュタットと、第二の人生をエンジョイ!(したと思う)
だって、何も考えなくていいんですもの。
子供のように無邪気なふたりには楽しかったと思うよ。

フェルディナントは1875年に亡くなり、マリア・アンナは9年後に亡くなりました。
先にカプツィーナで眠っていた夫の側に葬られたということです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 カロリーネ

2010-01-23 11:44:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
なぜにフランツ1世を選んだか?
フランツ1世妃 カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン


1792~1873/在位 1816~1835

フランツ1世ったら、3人目の妃マリア・ルドヴィカが亡くなってから
なんと7ヶ月で4人目の妃をもらっちゃいました。
24歳年下の美しいカロリーネ・アウグステです。

カロリーネは、フランツの弟トスカーナ大公フェルディナント3世にも
プロポーズされたのですが、フランツを選びました。

なぜにかしら?
Wikipediaでフェルディナントを見てみると精悍そうなお顔立ちよ。
弱々しくてメッテルニヒの言いなりのフランツよりいいんじゃないの?
やはり皇帝の肩書きが強かったのかしら?

カロリーネも2度目の結婚でした。
最初の相手はヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世で
フランツ1世の最初の妃エリーザベト・ヴェルヘルミーネの甥っ子でございます。

    
カロリーネとヴィルヘルム1世はナポレオンに命じられて1808年に結婚しましたが
ふたりは最初から「自分たちは政治の犠牲者だ」って思いに取り憑かれて宮廷内で別居し
1814年にナポレオンが失墜するやいなや離婚しました。

この時代、政治に利用されない結婚をする王侯貴族の方が珍しいとは思うのですけれども
ナポレオンに仕組まれたってところが癪にさわったのかしらね。

オーストリア皇帝と言っても当時国は財政難で結婚式は簡素なものでした。
フランツも4回めだからさぁ… どうでもよかったでしょうね、式なんて。

カロリーネは “ エレガントで敬虔で知的だが、何はさておき美しい ” と言われて
たいした人気者になったそうです。
病院や貧民宿泊所を建てたりと、慈善活動に熱心だったのも人気の理由かもしれません。

1835年にフランツ1世が亡くなるとザルツブルクへと移り
38年後に亡くなりました。

これから登場する人気者シシィは、義理の母ゾフィーとの確執が伝えられていますが
カロリーネはどちらとも親友としてつき合っていたそうなので
時にはふたりの仲を取持ってあげたかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ

2010-01-19 02:05:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
打倒ナポレオン!に燃えた皇后
フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ


1787~1816/在位 1808~1816

政治的にはぼやぼやしているフランツ1世ですが、次の嫁を決めるのは早いぜ!ってわけで
前妃マリア・テレジアの死から9ヶ月後の1808年1月に
従妹にあたるマリア・ルドヴィカと再婚いたしました。

         

マリアは1796年にナポレオン軍の侵攻により、モデナからウィーンに亡命して来ました。
その時にフランツはマリアに恋しちゃったんですって!
マリアは9歳、まったくもって子供じゃないかね?
フランツは28歳、しかも妻子持ちだったりする。

恋心を抱いて12年、マリア・テレジアの死を望んでいたわけではないでしょうが
待ってましたとばかりに結婚しちゃったわけですね。

故国を奪われたマリアはナポレオンへの敵意をむき出しにしていました。
フランスは、反ナポレオン戦争を指示するマリアとフランツの結婚を
認めようとはしませんでした。

また、マリアはフランツの信頼篤い宰相メッテルニヒともぶつかるようになります。
メッテルニヒはナポレオンとフランツ1世皇女マリア・ルイーゼとの縁談をすすめていました。

各国の王室がナポレオンを忌み嫌っていたであろうこの次期
王族の筆頭ともいえるハプスブルク家の皇女が嫁ぐなんて~!!
と驚いた王家も多かったはず。
ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンからの妹アンナへの求婚を断りましたが
フランツ1世は、断って戦争を仕掛けられてもなぁ…と弱気になり
この縁談を受けてしまいました。
側で見ていたマリア・ルドヴィカは絶対に止めたはず!

結局マリア・ルイーゼは嫁いでしまい
1812年にはナポレオンを賞賛するドイツ貴族の集いにもいやいや出席させられて…
弱虫の夫に愛想をつかすことはなかったのかしらね?

