なぜかダントツの人気を誇る
フランツ・ヨーゼフ妃 “ シシィ ” エリーザベト・アマーリエ
フォン・バイエルン
1837~1898/在位 1854~1898
出ました! いにしえの王侯貴婦人を語る上ではずせないシシィ。
この人気はいったいなんなんだ?
確かにお美しい! でもそれ以外に彼女が残したものっていったい何があるのかしら?
さらさらと彼女の生涯をご紹介しますね。
母のルドヴィカはバイエルン王女で、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹です。
皇帝の母后として宮廷で絶大な力を誇っていたゾフィーは
姪のヘレーネと息子フランツの縁談をまとめ、お見合いをすることになりました。
ところが、フランツは一緒に来ていた妹のエリーザベトに恋をしてしまったわけ。
このように初めて母親に反抗するような形でフランツが結婚したので
ゾフィーはエリーザベトが大っっキライになったと言われていますけどね…

1854年に結婚してウィーンにやって来たシシィは
宮廷の堅苦しい儀式やしきたりにうんざりします。
しかも姑ゾフィーの目がギラギラ光っていて気が休まりません。
生まれた子供は「教育のために」とすぐにゾフィーに取り上げられてしまいました。
シシィは「もう役目は果たしたし!」てな感じで宮廷から遠ざかるようになり
ひとりで過ごす時間が増えていきました。
1872年には宿敵ゾフィーが亡くなって、自分の天下になるというのに
やはり宮廷を避けて、次第に儀式やパーティーにも姿を見せなくなります。

こちら、有名な見返り美人の図
シシィと言えば旅する皇后。
ウィーンにいたくないばかりに、まずはヨーロッパ各地を巡り始めます。
そしてひとり残されたフランツが可哀想…と自ら紹介したのがカタリーナ・シュラット
変わってるよねぇ…愛人紹介しちゃうなんて。
シシィも何人かの男性と噂がありまして
一番有名なのは、ウィンストン・チャーチルの妻クレメンティーンの父と言われる
ジョージ・ミドルトンです。
それからシシィと言えばウエスト50㎝
が有名ですね。
とにかくほとんどの時間を美容と体型維持に費やしたという女性でして
太らないために、果物と野菜ジュース以外は口にしませんでした。
また、ブラッシングの時に髪が抜けると侍女をはり倒す!というぐらい
髪が自慢で大事にしたらしいですよ。

実物も美しいのでのせておきしょう
1889年、息子の皇太子ルードルフがマイヤーリンクで心中したことは
シシィに大きなダメージを与えました。
その後は襟元の詰まったドレス、白いパラソル、黒いヴェールが定番になりましたが
これは顔のしわを見せたくなかったから…ってな説もあります。あくまで噂ね。
その後はモロッコやエジプトへも足を伸ばして、相変わらず旅三昧の日々を送り
ウィーンにもどると、フランツと茶飲み友達のような穏やかな時間を過ごしました。
1898年、スイスのジュネーブを訪れ、付き添いの夫人と船着き場まで向かっていた時
要人暗殺を謀っていたイタリア人ルケーニィにいきなり刺されてしまいました。
彼は他の人物を狙っていたんだけど、表れなかったので変わりにシシィを刺したのです。
シシィは一度倒れたのですが立ち上がり、まわりの人々にお礼を言って
船まで歩いて行きました。
道々友人と言葉まで交わしています。
しかし船上で崩れ落ち、ホテルへ運ばれましたが息を引き取りました。
シシィの望みは海に葬ってほしいということでしたが
もちろん叶わずカプツィーナ教会に葬られました。
でもね、ウィーン市民はあんまり悲しまなかったんだって。
だってほとんどいなかったし、教会とか病院とか学校を建てたりとか
何か市民のためにしてくれたっていうわけじゃないからね。
それが今では他を圧倒する人気者。
きっとオーストリアの観光産業やみやげ物業界の一翼も担っているのでしょうから
それはそれで国のためになった皇后様と言えますね。
(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』
江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
フランツ・ヨーゼフ妃 “ シシィ ” エリーザベト・アマーリエ
フォン・バイエルン
1837~1898/在位 1854~1898
出ました! いにしえの王侯貴婦人を語る上ではずせないシシィ。
この人気はいったいなんなんだ?
確かにお美しい! でもそれ以外に彼女が残したものっていったい何があるのかしら?
さらさらと彼女の生涯をご紹介しますね。
母のルドヴィカはバイエルン王女で、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹です。
皇帝の母后として宮廷で絶大な力を誇っていたゾフィーは
姪のヘレーネと息子フランツの縁談をまとめ、お見合いをすることになりました。
ところが、フランツは一緒に来ていた妹のエリーザベトに恋をしてしまったわけ。
このように初めて母親に反抗するような形でフランツが結婚したので
ゾフィーはエリーザベトが大っっキライになったと言われていますけどね…

