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入谷氷川神社(白幡塚古墳)の歴史散歩

2015-01-03 23:46:58 | 地域情報

今日から新年のあいさつ回りを開始しましたが、午後から入谷2丁目にある入谷氷川神社の近くを訪問した際に、遺跡となっている白幡塚古墳(円墳)を見学しました。

 

「毛長川の古墳」というサイトによると、入谷の氷川神社は次のように解説されています。

徳川幕府により編纂された『新編武蔵風土記稿』の入谷村の項によれば、その当時(1830年頃)墳頂に祀られていたのは氷川神社ではなく、八幡社であったとの事です。その後、鎮守を持たなかった入谷村の村人が「入谷村にも鎮守を」という事で氷川神社を勧請し、祀るようになったと伝えられております。

また、白幡塚は毛長川流域の古墳群では希有な墳丘がほぼ完全に残っている古墳で、墳丘が概ね残存しているのはこの他にはB群の白旗塚古墳のみです。
白幡塚と白旗塚は音と字義が同一な為に混同される事がありますが、全く別の古墳です。

白旗塚を「伊興古墳群中唯一残っている古墳」と紹介している文献がありますが、これは恐らく両古墳を混同しているものと思われます。従って、伊興古墳群、そして毛長川流域の古墳群でその姿を留めているのは、奇しくも同名の「白幡塚」と「白旗塚」の2基という事になります。

源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州討伐(前九年の役)に向かう際、白旗(源氏のシンボル)をこの塚上に立てて戦勝祈願をしたという伝説に由来するとされております。「白幡塚」の名の由来は岩槻攻めの際、この古墳上に白旗を立てたという伝説に因ります。
岩槻攻めが後北条氏によるものか、豊臣氏によるものかどちらを指しているのか不明ですが、いずれにしても両家のシンボルとして白旗は関係無いと思われる事、かつて墳丘上に八幡神社が祀られていた事を考えあわせるとこの地名説話の原形はB群の白旗塚と同様の源義家(八幡太郎)にまつわるものであったと思われます。