1815年、そんなマリアに喜ばしい瞬間が訪れます。
ナポレオンが倒れた後のヨーロッパのあり方を決めるウィーン会議で
マリアは女主人をつとめることになりました。
彼女にしてみたら、大国が集う一大イベントのホステスの晴れがましさよりも
ナポレオンに勝ったということの方が嬉しかったんじゃないかしら?

その後マリアは、ナポレオン軍が撤退した後の故郷を見るためにイタリアを旅します。
しかし結婚した当時から患っていたと言われる結核が悪化して
1816年に亡くなりました。

短い間ではあったけど、ナポレオンへの恨みも晴れて、懐かしい故郷も目にして
幸せな最期だったのではないでしょうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 マリア・テレジア

2010-01-17 01:21:23 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
遊び好きでも良き伴侶かも…
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジィツィーリエン


1772~1807/在位 (神聖ローマ皇后)1792~1806
          (オーストリア皇后)1806~1807

マリア・テレジアの母マリア・カロリーネは皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの皇女で
しかも、フランツの父レオポルト2世妃マリア・ルイーゼの姪なので
ダブルでいとこにあたります。
名前もおばあちゃまからとったものでしょうね。

          
前妃エリーザベトの死から7ヶ月後、フランツとマリアは結婚しました。
マリアは官能的な容姿をしていたと言われています。
グラマラスだったってことかしら? 肖像画だとちょっと分からないのですが
ともあれ、12人のお子さんが生まれました。

マリアはかなり怠惰な性格で、仮面舞踏会やお祭り大好きな女性でした。
なんでも舞踏会には妊娠中にも欠かさず参加したってことで…
当時はぶぁかもん!な振る舞いに見えたかもしれないけど、適度な運動は大切よね ?

それから音楽界にとっては絶大なパトロンで、公私にわたって援助を惜しみませんでした。
ハイドンは彼女のリクエストで聖歌を書いています。

しかし遊んでばかりいたわけじゃあありません。
政治にも興味があって、ナポレオン批判を繰り返し夫に聞かせていました。

お気づきですか?
タイトルが前回から、神聖ローマ皇帝ではなくてオーストリア皇帝になっているんです。
神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位したはずなんですけどね…

フランツという方は、ちょっと政治には不向きな方だったみたいで
戦いが嫌いな、良く言えば平和的、悪く言っちゃえば弱々しい考えの人でした。
だから、ナポレオんがフランス皇帝を名のって、“ 神聖ローマ皇帝 ” なんて生意気な!と
戦いを挑んで来た時「じゃ、撲は降りるんでね」と、さっさと退位しちゃったのね。

そんなフランツに「あーた、フランスと戦争しなさいよ!」とけしかけていたのが
マリアだったわけですが、果たしてどちらの判断が正しかったのかは
今となってはわかりませんね。

遊び好きでかかあ天下みたいにも見えるマリアですが
皇帝との仲はよろしかったみたいです。
優柔不断な夫には、ビシっと言ってくれる妻がいなきゃね!
どっかの首相夫婦みた~い

夫の退位に気落ちしたのかどうかは分かりませんが、オーストリア皇后になった翌年
35歳の若さで亡くなりました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世妃 エリーザベト

2010-01-14 02:14:24 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
本当にいたんだ、 気絶する淑女
フランツ1世妃 エリーザベト・ヴィルヘルミーネ
                フォン・ヴュルテンブルク


1767~1790/在位せず

エリーザベトはヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲンの娘で
姉にロシア皇帝パーヴェル妃マリーヤ・フョードロブナがいます。
そういう繋がりもあってか、ドイツの名家に手を伸ばしつつあったロマノフ家は
ハプスブルク家との婚姻が可能になったのかもしれないですね。

       
エリーザベトは15歳の時神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世にウィーンに呼ばれ
カトリック教徒に改宗させられました。
これは、ヨーゼフ2世が、彼女を甥のフランツと結婚させようと思っていたからです。
エリーザベトはこの時にモーツァルトから音楽の教育も受けています。

1788年にフランツと結婚しました。
エリーザベトは若々しく華やかで、気難しい義理の伯父ヨーゼフ2世も
彼女がお気に入りだったようです。
けれども、そのヨーゼフ2世がエリーザベトの命取りに?