1854年に結婚してウィーンにやって来たシシィは
宮廷の堅苦しい儀式やしきたりにうんざりします。
しかも姑ゾフィーの目がギラギラ光っていて気が休まりません。
生まれた子供は「教育のために」とすぐにゾフィーに取り上げられてしまいました。
シシィは「もう役目は果たしたし!」てな感じで宮廷から遠ざかるようになり
ひとりで過ごす時間が増えていきました。
1872年には宿敵ゾフィーが亡くなって、自分の天下になるというのに
やはり宮廷を避けて、次第に儀式やパーティーにも姿を見せなくなります。

こちら、有名な見返り美人の図
シシィと言えば旅する皇后。
ウィーンにいたくないばかりに、まずはヨーロッパ各地を巡り始めます。
そしてひとり残されたフランツが可哀想…と自ら紹介したのがカタリーナ・シュラット
変わってるよねぇ…愛人紹介しちゃうなんて。
シシィも何人かの男性と噂がありまして
一番有名なのは、ウィンストン・チャーチルの妻クレメンティーンの父と言われる
ジョージ・ミドルトンです。
それからシシィと言えばウエスト50㎝

とにかくほとんどの時間を美容と体型維持に費やしたという女性でして
太らないために、果物と野菜ジュース以外は口にしませんでした。
また、ブラッシングの時に髪が抜けると侍女をはり倒す!というぐらい
髪が自慢で大事にしたらしいですよ。

実物も美しいのでのせておきしょう
1889年、息子の皇太子ルードルフがマイヤーリンクで心中したことは
シシィに大きなダメージを与えました。
その後は襟元の詰まったドレス、白いパラソル、黒いヴェールが定番になりましたが
これは顔のしわを見せたくなかったから…ってな説もあります。あくまで噂ね。
その後はモロッコやエジプトへも足を伸ばして、相変わらず旅三昧の日々を送り
ウィーンにもどると、フランツと茶飲み友達のような穏やかな時間を過ごしました。
1898年、スイスのジュネーブを訪れ、付き添いの夫人と船着き場まで向かっていた時
要人暗殺を謀っていたイタリア人ルケーニィにいきなり刺されてしまいました。
彼は他の人物を狙っていたんだけど、表れなかったので変わりにシシィを刺したのです。
シシィは一度倒れたのですが立ち上がり、まわりの人々にお礼を言って
船まで歩いて行きました。
道々友人と言葉まで交わしています。
しかし船上で崩れ落ち、ホテルへ運ばれましたが息を引き取りました。
シシィの望みは海に葬ってほしいということでしたが
もちろん叶わずカプツィーナ教会に葬られました。
でもね、ウィーン市民はあんまり悲しまなかったんだって。
だってほとんどいなかったし、教会とか病院とか学校を建てたりとか
何か市民のためにしてくれたっていうわけじゃないからね。
それが今では他を圧倒する人気者。
きっとオーストリアの観光産業やみやげ物業界の一翼も担っているのでしょうから
それはそれで国のためになった皇后様と言えますね。
(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』
江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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