![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a6/d00b5e384357f29e955b38dc350f5dc4.jpg)
ウィーンはお嫌い?
マクシミリアン2世妃 マリア・フォン・シュパニエン
1528~1603/在位 1564~1576
マリアの父スペイン王カルロス1世も母王妃イサベラも信心深いばりばりのカトリック、
てなわけで、宗教的には厳格に教育されたようです。
1548年、従兄のマクシミリアンと結婚することになりました。
スペイン王妃のところでも再三書いていたハプスブルク家の血族結婚ですが
ふたりが第1号らしいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/2a/145fdf7505def26a31cfea19e0b21598.jpg)
結婚後しばらくはカルロス1世の要望で摂政としてスペインに滞在したマクシミリアン夫婦は
1552年にウィーンへ移りました。
マリアはかなり敬虔なカトリック信者で、説教師たちをスペインから同行して
厳格なカトリックの普及に努めたらしいんだが
ハンガリーやベーメンでは新教が盛り上がりを見せていました。
実はマクシミリアンはちょっとプロテスタントに傾きつつあったんですね。
ふたりの間には16人のお子さんが生まれているのですが、衝突は絶えませんでした。
マリアは子供たちに多大な影響力を持っていて、特に長男ルードルフ(2世)などは
彼女の宗教観を受け継いでいました。
1576年にマクシミリアンが亡くなり、6年後にスペインに帰ったマリアは
「異端者のいない国で暮らせるなんて幸せなことよ!」とコメントしています。
1603年に亡くなるまで、大好きなスペインで暮らしたそうでございます。
その強い信仰心、もし権力を握っていたらイングランド女王メアリー1世や
フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス的な弾圧も辞さなかったかもね!
権力を欲しがるタイプの方ではなくて、本当にようございました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/f3/1a0557c17b595b0f485e5d7e7a1e6079.jpg)
年の差親戚婚
マティアス妃 アンナ・フォン・ティロル
1685~1618/在位 1612~1618
マクシミリアン2世の後皇帝になったのは次男のルードルフ2世(長男は夭逝)でしたが
未婚だったので、その後は弟のマティアスに帝位が移りました。
ルードルフ2世は芸術におおいに貢献した皇帝として名高いのですが
政治的には上手く国をコントロールできなかったみたいです。
実はマティアスはルードルフ2世のことをふがいなく思っていて
自分が皇帝になれば!という野望があったのです。
プラハに隠遁してしまったルードルフのもとへおしかけて帝位を譲れとせまったり
実力行使に及んだり… 兄弟喧嘩と言っても奪い合うもののスケールが違いますからねぇ。
そんなマティアスの妃は、従妹のアンナ。
アンナの母はマントヴァ公女アンヌ・カタリーナ・ゴンザーガで
従姉妹のエレオノーラが後に皇帝フェルディナント2世妃になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/75/87b7d2a705f9383ebff51184c40b794b.jpg)
マティアスは皇帝になったものの、やはり国政は上手くいかず
たった7年で亡くなってしまいました。
アンナはその3ヶ月前に亡くなっています。
親戚だ、という以外にエピソードがない皇后でございました。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
マクシミリアン2世妃 マリア・フォン・シュパニエン
1528~1603/在位 1564~1576
マリアの父スペイン王カルロス1世も母王妃イサベラも信心深いばりばりのカトリック、
てなわけで、宗教的には厳格に教育されたようです。
1548年、従兄のマクシミリアンと結婚することになりました。
スペイン王妃のところでも再三書いていたハプスブルク家の血族結婚ですが
ふたりが第1号らしいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/2a/145fdf7505def26a31cfea19e0b21598.jpg)
結婚後しばらくはカルロス1世の要望で摂政としてスペインに滞在したマクシミリアン夫婦は
1552年にウィーンへ移りました。
マリアはかなり敬虔なカトリック信者で、説教師たちをスペインから同行して
厳格なカトリックの普及に努めたらしいんだが
ハンガリーやベーメンでは新教が盛り上がりを見せていました。
実はマクシミリアンはちょっとプロテスタントに傾きつつあったんですね。
ふたりの間には16人のお子さんが生まれているのですが、衝突は絶えませんでした。
マリアは子供たちに多大な影響力を持っていて、特に長男ルードルフ(2世)などは
彼女の宗教観を受け継いでいました。
1576年にマクシミリアンが亡くなり、6年後にスペインに帰ったマリアは
「異端者のいない国で暮らせるなんて幸せなことよ!」とコメントしています。
1603年に亡くなるまで、大好きなスペインで暮らしたそうでございます。
その強い信仰心、もし権力を握っていたらイングランド女王メアリー1世や
フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス的な弾圧も辞さなかったかもね!
権力を欲しがるタイプの方ではなくて、本当にようございました。
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年の差親戚婚
マティアス妃 アンナ・フォン・ティロル
1685~1618/在位 1612~1618
マクシミリアン2世の後皇帝になったのは次男のルードルフ2世(長男は夭逝)でしたが
未婚だったので、その後は弟のマティアスに帝位が移りました。
ルードルフ2世は芸術におおいに貢献した皇帝として名高いのですが
政治的には上手く国をコントロールできなかったみたいです。
実はマティアスはルードルフ2世のことをふがいなく思っていて
自分が皇帝になれば!という野望があったのです。
プラハに隠遁してしまったルードルフのもとへおしかけて帝位を譲れとせまったり
実力行使に及んだり… 兄弟喧嘩と言っても奪い合うもののスケールが違いますからねぇ。
そんなマティアスの妃は、従妹のアンナ。
アンナの母はマントヴァ公女アンヌ・カタリーナ・ゴンザーガで
従姉妹のエレオノーラが後に皇帝フェルディナント2世妃になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/75/87b7d2a705f9383ebff51184c40b794b.jpg)
マティアスは皇帝になったものの、やはり国政は上手くいかず
たった7年で亡くなってしまいました。
アンナはその3ヶ月前に亡くなっています。
親戚だ、という以外にエピソードがない皇后でございました。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
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