1790年2月、体調が悪化したヨーゼフ2世は死に先立って終油の儀式を行いました。
妊娠中のエリーザベトも立ち会っていたのですが、その荘厳な雰囲気に圧倒されて気絶し
そのまま危険な状態に陥ります。
そしてヨーゼフ2世が亡くなる3日前に女の子を生むと、翌日亡くなりました。

私は毎年初詣に行く川崎大師のエキサイティングな護摩焚きを見ていて
軽いトランス状態になったことはあるんだけど、気絶するとは…
やはり小説や映画で描かれている通り、昔の淑女は気絶しやすかったのかしらね?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世妃 マリア・ルドヴィカ

2010-01-13 01:41:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
顔じゃないのよ、皇后は
レオポルト2世妃 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパニエン


1745~1792/在位 1790~1792

マリア・ルドヴィカが生まれた時、父のスペイン王カルロス3世は即位前でしたが
ナポリ・シチリア王だったのでイタリアのポルティチで生まれました。

         
レオポルトとマリアの縁談は女帝マリア・テレジアによって着々と進められました。
兄のヨーゼフ2世とは違って、陽気で女性にも大人気のレオポルトは
その当時はハンガリー貴族の娘エルデディと恋愛中でしたが
そんなわがままは女帝に通用しませんぜ。
というわけで、レオポルトとマリアは1765年に結婚しました。

メディチ家の断絶によってトスカーナ大公になったレオポルトとマリアは
結婚後フィレンツェで暮らすことになります。

なんでもマリアは見栄えがあまり良くなかったそうです。
兄ヨーゼフ2世の美貌の妻マリア・イザベラと比べられて
レオポルトは周囲の人に気の毒がられたんですって。
失礼しちゃうわね! 人を顔で判断するんじゃない

私もできるだけ美しく見える肖像画を探したつもりではあるのですが…
なんていうの? どれもこれも顔が長いのね…
でも、実物は愛嬌があるチャーミングな人だったそうですよ。

けれどマリアは大当たりなお嫁さんでございました。
なんといっても子だくさん! 16人生まれています。
「戦争は他にまかせておけ。オーストリアよ、汝は結婚せよ」を実現するには
たくさんのお子さんが必要ですものね。

ヨーゼフ2世に跡継ぎができず悩んでいた女帝は
レオポルトに皇子が生まれた時よっぽど嬉しかったらしくて
宮殿の隣のブルク劇場に駆け込み「ポルドルに男の子が生まれたのよ!」と
叫んだそうです…悲劇上演中だったそうですけどね さすが女帝

1790年、兄ヨーゼフ2世が後継ぎ無しに亡くなったため
レオポルト一家は皇帝に即位してフィレンツェからウィーンに移ることになりました。

当時レオポルトにはリヴィア・ライモンディという愛人がいて
彼女との間に子供もいました。
なんと! レオポルトはリヴィアたちもウィーンに連れて行きます。
ブルボン家ならいざ知らず、ハプスブルク家にとってはセンセーション。

レオポルトはもともと女性に人気があった人ですから
多少は女性問題もあったと思いますが、マリアはじっと耐えていたようです。
あまり浮気をされても困るけど、全然モテないのも情けないし…
なんたって皇帝だもの、少しぐらいは仕方ないか?

それでもふたりの結婚生活はとても円満だったと言われています。
名君の素質があったと言われているレオポルト2世は、良き夫でもあったのでしょうね。

皇帝になって2年後の1792年、レオポルトが45歳の若さで亡くなります。
マリアも3ヶ月後に後を追うように亡くなりました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・ヨーゼファ

2010-01-11 23:19:47 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女性として可哀想すぎる
ヨーゼフ2世妃 マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン


1739~1767/在位 1765~1767

愛妻マリア・イザベラを亡くしたヨーゼフは「人生は終わった」と言って
再婚したがらなかったのですが、母君マリア・テレジアが許すわけないじゃんか!
てなわけで、亡き妻の妹マリア・ルイサにしつこく求婚しました。
でも彼女はすでにスペイン王太子カルロスとの結婚が決まっていてNG。
ハプスブルク家には、かえって良かったんじゃないですかね

