まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世皇女 マリア

2011-04-29 12:16:03 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
えーっと…特にはないんですけど
フェルディナント1世皇女 マリア・フォン・エスターライヒ
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム妃


1531~1581

マリアはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの三女です。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルムと結婚しました。
ヴィルヘルムの姉アンはイングランド王ヘンリー8世の4人目の王妃です。
特にエピソードが無いので家系図だけ…
           
娘のシビレは、兄の前部オーストリア(チロル)大公フェルディナント2世と
フィリッピーネ・ヴェルザーの ” 語り継がれる愛の物語 ” 貴賤結婚で生まれた
ブルガウ辺境伯カールと結婚しました。



              
こんな結婚させちゃいけない! 第2弾
フェルディナント1世皇女 カタリーナ・フォン・エスターライヒ
マントヴァ公フランチェスコ3世妃/ポーランド王ジグムンド2世妃


1533~1572/在位 1553~1572

カタリーナはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの五女です。
(四女マグダレーナはチロルのハーラー修道院の修道女になりました)

        
1549年に同じ年のマントヴァ公フランチェスコ3世と結婚しましたが
4ヶ月後にフランチェスコが17歳で亡くなってしまいます。

4年後、姉エリーザベトの夫だったポーランド王ジグムント2世と再婚しました。

ジグムントはエリーザベトの死後、最愛の女性だったバルバラ・ラジヴィウヴナと
念願の結婚を果たしていましたが、バルバラは1551年に急死していました。
証拠はありませんが、王大后ボナ・スフォルツァが毒殺したという噂でした。

ジグムントはバルバラの死にうちひしがれていました。
そんな人の後妻になるのは気がすすみませんね…
しかもきっとボナ・スフォルツアの姉への仕打ちも知っていたでしょう。

案の定この結婚もハッピーな結果にはなりませんでした。

カタリーナは結婚の翌年妊娠しましたが流産してしまいました。
ジグムントはこの流産を姉エリーザベトの呪いだと、おバカなことを考えます。
そしてそんなおバカな考えのせいで結婚を無効にしようと試みました。

結婚から13年後、カタリーナはポーランドを後にしてその後はリンツで過ごし
そこで亡くなり、サンクトフロリアン修道院に葬られました。

亡くなるまで王妃でしたので離婚はしていないみたいですね。
もしかしたら流産後の12年間は別居状態だったのかもしれません。
21歳から33歳という女盛りを無駄にさせられて…
姉妹揃ってこんな目に遭わされるなんて、ジグムントったらヒドいやつだ!
でもバルバラサイドから見れば逆境の愛を成就させた一途な男性なのか…韓流っぽいぞ。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

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