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私の東京平和散歩ー早乙女勝元著

2013-09-14 23:55:49 | 歴史散歩

西伊興にお住まいの作家の早乙女勝元さんが「私の東京平和散歩」を出版しました。10月14日に「出版記念パーティー」が開催されます。私も早乙女勝元さんから著者謹呈本をいただいたので、読んでみましたが、大変良かったのでプロローグの部分を紹介します。

千住桜木ー お化け煙突にあこがれ

足立区にあった、お化け煙突を知ってますか?」と聞いても、「さあ……」と首をひねる人が、ほとんどだろう。無理もない。お化け煙突が解体されたのは昭和三十九年で、半世紀余りも昔のことだ。
 かつて下町のシンボルだったそれは、東京電力千佳火力発電所の四本煙突で、見る場所と角度によって、四本がかさなりあって1本になったり、二本、三本になったりもする。おまけに時々思い出したように煙を吐き出すのが、俗称の由来だったかと思う。
 ボイラーの関係で、四本の煙突が菱形に配置され、そもそも予備発電の役割だったからだが、東京下町のどこからでも見えて、実に頼もしくも力強い存在だった。

 私は昭和七年三月に、足立区柳原に生を受けた。荒川放水路の上王手の長屋で小学校二年生まで過ごしたが、幼少期の記憶といえば寒さとひもじさばかり。しかし、いつも仰ぎ見るお化け煙突は、いじけきった心に勇気と希望を与えてくれた。
 朝、地平から昇ってくる太陽は、まず煙突の先端にぴかっと取りつき、雪の目には四本殖んでぼうとかすみ、また町中に濃霧が立ちこめると、ぽっかり空中に浮いて見える。そして、さあ仕事だぞとばかりに、真っ黒な煙をなびかせる。
 「おーい、煙突やあい」と、私は呼びかけたものだった。お前はいいなあ、太くてまっすぐで、仲良く元気で。ぼくもお前のようになれるかなあ。いつの日か、きっと……。

 四本煙突は、戦争末期のB29による東京大空襲にも無事に生きのびて、戦後に米軍が空中撮影した一枚にも、焼け野原の遠方にその存在が確認できる。私の成長と共にあった煙突群がなつかしく、解体後も何度か現地に足を向けたものだが、つい先頃、久しぶりにJR北千佳駅から、煙突のあった旧・千佳桜木町(現千住桜木)へと歩いてみて驚いた。 何もかもが変わっている。校庭に煙突下部の鉄管半円分が滑り台にされていた元宿小学校
(合併して千寿双葉小に)は、学校そのものがない。(鉄管は学校跡地にできた帝京科学大学にモニュメントとして保存されている。)少し南
に行った高台の千住桜木町公園に、お化け煙突を模した登り棒と半円形の金属製アーチが並び、写真付きの記念板があった。

 周囲に目をやると、はるか彼方に、建設中の東京スカイツリーが、くっきりと見えた。完成すれば630メートル余にもなるというが、私の心に生きるお化け煙突は、一本の高さが約八十四メートルだ。それでも東京一と信じて疑わなかったのは、当時の低い家並みのせいだろう。私が小さかったからか。ために、空は吸いこまれるほどに大きく、たっぷりと開けていた。

 


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