そこでまたいとこにあたるマリア・ヨーゼファと結婚することになりました。
マリアの父カール・アルブレヒトは、女帝の夫フランツ1世が皇帝になる前に
一瞬ハプスブルク家から皇帝位をもぎとってカール7世として即位した人です。
ヴィッテルスバハ家は、夢再び!と考えていたかもしれませんね。

めぼしい花嫁候補は、みんな結婚したり婚約してた…という説もありますが。

結婚するとすぐにフランツ1世が亡くなり、ヨーゼフは神聖ローマ皇帝に即位します。
実権は女帝が握っていたわけですけれど。

        
この結婚、お察しのとおり大変不幸なものでした。

ヨーゼフはまったくマリアに興味を示さないばかりか
「ちびだし、でぶだし、歯並び悪いし…」と、なんと本人に書き送ったらしいですよ
口で言われるならまだしも、手紙だよ!! 書き記して届ける… 根性悪い。

マリアは女帝から「早く世継ぎを!」とプレッシャーをかけられていましたが
ヨーゼフがマリアと同じ部屋で寝るのを断っていたものですから
さっぱりその兆しはありませんでした。

さらに、ヨーゼフはマリアに会うのも拒んでいて
お互いの部屋が繋がっているバルコニーを分けてしまおうとしたほど…
シェーンブルン宮殿ですよ! バルコニーぶった切るってどうよ?

結婚から2年後、マリア・ヨーゼファも前妻マリア・イザベラ同様天然痘で亡くなります。
ヨーゼフは一度も見舞いに行かなかったし、葬儀にも参列しませんでした。

ヨーゼフはその後再婚していません。
しなくていいさ! 相手が可哀想だからね。

1778年、ヨーゼフはバイエルン選帝侯マクシミリアン3世が子供を遺さなかったことから
バイエルン領に対して権利を主張します。
理由は、妃マリア・ヨーゼファがマクシミリアン3世の妹でバイエルン公女だから。
生きている時には妻として見なかったくせに、なにさ !

いかんね、書けば書くほど怒ってきちゃいますね。

結局ヨーゼフの申し立てはバイエルン継承戦争に発展しましたが
ハプスブルク家はイン川流域をちょっぴり手に入れただけでした。

マリア・ヨーゼファはヨーゼフより(2歳だけど)年上で
女性らしさやさしさに欠けていたとも言いますが
こんな仕打ちを受けたらやさしい気持ちなんか持てないですよね?

よしんば性格があまり良くなかったとしたって、酷い扱いだと思いません?
女性にやさしくしてほしかったら、同じようにやさしくしなさいよって思っちゃうわ!

趣味とか仕事とか、他に打ち込めるものがあったら
もう少し状況も違っていただろうに…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家  講談社


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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ

2010-01-10 01:44:23 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ハプスブルク家に愛された皇太子妃
ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ


1741~1763/在位せず

マリア・イザベラは、スペインのマドリッドで生まれて
祖父のスペイン王フェリペ5世の宮殿で育ちました。

1748年に父フェリーペがパルマ公フィリッポになりまして家族とともに移り住みましたが
イタリアでもスペイン王女然とした風格と気品を保って過ごしたそうです。

ちなみにパルマ公位はもともとファルネーゼ家のものでしたが
なんだかハプスブルク家とブルボン家に取ったり取られたりしてしまっていたのね。
マリアの祖母イサベル・マリアもファルネーゼ家出身です。

母のルイサ・イザベラはフランスのルイ15世王女でした。
彼女はなぜか、二人目の公女が生まれると姉のマリアに冷淡になっていきます。
ちなみに妹とは、あの悪名高いスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサでございます。

        

そんなあまり良くない関係の母娘でしたが、ルイサが1759年に亡くなると
マリアは沈みがちになって、自分の早世も予感していたと言われています。
でも、思春期には死を美化する傾向があるからね…誰でも一度は通る道かもね。
マリアは哲学者や理論家の本を好んで読んでいたというから、尚更かもしれませんね。

母ルイサは女帝マリア・テレジアと親交があって、オランダの王位を約束されました。
この話しは具体化しませんでしたが、そんな中で持ち上がった皇太子ヨーゼフと
マリアの縁談は、ヨーゼフの熱望で実現しました。

ヨーゼフには他にも候補者がいたのですが、自らマリアを選びました。
これはハプスブルク家ではかなり異例なことでした。

だもんで、1760年に結婚するとふたりはちょーラブラブ
仲睦まじく、美男美女のふたりには誰もが目を細めたそうですよ。

           
            こんな絵が残っちゃうほど仲睦まじかったおふたり

美しくて知的で、誰もがうっとりしてしまうマリアはすぐに宮廷の人気者になり
皇帝フランツ1世をはじめ、ヨーゼフの家族にも気にいられました。
義妹マリア・クリスティーナとは毎日会ったり文通するほどの大親友でした。
(…って同じ宮殿に住んでいたのじゃないのかね?)
1762年には初めての子供(皇女)が生まれて、もう万々歳!

