
神に一生を捧げた皇女
マクシミリアン2世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
1567~1633
マクシミリアン2世とマリア・フォン・シュパニエンには16人のお子様がおりました。
皇女は5人ですが三女は生後1ヶ月で、五女は14歳で亡くなりました。
マルガレーテは四女です。
長女アンナはスペイン王フェリペ2世妃に、
次女エリーザベトはフランス王シャルル9世妃になりました。
血族結婚の香りがプンプン漂ってきましたね!

そんな中、マルガレーテはと言いますと、バリバリのカトリック信者である
母マリアから厳格な教育を授けられ、大きな影響を受けて育ちました。
1582年、母マリアは大好きなカトリック大国スペインに帰国します。
その際、末娘のマルガレーテを連れて帰りました。
たぶんお母様はスペイン王女としての生活をされたと思うんですけど
マルガレーテはシスター・マルゲリータという名で聖クレア修道会の
サンタ・クララ・デ・ラス・デスカルサス・レアレスの修道女になりました。
この修道院はファナ・デ・アウストリアが創立したものです。
66歳で修道女として亡くなり、修道院に葬られました。
とはいえ、母マリアや王妃マルゲリータ・デ・アウストリアとタッグを組んで
フェリペ3世にオーストリア支持を訴え続けたそうなので
宮廷とも行き来していたみたいですね。
私は最近王侯貴族の子女たちの教会・修道院問題に興味津々です。
教会・修道院に入ってからの生活ぶりも気になるし
懲罰のように修道院に入れられている王妃や王女がいるところをみると
修道院によって役割が違ったのかしら…という謎もあります。
それとも、どの修道院もモン=サン=ミッシェルのように牢獄を備えていたのでしょうか?
今後の課題にしたいと思います。

実家を敵にまわす?
フェルディナント2世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
バイエルン選帝侯マクシミリアン1世妃
1610~1665
マクシミリアン2世を継いだ次男ルードルフ2世は未婚でした。
四男マティアスは従姉のアンナ・フォン・ティロルと結婚しましたが嫡子無し、で
皇帝には従兄弟にあたるフェルディナント2世が即位しました。
フェルディナント2世と最初の妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンには
7人のお子さんが生まれましたが3人は幼くして亡くなりました。
長女クリスティーネも赤ちゃんで亡くなってしまいまして、マリア・アンナは次女です。

1635年に母方の伯父、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の二人目の妃になりました。
マクシミリアンは37歳年上です。
その年に前妃エリーザベト・フォン・ロートリンゲンを亡くしたばかりのマクシミリアンが
急いで再婚に踏み切ったのは、なにしろ嫡子が必要だったからでした。
マリア・アンナは期待に応えて二人の王子を生んでいます。
バーリバリのカトリック信者だったフェルディナント2世も
30年戦争まっただ中のこの次期、強力な同胞が必要だったに違いありません。
マリア・アンナは賢くて慎重で威厳はあり、しかも財政管理がしっかりしていたと言います。
前妃とは違って政治にも関心がありました。
その上待望の嫡子も生んでいるわけですから、宮廷での存在感も大きかったはずです。
閣議にも参加していました。
マリア・アンナは実家の政策にこだわらなかったばかりか
むしろ完全にバイエルン擁護にまわることもありました。
ハプスブルク家にしてみれば「あの子は何を考えてるんだか!」と
怒りたい時もあったででしょう。
もしかすると母マリア・アンナからバイエルンの良きところを聞かされて
バイエルンに愛着があったのかもしれませんね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
マクシミリアン2世皇女 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
1567~1633
マクシミリアン2世とマリア・フォン・シュパニエンには16人のお子様がおりました。
皇女は5人ですが三女は生後1ヶ月で、五女は14歳で亡くなりました。
マルガレーテは四女です。
長女アンナはスペイン王フェリペ2世妃に、
次女エリーザベトはフランス王シャルル9世妃になりました。
血族結婚の香りがプンプン漂ってきましたね!

そんな中、マルガレーテはと言いますと、バリバリのカトリック信者である
母マリアから厳格な教育を授けられ、大きな影響を受けて育ちました。
1582年、母マリアは大好きなカトリック大国スペインに帰国します。
その際、末娘のマルガレーテを連れて帰りました。
たぶんお母様はスペイン王女としての生活をされたと思うんですけど
マルガレーテはシスター・マルゲリータという名で聖クレア修道会の
サンタ・クララ・デ・ラス・デスカルサス・レアレスの修道女になりました。
この修道院はファナ・デ・アウストリアが創立したものです。
66歳で修道女として亡くなり、修道院に葬られました。
とはいえ、母マリアや王妃マルゲリータ・デ・アウストリアとタッグを組んで
フェリペ3世にオーストリア支持を訴え続けたそうなので
宮廷とも行き来していたみたいですね。
私は最近王侯貴族の子女たちの教会・修道院問題に興味津々です。
教会・修道院に入ってからの生活ぶりも気になるし
懲罰のように修道院に入れられている王妃や王女がいるところをみると
修道院によって役割が違ったのかしら…という謎もあります。
それとも、どの修道院もモン=サン=ミッシェルのように牢獄を備えていたのでしょうか?
今後の課題にしたいと思います。

実家を敵にまわす?
フェルディナント2世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
バイエルン選帝侯マクシミリアン1世妃
1610~1665
マクシミリアン2世を継いだ次男ルードルフ2世は未婚でした。
四男マティアスは従姉のアンナ・フォン・ティロルと結婚しましたが嫡子無し、で
皇帝には従兄弟にあたるフェルディナント2世が即位しました。
フェルディナント2世と最初の妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンには
7人のお子さんが生まれましたが3人は幼くして亡くなりました。
長女クリスティーネも赤ちゃんで亡くなってしまいまして、マリア・アンナは次女です。

1635年に母方の伯父、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の二人目の妃になりました。
マクシミリアンは37歳年上です。
その年に前妃エリーザベト・フォン・ロートリンゲンを亡くしたばかりのマクシミリアンが
急いで再婚に踏み切ったのは、なにしろ嫡子が必要だったからでした。
マリア・アンナは期待に応えて二人の王子を生んでいます。
バーリバリのカトリック信者だったフェルディナント2世も
30年戦争まっただ中のこの次期、強力な同胞が必要だったに違いありません。
マリア・アンナは賢くて慎重で威厳はあり、しかも財政管理がしっかりしていたと言います。
前妃とは違って政治にも関心がありました。
その上待望の嫡子も生んでいるわけですから、宮廷での存在感も大きかったはずです。
閣議にも参加していました。
マリア・アンナは実家の政策にこだわらなかったばかりか
むしろ完全にバイエルン擁護にまわることもありました。
ハプスブルク家にしてみれば「あの子は何を考えてるんだか!」と
怒りたい時もあったででしょう。
もしかすると母マリア・アンナからバイエルンの良きところを聞かされて
バイエルンに愛着があったのかもしれませんね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)