でも、幸せって長く続かないものなのね…
1763年、妊娠したマリアは天然痘にかかり、子供を死産した後亡くなってしまいます。
もう、ヨーゼフの嘆きは大変!
もともと冷笑的で皮肉屋のヨーゼフは、人生が終わってしまったと言って
さらにネガティブに…

愛していたことはよぉく分かる、でもね…
今までにもこの、熱愛した妃の早世 → 2番目の妃が可哀想な目に遭う、というパターンは
数々ありましたが、次の奥さん、ハンパなく可哀想なんですけど…

ところで、ヨーゼフの妹マリア・アマーリエは、後にマリアの弟フェルディナンドと
結婚しましたが、こちらはあまり幸福ではなかった模様…詳しくは別の機会に。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
      Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世妃 マリア・テレジア

2009-12-26 00:58:46 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ご存知!女帝
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ


1717~1780/在位 (皇后)1745~1765
          (ハンガリー女王・ベーメン女王)1740~1780

マリア・テレジアはよく “ 女帝 ” と言われますけれども
正式には女帝じゃないと思うんですよねぇ…

神聖ローマ皇帝になったのは夫のフランツ1世で、マリア・テレジアは皇后です。
ベーメンとハンガリーでは君主になりましたが女王です。

ハプスブルク帝国における支配者という意味でしょうけど
正式な国家の名称じゃないんじゃないかしら? いかがでしょう?

      

マリア・テレジアといえば、教育改革や軍部の強化など
偉大なる政治家としてみるべきことは多々ありますけれども、それはおいといて…

なんといっても、スペインのイサベル1世同様、恋愛結婚が有名です。

ハプスブルク家の跡取り娘ともなれば、しかも肖像画どおりの美しさなら
結婚の申し込みが殺到するのはあたりまえですよね。

              
            ハプスブルク展にもきていたマリア・テレジア像
  
しかし彼女は、幼い時にフランツ・シュテファンに会ってから彼一筋   
本当なら大国の王様クラスと結婚させられて当たり前だったのでしょうが  
フランツがマリア・テレジアの父カール6世に気に入られたことで
恋を成就することができたみたいです。 よかったね
しかし、この結婚でフランツはロートリンゲンをフランスに渡すことになりました。

ちなみに、生涯の宿敵となるプロイセンのフリードリヒ(後の2世)も
お婿さん候補にあがっていました。

マリア・テレジアの父、皇帝カール6世には男の子がいなかったので
娘が王位が継げるように、多大な努力と犠牲を払って長子相続の制度をつくり
マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンへの皇位継承を図っていました。
ヨーロッパ各国も承認してくれたのに…

いざカール6世が亡くなると、各国の王がオーストリアの王位を要求しはじめます。
はしょるけど、プロイセンの大王フリードリヒ2世はシュレージェンに侵攻して領土を奪い
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはベーメン王と神聖ローマ皇帝の座につきました。
上の家系図からもわかるとおり、ヨーゼフ1世皇女を嫁にしているのでね…

オーストリア継承戦争、七年戦争と続く、マリア・テレジアの長い戦いの始まりでした。
ベーメン王と神聖ローマ皇帝の座はとりもどせましたが
シュレージェンは戻りませんでした。
それでも大王と呼ばれるフリードリヒ2世を相手に戦い抜いたのはスゴいですよね!

そして驚きの16人出産 戦争しながらですよ!
さぞお忙しい毎日だったろうと、お察し申し上げます。

有名どころは言うまでもなく、ルイ16世妃マリー・アントワネットですね。
その他の公女は尼僧、パルマ公妃、ナポリ公妃、ハンガリー総督妃になっています。
フランツ1世は、メディチ家の断絶によってトスカーナ大公にもなっていたので
イタリア方面への勢力拡大をねらっていたのかしら?

あまり政治向きではなく、国家のことは妻に任せて
財政や農場経営、美術品奨励に力を発揮したという、模範的な “ 女帝の夫 ” フランツ1世は
1765年、劇場で倒れて急死します。
以後15年間、マリア・テレジアは喪服で通したそうでございます。

良妻賢母と国家君主、両方を立派にこなすのはかなり難しいと思われます。
本当だとしたらすごいですよね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』)
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神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世妃 ヴィルヘルミーネ

2009-12-19 02:32:16 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
夫が早世なので・・・
ヨーゼフ1世妃 ヴィルヘルミーネ・アマーリエ
          フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク


1673~1742/在位 1705~1711

ヨーゼフ1世は、レオポルト1世の後を継いでからたったの6年で
天然痘で亡くなったのね。

ヴィルヘルミーネは30年ほど長生きしてますがほとんどエピソードがございませんの。

娘のマリア・アマーリエが嫁いだカール・アルブレヒトが、後々カール7世に即位して
神聖ローマ皇帝位が、一瞬ですけど、ハプスブルク家から
ヴィッテルスバハ=バイエルン家に移ったことがあります。

        





               
女帝マリア・テレジアの母君
カール6世妃 エリーザベト・クリスティーネ
        フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル


1691~1750/在位 1711~1740

とにかく美しかったらしい…
13歳の時に皇帝ヨーゼフ1世の弟カール(後の6世)と婚約していますが
これは野心家の祖父ヴォルフェンビュッテル公と
ヨーゼフ1世妃ヴィルヘルミーネが根回しをしてまとめたそうです。
あわよくば皇帝の座をハプスブルク家からブラウンシュヴァイク家へ!ってことかしら?

         

ただこの結婚には障害が… エリーザベトはプロテスタントだったのです。
エリーザベトが素直に改宗してまるくおさまりましたけど。

1708年にカールとエリーザベトが結婚した時
カールはブルボン家とスペイン王の座をかけて戦いの真っ最中でした。
ちなみに… カールの義理の姉マリア・アントニアが嫁いだヴィッテルスバハ=バイエルン家は
この時ブルボン家側についてたのよ~ 。
思惑が入り乱れている感じがしますね。

エリーザベトはスペインで結婚し、スペイン継承戦争を夫とともに戦いました。

1711年、兄のヨーゼフ1世が亡くなったため、カールが皇帝に指名されます。
カールはものすごくスペイン王位に未練があったらしいのですがやむを得ません。

せめてバルセロナだけでも守る! というわけでしょうか?
エリーザベトを残してひとりでウィーンに出発しました。
1713年にカールが王権を放棄するまで、エリーザベトは行政官として残り守り抜きました。

カール6世は、スペイン王位は手放しましたが
ベルギーやナポリ、ミラノなどを手に入れ、領土を広げた名君です。

子供の中で成人したのはふたりの皇女で
姉が、あの、女帝マリア・テレジアでございます。

マリア・テレジアは難しい政局にあって果敢に国政を行った女王です。
もしかしたらお父様、お母様のいいところを併せ持つ
まさに、君主たる性格の持ち主だったのかもしれませんね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世妃 エレオノーレ

2009-12-17 01:25:53 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
宮廷を修道院にしてしまった皇后
レオポルト1世妃 エレオノーレ・マグダレーナ・フォン・プファルツ


1655~1720/在位 1676~1705

エレオノーレの生家ヴィッテルスバハ家は名家で、しかもプファルツ選帝侯家です。
妹のマリア・ゾフィアはポルトガル王ペドロ2世に、
マリア・アンナはスペイン王カルロス2世に、それぞれ嫁いでいます。

       

レオポルト1世が二人目の妃クラウディアと再婚した1673年には
エレオノーレも再婚相手の最有力候補に挙がっていました。
なぜなら彼女の家系は多産でしたし、関係を強化したい家柄ですからね。

そんなわけでクラウディアが亡くなるとさっさと縁談が持ち込まれました。
エレオノーレはたいして乗り気ではなさそうでしたが承諾しました。

実は彼女、超ド級のカトリック信者で、ずっと修道女になりたいと思っていました。
だから両親大喜び!!
(でも中世の王侯子女には、修道院長になる人が少なくないですよね。
 けっこう権力があって贅沢ができたらしいのです)
気が変わらないうちに…かどうかは知りませんが、その年のうちに結婚しました。

エレオノーレはすぐに家政に腕を振るい始めます。
夫の旅には同行し、子供たちは自らの手で育て、そして宮廷内では節約に努めます。
彼女の信仰心は、どちらかというと苦行の傾向があったみたいで
しばしば黒ずくめの装いになったりしていました。

清貧、簡素をモットーとする厳格なカトリシズムは宮廷内を支配し始め
「なんだか、ずっと喪が明けないみたいじゃなくて?」なんて言い出す人も…
だって、それまできらびやかに生きてきたんですものね?
ほんの8年前には最初の妃マルガリータの盛大な誕生祝いがあったというのに…

エレオノーレは政治的にもレオポルト1世に影響力を持ちます。
例えば…彼女が重要な政治書類を受け取って開く様を
レオポルトは側で立って見守っていたりして、まるで秘書のようだったそう。
政治的判断力がにぶい皇帝に我が道を行く皇后… お似合いなのかもしれませんが
国にとっては良かったのやら悪かったのやら。

1705年にレオポルトが亡くなります。
後を継いだヨーゼフ1世が1711年に亡くなると、弟のカール6世が皇帝になるまで
エレオノーレは摂政になりました。
新皇帝を決める会議では女主人を務め、カール6世の選出に貢献しています。
会議、まだやってたの? とも言えますけど…

カールがスペインから帰国すると摂政から退き、宮廷からも身を引いて
慈善と信仰の日々を送り1720年に亡くなりました。

良妻とはどんな妻のことを言うのでしょうね?
例えば、マルガリータは、日々の苦労が多い皇帝を癒し、喜びを与えて
ねぎらうことができたという意味で良妻かもしれません。
でも政治的には何もフォローしていませんね?

エレオノーレは、もしかしたらレオポルトには怖い妻だったかもしれません。
気が休まるなんてことはなかったかもしれないですよね?
しかし皇帝とともに戦い、肩の荷を分け合おうという姿勢は良き妻にも思えます。
しかも、ハプスブルク家待望の跡継ぎを含む11人の子供を産んでいらっしゃる。

うーん… 難しいですよね。
やはり相手と状況次第、ということになるのでしょうか?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世妃 クラウディア

2009-12-15 02:03:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
早すぎた再婚の相手
レオポルト1世妃 クラウディア・フェリチータス
               フォン・エスターライヒ=ティロル


1653~1676/在位 1673~1676

愛妻マルガリータを亡くしたレオポルト1世は、悲しみにうちひしがれていて
再婚どころではなかったのですが、後継者は必要だしスペインのこともある、
というわけで、宮廷中の期待を背負って再婚相手探しに乗り出し
6ヶ月後に義理の従妹にあたるクラウディアとの結婚が決まります。

     

たぶん親戚だからマルガリータのことも
レオポルトが彼女を熱愛していたことも知っていたと思うのよね。

でも20歳の若さで魅力もあるクラウディアは「きっと自分を好きになる」と思って
嫁いできたと思うのよ。
若さを過信するってことはよくあることです。

それに “ 神聖ローマ皇后 ” の称号には虚栄心をくすぐられますよね。
クラウディアはその年のうちにウィーンへ嫁いできました。

しかしレオポルトは相変わらず「彼女は愛しいマルガリータではない」と
嘆き悲しんでばかり。
そんなこと言われたってさぁ…

レオポルト1世という人は優柔不断で意志薄弱な皇帝だったそうで
政治的にも断固とした態度がとれずハプスブルク家を窮地に陥れたみたいですが
再婚についても人に言われるまま早まってしまったのではないでしょうか?
もう少し悲しみが薄らいでからでも良かったと思うんですけどね。

クラウディアは女の子をふたり生みましたが夭逝し
彼女自身も2年後に22歳の若さで亡くなりました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト1世妃 マルガリータ

2009-12-10 01:18:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
皇帝を “おじさん” と呼んでいた皇后
レオポルト1世妃 マルガリータ・テレジア・フォン・シュパニエン


1651~1673/在位 1666~1673

ベラスケスの肖像画で有名なマルガリータ王女は
陶器のような肌、青い瞳、ブロンドヘアのとても美しい少女で
フェリペ4世の一番のお気に入りの子供でした。

15歳の時に叔父のレオポルト1世と結婚することになりました。
フェリペ4世も姪にあたるフェルディナント3世の皇女マリア・アンナ
王妃に迎えていました。
ここらへんの血族結婚は激しさを増してきますね。

         
なぜかというにスペインの王位継承が危険な状態にあったからです。
マルガリータが嫁いだ時、生き残っていたフェリペ4世の子供は
彼女以外には虚弱な王子カルロス(2世)とルイ14世妃マリー・テレーズだけでした。

もしカルロスに跡継ぎができなければ、ブルボン家が黙っちゃいません。
だってマリー・テレーズの子がいるからね!
30年戦争で領地を失ったハプスブルク家はなんとしてもスペインを守らねばならず
レオポルトとマルガリータの子供のスペイン継承権が条約に明記されました。
(でも結局ブルボン家に移っちゃうんだけどね…

               
                 国立新美術館にもきていました
                  ベラスケスによる幼き日のマルガリータ王女


ふたりには11歳の年の差があったのですけれど、ものすごく気が合ったらしく
観劇や音楽などを一緒に楽しんでとても幸せな夫婦でした。

レオポルト1世は、なんと言いますか… 気は優しくて穏やかな人で
旦那様にはもってこいだが、戦乱期の皇帝にはふさわしくなかったようです。
だから幼いマルガリータとの日々は、彼にとって至福の時だったんじゃないでしょうか。

マルガリータはレオポルト1世を “ 皇帝 ” とか “ 陛下 ” と呼ばずに “ おじさん ” と
呼んでいたらしいよ
叔父だから間違いではないが、ニュアンスとしては(勝手に想像すると)
「おじさまぁ~ 」って感じかしら?

マルガリータの17歳の誕生日にはイタリアから作曲家を招いてオペラを催し
盛大にお祝いしました。
このオペラは17世紀のウィーンにおける最高傑作だと言われています。

そんなラブラブのふたりに悲劇が…

マルガリータは7人目の子供を流産した後21歳で亡くなってしまいました。
やはり、あまり早くから出産するのはどうかと思うよ…
いくら愛しているからって…女性のからだもいたわってほしい。

レオポルト1世の悲しみは尋常じゃなかったそうでございます。
悲しむぐらいなら少し考えて子づくりをしたらどうだったのかね?

結局子供たちも夭逝し、スペイン王位を継ぐ男の子はいませんでした。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家 講談社


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神聖ローマ皇帝フェルディナント3世妃 エレオノーラ

2009-12-08 01:34:17 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
芸術・商工の母
フェルディナント3世妃 エレオノーラ・マグダレーナ
                  ゴンザーガ=ヌヴェール


1630~1686/在位 1651~1657

30年戦争で、ロレーヌ、スイス、オランダなど多くの領地の主権を失ったハプスブルク家は
イタリア獲得に本腰を入れ始めたんでしょうかしら?
ゴンザーガ家再登場です。
ちなみに、この頃はメディチ家との婚姻も増えているような気がします。
(そういえば二人目の妃マリア・レオポルディーネの母クラウディアもメディチ家)

         

フェルディナント3世とエレオノーラは1651年に結婚しました。
エレオノーラは21歳、フェルディナントは43歳ね。

ハプスブルク家も芸術には力を入れていたもののイタリアにはかないませんがな!
エレオノーラはウィーンの芸術と商工を保護し、発展させた皇后と言われています。

自らも詩を書いていたエレオノーラは、学術の発展にも努め学芸大学も設立しました。
彼女もまた、かなり厳格なカトリック信者でしたが
文学においてはカトリックとプロテスタントの作家を差別することなく保護したそうです。
こういう姿勢、君主や指導的立場の宗教家にも見習ってほしいですね。
そうすれば過去の戦争の大半は起こっていなかったかもしれないのに…

1657年にフェルディナントが亡くなり未亡人になった後も
エレオノーラは宮廷では舞踏会や祭典を仕切る人物として重要な役割を果たし
芸術面ではパトロンとして活動を続けました。
また、修道院もいくつか設立しています。

たしかに、未亡人とは言っても27歳ですものねぇ…
隠居するには早すぎます。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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